32
「まつんだ──ッ!!」
健介は叫んだ。むこうの船上では、銃をかまえた男が!
撃たれようとしているのは、二〇代前半の青年──諸橋隆だ。
すでにだれかが撃たれたらしく、銃声が数秒前にも轟いていた。だれに被弾したのか、それともはずれたのかは、角度的にクルーザーからはわからなかった。
声を放ったことで、銃の男の意識が、こちらにそれた。諸橋隆が、すぐに射殺されることはなさそうだった。そのかわり、ドラム缶を押しはじめた。
「ん?」
健介は信じられないものを見た。倒されたドラム缶から、頭だけが出ている。人間の入ったドラム缶を海に沈めようというのか!
そして、思い出した。
勇太の報告……深海さんがドラム缶で──そのようなことを……。
「ま、まさか……あれが、深海さん!?」
一気に、背筋が危機を知らせた。
まずい! 落ちてしまう!
クルーザーがむこうの船につくまでには、もう少しかかりそうだった。
「やめるんだ!」
どんなに叫んでも無駄なのはわかっていた。しかしそれでも、大声を張り上げた。
すると、どうだろう。銃の男がドラム缶押しをやめることはなかったが、諸橋隆が男につかみかかったではないか。
が──、実力差は歴然で、すぐにはね除けられてしまった。
拳銃は、男の口にくわえられている。だから、すぐに撃たれるということはないはずだが、それでも守らなければならない被害者である彼を、これ以上、危ないめに遭わせるわけにはいかない。それはわかっている……わかっているが、本音をいえは、彼に深海を救ってもらいたかった。
簡単に諸橋隆をあしらった銃の男は、ドラム缶をさらに押す。
もうどうすることもできない。
人の詰められた重いはずのドラム缶が、波打つ海原へ投下された。
「あ──ッ!」
思わず、絶望の念を吐き出していた。海中へ沈んでいく。
いまから海へ飛び込んだとしても間に合わない。いや、間に合ったとしても、あれだけのドラム缶を一人で持ち上げることは不可能だ。いくら水のなかでは重さが軽減するといっても、数人は必要になる。
「健介くん!」
奈々子に呼びかけられた。
だが、なにをどうすればいいというのだ!?
「池田さん!」
詩織にも名を呼ばれた。
ぼくは、どうすればいい!?
こうして考えをめぐらせているあいだにも、ドラム缶は沈んでいく。人の頭は、まだかろうじて水上にあった。あと二秒もしないうちに、それも海水に消える。
もうダメだ!
(それがどうした?)
そのとき、健介の頭のなかで、なにかが弾けた。
(あきらめるのか!?)
あきらめない──!
健介は、竿を取った。この距離ならば、はずしはしない。
ドラム缶の位置よりも、遠くへキャストした。着水と同時に、ルアーを滑らせる。ルアーはフローティングミノーだから、リールを巻けば、潜る。巻くのをやめれば、浮く。
繊細なリトリーブさばきで、沈みゆくドラム缶をとらえる。
(ここだ!)
勘だけを頼りに、健介は竿を天に振り上げた。巨大魚のあたりに合わせるように。
ルアーの針は見事、ドラム缶に噛みついた。
重い。ジャイアント・トレバリー並の重量感。
ムリだ。これでは、針もラインもロッドも、もたない。
もちろん、糸を巻くどころではない。
しかし、少しでも落下を遅らせることができれば……。
いや、それができたとしても、深海の命を救うことなどできないのではないか!?
考えるな!
いまは、バラさないように全力をそそぐしかない。
「……!」
刹那、視界のすみに海へ飛び込む勇太の姿が。
武術だけでなく、泳ぎまで常人離れしていた。瞬く間に、ドラム缶までたどりついた。
勇太がドラム缶を水中でつかまえている。いくらあれほどの身体能力を有していたとしても、あのドラム缶を支えつづけられるわけがない。
健介は、ロッドを握る腕に力を込めた。入れすぎないように……わずかでも力が入りすぎたら、たちまちラインブレイクしてしまう。ごくごくゆっくり、リールを巻く。
勇太の協力で、じょじょに……ドラム缶がクルーザーに近づいてくる。速度は急激に落としてあるが、それでもクルーザー自体も近寄っているから、想像よりも早くドラム缶を引き寄せることに成功した。
が、ここからが問題だ。
とてもではないが、ドラム缶を船に上げることは不可能だ。
「こ、ここまでです……」
健介は弱音を吐いた。
「池田さん、ロープかなにかで、船体にくくりつけましょう!」
詩織の提案が、天啓に聞こえた。
トローリングなどで、あまりにも巨大な魚が掛かったしまったとき、電動ウインチを搭載していない船では釣り上げられないことがある。そういうときは、やはり無理に上げようとせず、船体に結わき付けるのだ。
深海には申し訳ないと思ったが、溺れないようにして、船体のわきにいてもらおう。
「健介くん、これ」
奈々子が、船内から何本かのロープを取ってきてくれた。
「深海さん、もう少し我慢してください」
そこではじめて健介は、ドラム缶から頭を出しているその顔を見た。
「え!?」
それは、深海ではなかった。
「だ、だれ……ですか!?」
知らない人物だった。
「わ、わしゃ、高松の義雄だで……」
疲労困憊といった様子の男性は、どこ地方の訛りなのかわからない言葉でつぶやいた。
「ドラム缶に詰められたのは、深海さんじゃなかったんですか!?」
健介は思わず、奈々子のほう見た。奈々子は、すぐさま視線をそらしていた。
次いで、まだ海上にいる勇太へ瞳を向ける。
「ちがうッス。奈々子さんから、そういうふうに健介くんに報告してくれって、指示されてたッス」
「ど、どういうことなんですか!?」
「そ、そんなことより」
ごまかすような奈々子だったが、たしかにドラム缶をどうにかしなくてはならない。健介は、勇太にロープを渡した。彼は、すぐさまドラム缶を固定し、体重を感じさせない身のこなしで船上に帰還した。
間髪をいれず、クルーザーが向こうの船への移動を再開した。ドラム缶を落とした男が拳銃を口にくわえたまま、呆然とこちらを見ていた。信じられない、とその表情が告げていた。飛び移れるような距離になっても、男が行動をおこすことはなかった。
先陣を切って、勇太が相手方の船に飛び移った。健介も、数テンポ遅れて移動する。ここまで沖に出てくると、穏やかな海原に見えても、波は荒い。落下の恐怖をおさえて、どうにか飛べた。
拳銃をくわえた男は、後ずさりするように甲板の中央へさがっていた。
思い出したように、口の拳銃を右手に持ち替えた。自動式だ。地域課しか知らない健介は、リボルバー式の拳銃しかあつかったことがない。オートマチックとなると、それがどういうメーカーのなんという銃なのかわからなかった。
「トカレフTT-33ね」
いつのまにか、となりにいた奈々子が放った声だった。
男でも足がすくんだというのに、彼女は平気な顔をしていた。詩織だけは、クルーザーに待機している。心配そうな顔で、こちらを眺めていた。
健介は、この船に移ったことで、ようやく状況を飲み込めた。
船上に倒れている男が二人。その一人は、太股を撃たれている。出血が、甲板を染めていた。
「深海さん!?」
ドラム缶に詰められたのではなく、この船に同乗していたらしい。
「大丈夫ですか、深海さん!?」
深海は、瞳の輝きだけで無事なことを伝えていた。
「え!? 深海さんが、どうかしたんですか!?」
健介の声が聞こえたのか、クルーザーから詩織が心配げにこちらをうかがっていた。
「太股を撃たれてます!」
「そんな……!」
青ざめた顔になったのが、遠くからでもわかった。
すぐそのあと、健介はわが眼を疑った。助走もつけることなく詩織が飛び移ってきた。健介が移動したときよりも、波の影響で船と船の距離はあいてしまっていたというのに。
「深海さん! 血が……」
あわてたように、詩織が深海の大腿部にハンカチを押し当てる。
「そうか……こいつ、警察官か。俺はハメられたってわけか」
拳銃の男が愚痴を吐くようにつぶやいた。
倒れているもう一人の男は、佐野警視が調べてくれた江原丈治という男だった。こちらは意識がない。外傷はないから、気を失っているだけのようだ。木島蓮美の姿はなかった。そして、もう一人……さきほど銃口を向けられていた青年が、へたるように尻餅をついていた。
「諸橋隆さんですか?」
彼から、返事はなかった。茫然自失といった様子だ。
「諸橋隆さんですか!?」
強めに繰り返した。
「は、はい……」
* * *
これは、夢か……。
彼ら、彼女らは……救いの神なのか?
「そ、そうです……諸橋隆です」
「ぼくらは警察庁のものです! あなたを、あなたたち家族を保護します!」
その言葉が、胸の深いところに突き刺さる。本当に……本当に、そんな日が来たのか?
信じられなかった。
「警察庁!? なんだ、そりゃ!? 神奈川か、静岡じゃないのか!?」
爬虫類が、疑問の声を放っていた。
「ぼくらは、警察官じゃない。逮捕権はもっていないが、裁判所の許可がなくても、被害者の周囲を立入禁止にすることができる」
「俺は、そんなやつのことは、どうでもいいんだ。逮捕できないってことはよ、俺がここで逃げても、追ってこれないってことだよな?」
途端に、爬虫類に余裕がもどっていた。
警察庁を名乗った彼は、押し黙ってしまった。そういえば……彼の声には聞き覚えがある。家をたずねてきた警察官ではないのか?
「どうやって逃げるというの? ここは海の上よ。わたしたちに逮捕権はないけど、逮捕権のある警察を呼ぶことはできるわ。まあ、管轄は海保になるけどね」
言ったのは、美しい女性だった。こんな血なまぐさい場面など似合いそうもない……。
「それに現行犯なら、一般市民にも逮捕権は発生するのよ。銃刀法違反に殺人未遂。立派な犯罪だわ」
「銃を持ってる人間を止められるのか? たしか、私人逮捕における実力行使は限られるんだよな? そっちに武器があったとしても、それは使えない」
女性は言い返さなかった。爬虫類の語ったとおりなのだろうか……。
「俺は、どこだろうと逃げるぜ。おまえらのようなやつは見たことがない。沈めたドラム缶を引き上げちまうんだからな。まともに相手なんてしてられねえ」
爬虫類は、船の縁までさがった。本当に、海に飛び込むつもりだ。
そのとき、場違いなメロディーが流れた。携帯の着信だった。どうやら、美しい女性のものらしい。女性は、すぐに出た。
「サノッチからよ」
だれからなのかを知らせるように、女性は言った。
そして二言、三言会話を交わし、携帯を耳から離すと、画面をみつめる。だが警察官の彼はそれどころではないようで、爬虫類を逃がすまいと、じょじょに歩を詰めて牽制している。もう一人の飄々としたたたずまいの男性と協力して、爬虫類を追い詰めていく。
爬虫類のほうも、いつ海へ飛び込もうか、タイミングをはかっているようだった。こんな沖では、陸まで泳ぎ着くのか疑問だ。まさしく生死をかけたダイブになるだろう。覚悟がさだまらないのも、うなずける。
「健介くん!」
「奈々子さん!?」
奈々子と呼ばれた女性が、携帯を『健介くん』に差し出していた。
「これ見て」
「え……、これ」
* * *
佐野警視から送られてきた画像には、見覚えがあった。
通話もまだ切れていないようなので、健介は携帯を耳にあてた。
「警視……これ……」
『見てくれたか?』
「は、はい……見ましたけど……」
『その男は、《シンカー》と呼ばれる裏社会の人間だ。どうやら死体処理を専門にやってるようだ。これまでに一回だけ逮捕はされたが、不起訴になってる。なんせ、処理した遺体がみつからないから罪に問えなかったんだ。それでな、この《シンカー》が、葛飾区で行方不明になっている福島時江の失踪にかかわっているらしいことがわかった。あのハングレどもを締め上げつづけたら、ようやくゲロった』
ということは……福島時江さんは……。
『残念だが、福島時江の殺害を完全に自供した。そして、その処理を《シンカー》に依頼したそうだ。そしてこの男、なんと驚くなよ、きみに調査をお願いされた江原丈治と木島蓮美とも接点があったんだ。一度だけ逮捕されたってのが、広島だ。広島でも行方不明になってる人間がいるって言ったろ? つまり、そのときの処理を《シンカー》がやったんじゃないかと思うんだ。広島県警はそうふんだが、結果はいま言ったとおりだよ』
長々とした会話だったが、送られてきた画像を眼にした時点で、ほとんどが素通りしていた。
『《シンカー》の本名は、八木秀明。四二歳。広島で釈放されてから、これまで所在は一切わかっていない。もしかしたら、木島蓮美と江原丈治の前に現れるかもしれないから、注意しといてくれないか? 池田くん? どうした、いま取り込み中なのか?』
「その男なら、ここにいますよ……」
『え? どういうことだ? きみたちは、いまどこにいるんだ!?』
「連絡はあとでします。必ず、《シンカー》を捕まえますから」
健介は、携帯を奈々子に返した。
「八木秀明こと、《シンカー》だな?」
「へへ、そうか……まえに依頼をうけたことのあるクズどもが逮捕されたって聞いてたから、イヤな予感はしてたんだが……どうやら、あのクズのだれかがゲロっちまったんだな」
「あなたも、同じぐらいのクズじゃないか!」
「俺はクズじゃない。プロだ」
「いままでに、どれだけのご遺体を……」
健介は、それ以上、口にすることができなかった。殺したのがこの男でなかったとしても、断じて許される行為ではない。
「すべて自供するんだ! どこに隠したのかを……」
「なんのことだか、わかりませんなぁ」
おちゃらけたような態度が、怒りを通り越し、殺意すら感じた。
「これまでの遺体は……すべてこの下だ」
その声は、深海のものだった。詩織に肩をかりて、立ち上がっていた。太股にはハンカチが巻かれていたが、完全に止血できたとは思えなかった。
「チッ、そこじゃなくて、心臓か頭を撃ち抜いときゃよかった」
「おおかた、殺しはポリシーじゃない、とでも考えてたんでしょうね」
その強い皮肉は、奈々子のものだ。
「あなたを逮捕します。なにがなんでも!」
「逮捕権はなかったんじゃないのか?」
「なくてもかまわない!」
健介に、引く気はなかった。
いまの健介には、ルールも法律も、行動を制限する理由にはなりえなかった。
「だったら、ポリシーを変えてやるよ。ここにいる全員を殺してでも逃げてやる!」
八木は、一旦は下ろしていた銃口を再び持ち上げた。
照準の先には、健介の眉間がある。
二人のあいだに、勇太が割って入った。
いくら体術の天才といえど、弾丸相手ではどうすることもできないはずだ。
「みんな、さがってください!」
「勇太さん!」
「いいからさがりましょう、健介くん」
奈々子に言われて、健介は数歩、後ろへ。
「おまえ、バカか!?」
犯人になじられても、勇太の立ち姿には微塵も隙はうまれない。健介からは背中しか見えないが、いつもの無造作なかまえだ。
「だったら、死ねや!」
〈バンッ〉
癇癪玉を太くしたような破裂音が、波濤のざわめきを引き裂いた。
健介は身体を伏せながら、奇跡をかいま見た。
「よ、よけた……」
八木がはずしたのではない。たしかに、よけたのだ。
もう一発!
「う、うそだろ……」
銃声の余韻に、八木のつぶやきが溶け込んだ。
その気になれば距離を詰め、彼を拘束することもできるはずだ。しかし勇太は、同じ間合いを確保している。何発でもどうぞ──まるで、そう表現しているかのようだ。
その姿勢が、八木から抵抗する意思を奪ったのだろう。
「わ、わかった……抵抗しない……」
八木は、拳銃を海へ捨てた。
とはいえ、健介たち特殊Mケース犯罪研究室のメンバーは、手錠を所持していない。
「はい、これ」
奈々子へ振り返ると、彼女はロープを持っていた。ちょうど、クルーザーにあったような太いやつだ。ドラム缶に巻きつけるよりは容易だった。両手首と腰に巻き、船の手すりにくくりつけた。
「いいですよね?」
すべて終えてから、遅ればせながら深海に確認をとった。深海は、仕方ない、というため息を吐いただけだった。それとも痛みのために、それどころではなかったのかもしれない。
「海上保安庁と静岡県警、神奈川県警、および警視庁には連絡したわ。わたしたちには、まだやることが残ってる。急ぎましょう」
これからの段取りをすませた奈々子が言った。
そうだ。まだ諸橋家のみんなを助け出したわけではないのだ。
「勇太は、ここに残って」
「わかったッス」
「待て……こいつに、ひと働きしてもらおう」
深海が声をあげた。
その視線のさきには、ずっと意識を無くしている江原丈治の姿があった。




