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もどかしい時間だけが過ぎている。
健介たちは、飛田の警察車両に、強引に押し込められた。奈々子と詩織ともども、後部座席に三人が並ぶ。飛田は助手席、べつの一人がハンドルを握っていた。もう一人刑事はいたはずだが、いまはどこにいるのかわからない。
「どこへ行くつもり?」
奈々子の質問が車内に響いた。最寄りの小田原城下警察署へ向かっていないことは、乗車後すぐに予感できた。それでいて、飛田の勤務する県警本部にも向かっていないようだ。
「どこでもいいだろうがよ」
飛田は、とぼけることもしなかった。はっきりとした目的地はないようだ。しいて言えば、時間稼ぎなのだろう。
「神奈川県警の仲間たちには、知らせなくていいの? できるわけないかぁ」
「あ!? そりゃ、どういう意味だ!?」
「そのままよ。だって、わたしたちの妨害してるのって、知られちゃ困るんでしょ?」
「なに言ってやがる。妨害なんかしてねえ。おまえらが不審人物だから、捜査してるだけなんだよ」
「いつまで、その余裕が続くかしらね。刑事部長からの指示だからってタカをくくってるんでしょうけど、その部長様が失脚しちゃったら、あなたなんて、道端に落ちてる石ころよりも価値は低いのよ」
「て、てめえ!」
「むかしむかし、あるところに──」
突然、奈々子が脈絡を無視して、そう語りだした。
「頭の悪い小役人がおったそうな」
それが飛田のことを比喩していることは、なんとなくわかった。
「小役人は、この地をおさめる殿様の命令で、好き勝手に暴れていました。しかし殿様は、あるとき暗殺されてしまったのです」
子供向けのむかし話風だったものが、急に生々しくなった。
「後ろ楯をなくしてしまった小役人は力をなくし、町民から袋叩きにあったそうです。めでたしめでたし」
まったくもって、めでたい話ではなかった。
「こ、このやろう!」
飛田は身を後部席に乗り出して、殴りかかろうとした。
「宮根大悟は、どう思うかしらね?」
だが、奈々子の口からその名が出たとたんに、動きを止めた。
「み、宮根……大悟? あの政治家の?」
健介の問いに、奈々子は答えてくれない。
「どうせ、本人は知らないんでしょ? まあ、あなたのような下っ端じゃ、よくわからないか」
「奈々子さん!?」
「宮根の娘が結婚するんですってね。その相手が、アレね」
奈々子は、窓の外を指さした。ちょうど、車は赤信号で停まっていた。奈々子の指の先には、選挙ポスターが貼ってあった。来週おこなわれる衆院補欠選挙のものだ。候補者は二人しかいないから、奈々子の指がどちらの人物に合っているかは一目瞭然だった。
城崎達郎という男だった。年齢はまだ若く、三〇代後半だと思われる。主婦層に人気の出そうな候補者だった。
「アレの頼みをきいちゃったんだ、あなたのとこの部長」
「な、なにいって……」
「あなたもバカよね。市議会あがりの、あんな政治家にもなってないような青二才に、なんの権力もないってのに」
いったい、奈々子はなにが言いたいのだろう?
「アレのむかしの女が、木島蓮美。彼女から頼み事されたのね。もしかしたら、ゆすられるような弱みを握られていたのかも」
木島蓮美が、ここの市議会議員だった若手政治家と関係がある!? 奈々子は、どうしてそんなことを知っているのだろうか……。
いや、まて。奈々子に、木島蓮美と江原丈治の報告をしただろうか?
していない。小田原についてすぐ飛田たちに拘束されたから、そんな時間はなかった。なのになぜ、木島蓮美のことを知っている!?
ここへ到着するまえに、佐野警視から連絡があったのだろうか?
「て、てめえ……何者だ!?」
それは、いささか間の抜けた質問だ。こちらの素性なら、飛田もよく把握しているはず……。
そのとき、車内に携帯の音が響いた。奈々子の携帯だった。
「あら、サノッチからだ」
飛田などいないかのように、奈々子は電話に出た。
「あ、サノッチ? なにかわかった? え、ええ、そうなの、わかった、ありがとう。またなにか情報をつかんだら、よろしくね」
あまりにも明るい声で話すものだから、通話が終わったと同時に、車内が図書館のように静まりかえっていた。車のエンジン音は、こんなにまで大きかっただろうか。
「あ、あの……佐野警視は、なんて……」
奈々子がすぐには言おうとしないから、健介はうながした。
「健介くんが頼んでたんでしょ? 江原丈治が、広島でおこした詐欺事件」
「あ、はい」
「それでね、広島県警にもっといろいろと聞いてくれたのよ。で、詐欺容疑は濃厚だったけど、結局、逮捕されなかったのは、どこからか圧力があったんだって」
「え?」
「でね、その圧力は、木島蓮美がなんらかの働きかけをしたんじゃないかって」
そこまで言って、奈々子は微笑んだ。首だけをめぐらせていた飛田に見せつけるような笑みだった。女性の笑顔とは、これほどまでに恐ろしいものだっただろうか!?
「こういうことかなぁ。木島蓮美は、城崎経由で、宮根大悟の権力を使ったのかなぁ」
「さっきから、木島蓮美とか江原とか……いったい、なんのこと言ってるんだ」
「宮根は、知らないでしょうねぇ。でも城崎は、自分が宮根の娘と恋人であるということを最大限に利用していた」
木島蓮美と江原丈治のことは聞き覚えがないという飛田だが、宮根大悟と城崎達郎のことは否定しない。もっとも、宮根のほうは有名な与党国会議員。城崎のほうも、ここの市議会議員出身で、次の補選で国政を狙っているということだ。県の職員である飛田なら、普通に考えれば知っていて当然だ。
「広島……いえ、もしかしたら、べつの土地でもそういうことを繰り返していたのかもしれない。木島蓮美と江原丈治は。だけど江原は、神奈川で逮捕・服役している。わたしは思うの。さすがに二人は、やりすぎてしまった。だから、軽微な罪で服役させることにした。そうすれば、もっと重い罪を闇に葬れる」
奈々子が言わんとしていることに、健介は絶句した。
「宮根のお膝元でもある、この神奈川でね」
「そ、それって……」
再び携帯が鳴った。
「あ、またサノッチだ」
すぐに出た。
「──そう、やっぱり。たびたび悪いわね。じゃまた」
「こ、今度はなんなんだ!?」
「広島でね、江原丈治と木島蓮美に関係していたと思われる人物のなかで、行方不明になっている女性がいるそうよ」
「ま、まさか……」
健介は考えたくもない想像に、悪寒がはしった。その女性にも、なにかを……。
立て続けに携帯。
「勇太からよ」
佐野警視のときとはちがい、緊張をはらんだ表情で奈々子は出た。
「もしもし。わかった、ごくろうさま。引き続き、ポイントをお願い」
手短に通話は切られた。
「なんですって?」
「わたしたちも、現場に向かわなきゃ。深海さんがピンチよ」
とはいっても、運転しているのは飛田の同僚だ。おとなしく降ろしてくれるわけがない。健介は、どうするんですか、という視線を奈々子に向けた。
「こんな茶番はおしまいよ。これから言うところに、わたしたちをつれていって」
「あ!? なにバカなことを。俺が素直に、そんなこときくと思ってんのかよ」
飛田の言うとおりだった。この男が協力してくれることなどありえない。
「もうじきよ。もうじき」
「なにが、もうじきなんだ!?」
「連絡が来るころよ」
そう言いおわった直後に、携帯が鳴った。今度は、奈々子のものではなかった。
「はい、飛田です」
この刑事らしからぬ、丁寧な態度だった。が、通話の途中から様子がおかしくなっていた。
「え、そ、そんな……ど、どういう!?」
茫然自失といった調子で、飛田は携帯を耳から離していた。
「どう? わたしたちの言うこと、きく気になった?」
「……な、なにしやがった!?」
「なんにもしてないわよ。あなたのような悪いことは」
「ク、クソ!」
「と、飛田さん!?」
運転席の刑事が、たまらずに声をかける。
「こいつらを運んでやれ!」
吐き捨てるように、飛田は言った。
「で、でも……」
「当ててあげましょうか。部長様でしょ。血相変えて──まあ、声だけしかわからないでしょうけど、ずいぶん慌ててたんじゃないの?」
「なにをしたんだ……!?」
「さあ、なんのことだか」
奈々子は、妖艶な笑みではぐらかす。ただし、さきほどの恐怖だけの笑みよりも、ある意味、人を畏怖させるのに効果的だ。
「なにを仕掛けた!?」
「知らないわ。でも部長様は、いまごろ辞表でも書いてるんじゃないかしら。来月には、大きな人事異動で大変でしょうね、神奈川さんは」
これまでの奈々子の言動などから、彼女がただの内勤職員でないことは容易に想像がつく。しかし健介には、それを確かめることはできそうになかった。してはいけない。世の中には、知らなくてもいいことがたくさんあるのだ。
乾いたエンジン音を響かせて、車は進路を変えた。
深海は、無事だろうか? きっとあの人は、自らをルアーに見立てたのだ。フィッシュイーターを釣り上げるため、疑似餌になりきる。小魚のように揺れ動き、悪鬼を誘うのだ。
だが、そのルアーにかかった魚が規格外の大物だった場合、ラインは切られ、ルアーごと飲み込まれてしまうだろう。
「……」
健介は祈るような心境で、ただ到着を待った。




