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「どんぶらこっこ、どんぶらこっこ」
義雄が口ずさんでいる。
ドラム缶から顔だけを出し、虚ろな表情で海を見ている。
「どんぶらこっこ、どんぶらこっこ」
精神をやられたのだ。もう、この船旅からはもどれない。
行くところまで行き着くしかない……。
* * *
そこは、小さな港だった。係留されているのは小型のクルーザーやヨットで、漁船などは見当たらない。伊豆の別荘地も近いから、金持ちが使用するようなところなのだろう。
小田原市内から県境を越え、はるばるここまでやって来た。途中からパトライトを点灯させて急いだこともあり、あれから四十分ほどで到着していた。飛田と運転席の同僚は越境したことにうろたえていたのだが、縄張りのない自分たちにとっては、どうでもいいことだ。これこそが、警察庁所属の強みといえる。
警察車両を降りると、健介たちは勇太の姿をさがした。
「こっちッス!」
それらしい人影に近づいたら、むこうから大声を飛ばしてきた。見れば、一艘の船が出航の準備を終えていた。クルーザーだ。甲板には大きめの釣り竿も数本置かれていた。クルージングだけではなく、トローリングをはじめとした釣りにも使われているようだ。
「これに乗ってください! 持ち主の方には事情を話して、乗せてもらえるようになってるッス!」
言われるまま、健介はクルーザーに乗り込んだ。そのあとに詩織が続く。足元が危ないので、健介は手を貸してあげた。奈々子、最後に勇太が上がって船は出航した。飛田たちの姿は消えていた。大あわてで神奈川へもどっているのだろう。
潮風が、健介の顔に吹きつける。となりにいる詩織の美しい髪が、踊るようになびいていた。小型のクルーザーなので、甲板部は狭い。それでも、だれも船室には入らなかった。操舵室は船室上部に設置されていて、甲板からハシゴを使って登るようになっている。甲板にいる健介からは見えないから、どういう人が運転しているのかわからなかった。こんな船を所有しているのだから、かなりの資産家なのだろう。脳裏のすみで、健介はそんなことを考えた。
いや、考えている場合ではない。すぐに気を引き締める。
船は、結構なスピードで水上を跳ねていた。
「どんな状況?」
奈々子の問いに、これまでのことを勇太が説明していく。風と波の音、海鳥のさえずりが邪魔をするが、どうにか聞き取れた。一通り耳に入れると、船上は暗雲に覆われた。
時を同じくして、それまで快晴だった空までも、雲に隠されていく。
「ドラム缶……」
事は、想像以上に深刻らしかった。
「向かってる場所は、あってるんですか!?」
広い広い海原。はたして自分たちの船は、どこへ向かっているものなのか。
「それは大丈夫ッス。深海さんは、GPS発信機を身につけてますから」
どうやら、それを頼りに進んでいるようだ。
それから何分経っただろうか。十五分から二十分経過したころ、前方に船が見えた。こちらのクルーザーよりは、だいぶ遅い。近づくにつれ、漁船のような造りだということが判別できた。
「あれですか!?」
周囲にほかの船はない。だれからも返事はなかったが、あの船でまちがいないだろう。
それなのに、クルーザーの速度はあきらかに落ちていた。
「どうしたんですか!?」
操舵室のほうに向かって叫んだ。
「あ、いえ、おれがお願いしたッス」
「どうしてですか!?」
「これ以上、近づくと気づかれるッス」
たしかにそうだが……そんな悠長なことを言っている場合だろうか?
「いいから、そういうことはこっちにまかせて。健介くんは、自分のできることをして」
奈々子にそう諭されたが、自分にできることとはなんだろう?
「はい」
手渡されたのは、甲板に置かれていた釣り竿だった。トローリング用ではなく、ルアーフィッシング用のものだ。港近くでスズキを釣るためのものか、沖でブリやカンパチなどの大型回遊魚を狙うためのものだろう。つけられているルアーがメタルジグのような金属製の重いものならば沖で、木やプラスチック製の軽いミノーやバイブレーションならば沿岸で使う。
いまついているのは、フローティングタイプのシーバス用ミノーだ。その気になれば、すぐにでもキャストして、釣りをはじめられる。が、断じて釣りなどしている状況ではない。
「冗談はやめてください」
健介は、釣り竿を置きなおした。
* * *
突如として、船が停まった。舵を握っていた爬虫類が、甲板に降りてきた。
「ここに落とす」
冷たく宣言した。
「どんぶらこっこ、どんぶらこっこ」
義雄はあいかわらず、それを口ずさんでいるだけだ。もう命乞いをする気力もないらしい。
「おい、手伝え」
爬虫類は、自分と男と運転手に言った。
「この場所で大丈夫なのか?」
と、運転手。
「こんな沖に沈めりゃ、もう浮かんでくることもないし、潜るやつもいねえよ」
「定置網とかに引っかからないか?」
「大丈夫だ。ここの底は切り立った岩場が続いてるから、漁はおこなわれない」
「くわしいな」
「ああ。このヘンの海は、子供のころからよく知ってる。オヤジが漁師だったからな」
「仕事のときは、いつも《ここ》なのか?」
その運転手の言葉が、胸の奥を突き刺した。もしや……姉も《ここ》に!?
「き、聞かせてくれ!」
勇気を振り絞って、声をあげた。下手をすれば、義雄ではなく、自分も底に沈められてしまうかもしれない。
「姉さんも、ここに……!?」
爬虫類は答えなかった。
……答えなかったが、答えが見えたような気がした。
「ん?」
そのとき、爬虫類が見当違いの方角を向いてしまった。どうしてなのか、すぐにわかった。遠くに船がある。その船を見ているのだ。
「まさかな……」
なにか思うことがあるようだ。
いや、すぐに視線をもどし、冷徹な爬虫類にもどっていた。
「ボサッとするな。はやく沈めるぞ」
凍えるような眼光で睨まれると、命令に従うしかなかった。男に手を貸し、ドラム缶を押していく。そこで、おかしなことにつきあたった。運転手が手伝おうとしないのだ。
「おい、どうした!?」
爬虫類に一喝されても、運転手は動こうとしない。
「チッ! 勝手にしろ!」
しかたなしに、爬虫類と自分と男とで、ドラム缶を海底へ落下させようと……なにを考えている! そんなことをしたら、義雄は本当に死んでしまう!
姉と同じように……。
「お、教えてくれ……姉さんも、ここの下なのか!?」
「そんなに知りたいか?」
「お、教えてくれっ!」
「なら教えてやる。俺はプロだからな、手当たり次第に死体を処理するわけじゃない。一流のプロになればなるほど、同じ場所にこだわるのさ。いいから、はやく落とすぞ!」
言うだけ言って、爬虫類はドラム缶落としを急がせた。
「姉さんは、この底に……」
「安心しろ、おまえもすぐにあの世へ行くんだ」
静かな声で、恐ろしいことを爬虫類は言った。
「あたりまえだろ。おまえは、ここの場所がどういうところなのかを知ってしまったんだ。いいか、俺から進んで教えてやったわけじゃない。おまえが聞きたがったんだ。自己責任だよ、自己責任」
目茶苦茶な理屈だった。自分が悪いのか、殺されるのは……。
だったら、手伝うのはイヤだ!
「おい、はやくしろや」
その恫喝に恐れをなしたわけではない。爬虫類の手に、拳銃が握られていたのだ。
「いま殺してもいいんだぞ。これを落とせば、少しは生かしておいてやる。家族に最期の別れぐらいさせてやる」
なんて卑怯な言いぐさなのだ……従うしかないじゃないか……ないじゃないか……。
次の瞬間、心臓の細胞一つ一つが核爆発をおこした衝撃にみまわれた。
〈ボンッ〉
銃声が轟いた。死んだ、と思った。
だが……撃ったのは爬虫類ではなかった。運転手が天へ向かって、発砲していた。
上空が赤い色に染まっていた。運転手が放ったのは、信号弾(そういう呼び名でいいのだろうか……)だった。発煙筒のようなやつだ。
「な、なにやってんだ!?」
爬虫類が、人間のように鼻白んだ。
運転手のわきには、意識を失った男が転がっている。どういうことなのだ!?
すると、聞こえた。エンジン音だ。
「な、なんだ!?」
遠くに碇泊していた船が、凄まじいスピードでこちらにやって来るではないか!
「そ、そうか……やっぱり、勘は信じておくべきだな……」
爬虫類は、銃口を運転手に向けていた。
「て、てめえ……いったい……こうなりゃ、皆殺しだ!」
引き金にかけた人差し指が、動いた。
〈バンッ!〉
運転手の右太股が射抜かれた。鮮血がしぶく。
続いて、こちらに銃口が移動した。眼をつぶった。すべてを覚悟した。
「まつんだ──ッ!!」
その絶叫に命を救われた。視界のなかに、クルーザーが!
もうこんなに近づいていたのだ。
「クソッ! 俺の楽園は、こんなことで潰れねえ!」
爬虫類はそう叫ぶと、拳銃を口にくわえて、ドラム缶落としを再開した。
「やめろッ!」
自分のことなのに、信じられなかった。
大声をあげて、爬虫類に挑んでいた。




