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眼の前に、扉がある。
最も安全で、最も安らげるはずの、わが家への扉だ。
ここ数ヶ月、そこは地獄であり、修羅の巣窟であった。
それが……変わるのか。もどるのか。
ノックした。一回、二回。
呼び鈴は鳴らさない。思えば、あの女と男も最初、呼び鈴を鳴らして、ここへ入り込んだのだ。すべてを終わらせたかった。
もう一度、ノック。二度。三度。
ドアが開いた。妹がそこに立っていた。とても、悲しんでいる眼をしている。
《高松の義雄》の死を確信しているのだ。いまならば、よくわかる。妹は、姉を……いや、それは言うまい……。自分が同じ立場でも、そうしていたかもしれないのだ。
たしかに自分は、義雄を殺せなかった。そのかわり、殺されそうになった。妹も拒否していたら、殺されていたかもしれない。「かも」ではなく、きっと殺されていた。
「ずいぶん、遅かったのね?」
「は、はい……」
妹の背後には、女もいた。監視の眼がゆるんでいるわけがない。
「道が混んでいました」
静岡の港を出たときは夕方だったのだが、いまではすっかり夜更けと呼ばれる時間になっていた。
「父さんと、母さんは?」
「奥にいるわ。はやく入りなさい」
言われたとおりに入った。
「あら? ジョージは?」
「あ、はい……どこか寄るところがあるそうで……」
「電話では、そんなこと言ってなかったけど」
船の上からかけたときだ。仕事は済んだ、これからもどる──そう男は言った。
言わされた。
「そう」
女の瞳に、一瞬だが疑惑の色が浮いた。が、すぐにそれも消えた。
「沈めたんでしょう?」
居間につくと、悪戯っぽく女がそう訊いてきた。
答えられない。
「まあいいわ、ボウヤ」
そのとき、呼び鈴が鳴った。
「ジョージ? でもヘンね、あんなの鳴らすなんて」
女の美貌が、すぐさま引き締まった。
「……まさか、警察がこんな時間にたずねてくるわけないわよね? つぐみ、みてらっしゃい」
忠実に、妹は玄関へ急ぐ。感情は、あいかわらず失ったままだ。
部屋には父と母のほかにも、たまに見かけるチンピラ風の男が一人いた。あの男──ジョージがいないあいだ、監視役に用意したのだろう。
女が一人のときは、手を叩くのは一回だ。
ほかに仲間がいたときは、その人数分、合わせて叩くことになっている。
合掌するように、手のひらを合わせた。
パン、パン!
* * *
開いた扉から顔を出した彼女の顔は、どこか凍りついたようだった。この時間の訪問はありえない。あるとしたら、緊急事態があったときだ──そう物語っていた。
「な、なんでしょう!?」
「ぼくがだれだか、わかりますね?」
いまは、制服を着ていなかった。彼女がそれでも自分の姿を認識していることに、健介は自信があった。
「諸橋さん。あなたたちを保護しにきました!」
彼女の瞳からは、そんなのは嘘だ、という感情が伝わってきた。
そんな日が来ることなどないと、あきらめていたのだ。絶望していたのだ。
「入りますよ」
彼女の了解も得ずに、健介は家のなかへ入り込んだ。奈々子と深海も、あとに続いている。深海の傷は浅くないはずだが、彼は病院へ行くことを拒否した。もちろん、奈々子や詩織は猛反対した。
おれを止めたければ、おれを殺せ──そう言われたら、もうだれも止められない。
廊下を抜け、居間への襖を開けた。
「なんだ、てめえは!?」
凄味をきかせた男の声が降りかかった。
合図は、二回。この男が、木島蓮美以外の寄生虫だろう。
「なんなの、あなたたちは!? あなた、制服警官ね? なんの権限があって、この家に入ってきてるの!? つぐみ!? なぜ、家に上げたの!? まさか、あなたが許可したわけじゃないわよね!?」
女──木島蓮美は、まくしたてた。写真のとおり、妖艶な美貌の主だ。だがその美しさが、いびつなものだということを知っている。
「ぼくたちは、警察庁特殊Mケース犯罪研究室のものです!」
「それがなによ、この家の住人は、あなたたちが入ることを認めていないわ。いいのかしら? 警察官といえど、裁判所の令状なしに踏み込むことなんて、できないはずよ」
「われわれに、令状は必要ない」
深海が、一歩前へ出て宣告した。
「あなた……運び屋……そう警察官だったの」
木島蓮実の声に、おびえがふくまれていた。
「わたしはなにも知らないわ! とにかく、令状を見せてちょうだい!」
「だから、令状は必要ない」
「そんなバカなこと!? わたしには、政治家の知り合いもたくさんいるのよ!? こんなことして、ただですむと思ってるの!?」
「だったら、その先生に問い合わせてみろ。われわれの権限は、法務大臣により特例として認められている。内閣官房長官の了承も得ているし、なんなら総理大臣にでも訊いてみろ」
その深海の様子からは、ケガ人という痛々しさは感じない。それどころか毅然とした態度は、鋼のように強固だった。
「な、なんですって!?」
「でもね、あなたの後ろ楯になってる政治家先生、はたしていまでも、あなたに便宜をはかってくれるかしら?」
言ったのは、奈々子だった。口調はやわらかなのに、とても痛烈な棘を感じた。
「あ、そうそう。あなたが切り札にしている《たつおちゃん》だけど、いまごろ立候補とりやめの会見準備でもしてるんじゃないかしら?」
あきらかに、木島蓮美の美貌が凍りついていた。
「あ、あなたたち……なにをしたの!?」
「婚約も解消されるでしょうね。もちろん、与党の大物である宮根大悟からも見捨てられるでしょう」
からかうように、奈々子は続けた。
宮根の娘との縁談がすすめられていた城崎達郎が、潰されたということだ。
なぜ、奈々子がそんな裏事情に精通しているのかという疑問は、もうもたないことにした。健介にとっては遠い世界の話だし、政治の闇に巻き込まれたくもない。
「いまをもって、この家の半径三十メートル以内への立ち入りは禁止された。ただちに出ていってもらう」
「なんですって!?」
「われわれに逮捕権はないが、警告を聞き入れない場合、地元警察によって公務執行妨害罪で逮捕されることになる」
「わたしは認めないわ!」
「それから、江原と八木も逮捕されてるぞ」
八木秀明──。死体処理を請け負っていた男。《高松の義雄》という人物をドラム缶に詰めて殺そうとした……。
「いままでヤツが遺体を沈めていた海域はわかっている。おまえと江原丈治がこれまでにやってきたことも見当はつく。この家の長女、諸橋琴音の殺害でも、神奈川県警が調べるだろう」
「ちがうわ! 琴音を殺したのは、この子よ!」
木島蓮美は、つぐみのことを指さした。
健介は、怒りがこみ上げてくるのを自覚した。許せなかった。しかし、感情のまま罵声を浴びせようとするまえに、深海の鋭い声が発せられていた。
「ふざけるな! 平和な家庭を壊した報いはうけてもらう」
「……!」
「それと──、広島での件も追求されるだろう。むこうでも、やってるみたいだな? 待ってるぞ」
まるで、誘うように深海は囁きかけた。
待っている?
「処刑台の前で、地獄の番人が待ってるぞ。おれには見える。なぜだかわかるか?」
それに答える者はいなかった。
「おれも、そっち側の人間だからだ」
裁く側という意味だろうか? それとも、地獄の側という意味だろうか?
木島蓮美の顔面は、蒼白となっていた。
「い、いやよ……」
呆然とつぶやいた。
「いやよ!」
一転して、絶叫。
「なんとかして!」
手下と思われるチンピラに懇願する。
「こいつら、皆殺しにしてっ!」
言われた男は戸惑いながらも、バタフライナイフを抜いた。
「あなただって、罪に問われるわ! 皆殺しにするしかない!」
「そ、そんなこといったって……」
もしかしたら、この男もまた、木島蓮美のコントロール下におかれているのかもしれない。冷静に考えれば、抵抗すべきでないことはわかるはずだ。この場にいる全員を殺したところで、逃げきれるわけがない。彼がどの程度の犯罪行為に手を染めているのかさだかでないが、ここで殺人を犯せば、それだけ罪を重くし、それこそ処刑台に近づくことになる。
「お、おれは……逃げるぜ!」
「待ちなさい! こいつらを殺しなさいっ!」
だが木島蓮美は、男の逃走を許さない。
「じょ、冗談じゃねえ!」
「だったら、よこしなさい!」
木島蓮美は、男からバタフライナイフを奪い取った。
「やめろ。ムダなことは」
深海は、刃を恐れることなく、木島蓮美に近づく。勇太がいれば、なんなく彼女を取り押さえることができるだろう。だが彼とは、船上で別れたままだ。おそらくいまごろは、静岡県警で、江原丈治と死体処理屋の八木の引き渡しに関する事情を訊かれているはずだ。
あの船の下に、多数の遺体が沈められているという。明朝からは、静岡と海上保安庁の合同で捜索がはじめられることになる。彼も、特殊Mケース犯罪研究室の代表として、立ち会うことになっているようだ。
「こ、こないで!」
木島蓮美が、ナイフを振った。深海は、よけない。その鼻先を刃がかすめていく。
深海は、恐れない。刃物の圧力程度では、深海を止めることなどできない。たとえ銃器を前にしても、同じことになるだろう。
なにが深海を駆り立てるのか? その行動理念には、なにがあるのか?
いつか聞いた、天沼詩織の語った話──熊本県警時代のこと。
助けられなかった被害者。
繰り返しはしない……その意思が伝わってくる。
木島蓮美の握るナイフの刃を、ゆっくりと深海はつかんだ。
なぜだか、痛々しくはなかった。深海の手から、血流がこぼれる。
「もう終わりだ」
その怪我だけではない。深海は、太股に銃弾を浴びている。貫通しているようだが、普通ならば重傷だ。なのに、とても静かな声だった。
「もう悪夢は終わりだ」
* * *
もう悪夢は終わりだ──。
そんな日が来ることはあきらめていた。
自分だけではない。父も、母も……妹の顔を見ても、同様の思いなのがわかる。
妹が泣きだした。感情を無くしていたはずなのに、いままでこらえていたものが決壊したのだ。とめどなく、とめどなく。
妹を抱きしめた。胸のなかで妹は泣き崩れる。父も、母も、いつのまにか寄り添っていた。家族で泣いた。これからの悲しみを耐えるのも、家族いっしょだ。
「諸橋琴音さんは、もう……?」
昨日まで警官姿だった男性が、ためらいがちに言った。
妹は、首を振った。ちがう。殺したのは妹ではない。家族みんなの責任なのだ。
しかし妹は、なおも首を振りつづける。
「まさか?」
疑問の声を投げかけたのは、ナイフを素手で握った男だった。運転手役だと思っていたのだが、ちがっていた。あの女は、いまでは外から入ってきた私服刑事に確保され、運転手役は白衣を着た女医と思われる女性によって手当てを受けている。
「生きてるのか?」
妹は、今度は縦に振った。
「どこにいる!?」
「……わかりません……あの人が……」
そのとき、もう一人いた女性の携帯が鳴った。あの、場違いに美しい女性だ。
「勇太? ごくろうさん。そっちはどう? え? え!? どういうこと!?」
「どうしたんですか、奈々子さん?」
「名古屋市内の八木の隠れ家から、保護されたって」
「だれがですか?」
「諸橋琴音さん」
なにがおこっているのか、まったく理解できなかった。
「つぐみさんは、殺せなかったのね?」
妹は、うなずく。
そうか。自分が《高松の義雄》を殺せなかったように、妹も、姉を殺せなかった。
「八木にお願いしたそうね、琴音さんを殺さないように」
また妹はうなずいた。
「八木のような男が、素直に願いを聞いてくれたんですか?」
「バカね。そのさきは言わないの。つぐみさんが命を懸けたにきまってるじゃない」
命を懸ける……。あの爬虫類は、なにかしらの交換条件を出したのではないか。
むろん、金銭ではないだろう。妹個人の貯金などたかが知れているし、この家の資産は女と男に支配されていたのだから、自由にできる金などなかった。
とすれば……。哀れむように、妹を見てしまった。
己のあさはかさを呪った。妹は、信念をもって行動したのだ。
姉を助けるために、最善を尽くしたのだ。その思いを汚すことはできない。
助けられた姉にしても、あの爬虫類に……いや、もうそんなことは考えまい。
考えるべきことは、これからのことだ。
家族を再生するんだ。
終わったのだから……。
そう。
悪夢は、終わったのだ。
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名古屋の自分の部屋で、女が保護されたということを刑事から聞かされて、秀明は戸惑いをおぼえた。
朝、部屋を出るときに、秀明は女に伝えていたのだ。
おまえは、自由だと。どこへ行ってもかまわないと。
──女は本当なら、とっくにいつもの場所に投棄しているはずだった。瀕死の女を港へ運ぶ途中、女の妹が監視役の男の眼を盗んで、囁きかけてきた。
お願いします。姉を助けてください。
プロに徹することを第一とする秀明にとっては、聞き入れられないことだった。それに、《荷物》の生死には関与しない。ただ自分は、依頼されたものを処理するだけなのだ。
ただでとは言いません。女の妹は、そう切り出した。
報酬は依頼主からもらうことになるから、それはできないと断った。お金を持っているようにも思えなかった。
報酬は、わたしではダメですか? 秀明は、ダメだとはね除けた。子供に興味はない。
だったら……姉ではどうですか!? 恐ろしいことを提案された。姉の命を助けてと頼んでおいて、その姉を差し出すというのだ。
秀明は、妹に言った。それでは、このまま死んだほうが幸せではないのかと。
わたしはそれでも、生きていてほしい……妹は、そう答えた。生きていれば、希望はあると。彼女たちが生き地獄のなかにいることは、察することができる。それでも希望があるというのか?
ギャンブルは、やらない。そう、秀明はギャンブルをやらないはずだった。
賭けてみたくなった。
この女を助けて、妹が言うように、女自身が希望をみいだせるのか。それとも、あのまま死んだほうがよかったと後悔するのか……。
秀明は、妹からの願いを承諾した。港近くの作業場にしている倉庫につくと、監視役の男と運転手をパチンコにでも行ってこいと言って、外に出した。その間に女を隠し、なにも入っていないドラム缶をコンクリートで詰めた。男と運転手がもどってくると、女が息を引き取ったので、俺がすべてやっておいたと嘘を言った。
あとはいつものように、船でドラム缶を捨てに行った。
それからは約束どおり、女を部屋まで連れ帰って、自分の所有物として幾度も抱いた。最初のうちは死にそうな状態だったが、それなりに治療をしてやったら、元気になっていった。
逃げるようなことはなかった。依頼主から、相当な拷問をうけていたようだ。強固な洗脳がそれをさせないのだろう。
何度も抱いているうちに、情のようなものが生まれていった。もちろん、愛などとバカバカしいことは言わない。同情だろうか……あまりにも女の境遇が哀れに思えたのだ。
朝、小田原へ出発するまえに、秀明は女を殺そうと考えた。プロとしてやっていくためには、女への感情は命取りになる。
できなかった。そのときに、自分の運命は決まっていたのだ、と思う。こうなることは自然の流れだったのだ。
取り調べの刑事に、秀明は、まず女のことをしゃべった。名古屋の部屋に、被害者だった女がいるかもしれないから、保護してやってくれ──と。
本当にいるとは思わなかった。ここ最近は洗脳も解けかかっていたようだから、すぐに逃げるものだと。いや、逃げてほしいと思っていた。
これからは、幸せな人生を歩んでもらいたい……。
もう、おれのような人間と関わり合ってはいけない。
そうか。楽園だ。
これまで、あの海に創っていた楽園は、偽物だった。
人の幸せを願う心のなかにだけ、本物の楽園は存在するのだ。
賭けは、負けだ。
あの妹の勝ちだ。
やっぱり、ギャンブルはやるもんじゃない。




