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 千葉県茂原市郊外。山沿いを走る国道の両脇に、何軒かの家屋が集まっていた。

 その一つ。菊地たみ子の家のまえには、数台のバイクが停められていた。たみ子は、今年で七二歳をむかえる。独り暮らしだ。それなのに数台のバイク……。いずれも大型で、老女が運転できるような代物ではない。

 家の外観は、典型的な田舎の民家だ。なんとアンバランスな光景なのだろう。

 もうじき、夕方。時間が深くなるにつれて、オートバイの数は増えていく。

 また一台。また一台……。家のなかに入っていく若者もまた、この土地には似つかわしくない雰囲気をふりまいていた。

「かわりねえか?」

 最後に入ったのは、この集まりのリーダー格の男だった。

「はい」

「クソババアは?」

「あっちで、正座させてます」

 リーダーは、それを聞くと満足げに奥へと進む。

 ある部屋に入った。何人もの仲間たちが、それを仰ぎ見る。

「塚本さん、おはようございます」

 チンピラ風情の男たちが、リーダーに挨拶を。それだけで塚本という男の、このグループでの統率力がうかがいしれる。

 集団に埋もれるようにして、一人の老女──菊地たみ子が、畳の上で座っていた。いや、座らされていた。七二という年齢は、いまの世の中において、それほどの高齢というわけではない。だが、たみ子の容姿は、すでに九十歳を超えているほどの老衰感が滲み出ていた。

 彼ら……この悪鬼どもが寄りつくようになってから、はや半年近くになるだろうか?

 最初のきっかけは、ささいなものだった。

 このなかの三人が、ある夜、家をたずねてきた。ツーリングをしていたら、道に迷ってしまったという。そのときには、こんな乱暴な男たちだとは思わなかった。国道をまっすぐ進めば、市の中心部に出られることを教えてあげた。そして、その日は暑かったので、家に上げて麦茶を一杯ずつ御馳走してあげた。

 彼らは礼を言うと、気の良い感じで帰っていった。

 だが次の日も、彼らはやって来た。おばあちゃん、遊びに来たよ──と。

 たみ子は、そのときには食事を御馳走してあげた。

 それでは終わらなかった。次の日も……次の日も……。

 一日か二日、来ない日はあっても、三日目には姿を現す。

 最初のころは、それほど悪い気はしなかった。むしろ親切にしてくれるし、こちらの話も聞いてくれる。だから、深刻にはとらえなかった。

 それが……だんだんと人数が増え、彼らの態度も横柄になり、金までせびるようになった。年金暮らしのささやかな生活だ。もちろん、断った。

 彼らの本性を、そのとき悟った。

 殺すぞ、ババア! と脅されたのだ。

 恐ろしかった……とにかく、恐ろしかった。要求どおりに、お金を渡してしまった。

 その後も──数万、数十万、ついには百万を超える金銭も要求された。

 さすがにムリだと言ったら、殴られた。

 年老いた女であろうと、彼ら……この悪鬼どもには関係のないことだった。

 もう恐ろしくて、恐ろしくて、彼らには逆らえなくなった。

 ある日、近所の住人が、いつも停まっているバイクを不審に思ったのか、駐在さんに相談してくれたらしい。駐在さんが、この家を訪れた。午前中だった。彼らが集まってくるのは午後三時を過ぎたあたりだが、常時だれかが見張りのため家にいる。そのときも、二人の男がいた。

 駐在さんに、あのバイクはだれのものなのかと問われたが、孫のものです、と答えた。

 顔に痣もあったはずだから、駐在さんは、なにかに巻き込まれているのではないかと心配してくれた。

 なんでもないんです──としか言えなかった。

 真実を話せば、どんな仕打ちをされてしまうのか……。想像するのもおぞましい。

 首をひねりながら、駐在さんは帰っていった。

 いまさら、近所の人には相談できない。東京で暮らす息子にも……。

 いつでも見張られているのだ。

 地獄だった。これが、生き地獄なのだ。

「ババア! 明日、金おろしに行くぞ」

 塚本が、残酷に命令する。当然のことながら、一人では行かせてくれない。手下のだれかに付き添わせるのだ。

「も、もう金はないです……」

 パンッ! という音を、なぜだか冷静に聞いていた。

 殴られることの免疫ができていた。

 殴られた瞬間に、自分のなかに別の自分が生まれるのだ。

 そのもう一人の自分が、音を落ち着いて耳にする。

 痛みよりも、恐怖のほうが大きかった。

 とにかく恐ろしい……恐ろしい。

〈ピンポーン〉

 呼び鈴が鳴った。

 だれだろうか? この悪鬼たちの仲間なら、勝手に入ってくる。

「なんだ? おい、ババア! またてめえ、警察とか呼んだんじゃねえだろうな!?」

 塚本に胸ぐらをつかまれた。

「し、知りません……」

 本当に知らない。警察に知らせる勇気もなければ、そんな隙もなかった。

「おい、クソサツだぜ!」

 窓から外を見た仲間のだれかが、そう言った。

「てめえ!」

 塚本の手に、力がこもった。

「ぐうう……」

 窒息しそうだった。このままあの世へ行ったほうが、楽なのかもしれない。

「塚本さん、どうしますか!? 居留守つかいますか!?」

 そこで塚本は、平常心を取り戻したようだ。

 手を放しながら、冷たく言った。

「どうにか追い返せ! いいか、ヘタなこと言ったら、てめえ、殺すぞ!」

 たみ子は、背中を蹴られた。その勢いで、立ち上がった。

 みじめだと思った。

 たとえ警察官でも、この現状は変えられない。これまでに、それをイヤというほど思い知らされている。なんとか穏便に帰ってくれればいいが……。

 玄関へ歩き出しはしたが、昨夜からずっと正座をさせられていたから、足が痺れている。とはいえ、そんな言い訳はできない。ここで倒れたら、どんな仕打ちが待っているか……。

 必死に、玄関まで歩いた。

「ど、どちらさまでしょう……」

 力なく応対した。

「あ、警察です」

 扉の向こうから、ほがらかな声がする。

 まったくといっていいほど、こちら側の地獄を理解していなかった。

「菊地さん、どうですか? おかわりありませんか?」

「は、はい……」

 このまま帰ってもらいたかった。なにごともなく、やり過ごさなければ……自分の命が危ないのだ。

「あの……開けてもらえませんか?」

「い、いえ……いま、たてこんでおりますので……」

 おとなしく立ち去ってもらえるはずだったのに、なぜだか扉は開いていた。

 最後に入った塚本たちは、鍵をかけていない。だから、開けようと思えば開けられる。

 しかし住人が拒絶しているのに、それを無視する警察官がいるだろうか?

 以前、ここへ来た人とはちがう。

 まだ幼く、なにもわかっていない呑気そうな若輩者だった。


        * * *


 耳のインカムから、なかへ入れ、と命令があった。

 健介は、視線を深海が乗っているワゴン車へ向けた。今朝、合流したばかりだというのに、初っぱなからこんな重要な役目をやらされている。

 午前中は、ずっと『特殊Mケース犯罪研究室』の自席で待機していた。午後になってから移動をはじめた。警視庁からワゴン車に乗せられると、千葉県の山のなかへつれてこられた。千葉に、こんな山奥があるなんて考えたこともなかった。茂原という地名は知っていたが、ニュース映像かなにかで見たことがあるのは、市中心部の普通の町並みだ。千葉も広いということを思い知らされた。

 到着して、車内で制服に着替えるよう指示された。いつも着ていたものだから、私服よりも慣れている。その格好で、地元でやっていたように民家を訪問してくれということだった。

 わけのわからないまま、菊地という表札のかかっている家の呼び鈴を鳴らした。

 秩父では、交番勤務だった。というより、それしかやったことはない。埼玉県民以外で秩父というイメージは、ド田舎を連想させるかもしれない。が、市内はそれなりに賑わっている。だから、こんな山中の民家を訪問する経験はなかった。とはいえ、足腰の悪い老人の家をたずねる機会は多い。自転車での警邏中に、そういう家庭を見回るのも、地域課員としての重要な職務なのだ。

 おそらく、こういう場所では、交番ではなく『駐在所』なのだろう。地元でも、中心部以外のエリアには駐在員が派遣されている。家への見回りは、同じようなことをしているはずだ。予想をふくめれば、きっと派出所勤務よりは、住人に対して、よりフレンドリーなのではないだろうか。

 なかの住人といくつか言葉を交わし合ったが、健介の訪問をあまりこころよく思っていないようだった。なかには、警察官、というだけで毛嫌いしてくる人間もいる。

 事情はわからないが、とにかくこの家の住人の心を開かせればいいのではないか?

 独自の解釈を固めたところで、健介はドアを開けた。家人の心を開くことと、扉を開くことが象徴的に重なった。

 玄関に立った老婆の表情が、凍りついていた。彼女の意向を無視して、扉を開けてしまったからか。開けられると困ることでもあるのだろうか?

「どうも、池田といいます」

 こちらが名乗っても、反応はない。

 その顔には、一目で痣だとわかる変色が見て取れた。

「菊地さん、いいですか? 入りますよ」

 そう告げると、一瞬遅れて、鬼気せまる形相になった。

「こ、こまります! 帰ってくださいっ!」

 叫ぶように、老婆は声をあげた。

「なにがあったんですか? だれかいるんですか?」

 家の敷地内には、十数台のバイクが停められている。ということは、ここにその持ち主たちがいなくてはならない。

(おかしい……)

 そこでやっと健介は、ここの異常なシチュエーションに気がついた。深海たちにはなにも知らされていないが、なんだ、この家は!?

「だれかに暴力をふるわれたんじゃないですか!?」

「な、なんでもありません! いいから帰ってくださいっ!」

 かたくなに、老婆は拒絶する。

「そんなわけにはいきません。入らせてもらいますよ」

 かまわずに、踏み込もうとした。

「おい! いくら警察だからって、住人の許可なしに入っていいのかよ! 不法侵入になるんじゃねえか?」

 下卑た声が、不快に鼓膜へ伝わった。

「この男性は?」

 老婆と、二十代ぐらいの男性。しかも、粗暴な雰囲気の……。

 本来なら、ありえない組み合わせだ。

 彼女の孫ということは充分にあるだろう。だが直感が、ちがうと訴えていた。そして、気配を感じる。この男一人だけではない。奥に多くの人間がいるのではないか。

「あなたは、だれですか? この女性と、どんな関係ですか?」

「うっせえな、どうでもいいだろ!?」

「どうでもよくありません」

 男と小競り合いを繰り広げているさなかにも、老婆はおびえた顔をして蒼白になっていた。

「お、お願いです! 帰ってくださいっ!」

「あなたは、この男に──この男たちに、乱暴されているんじゃないですか!?」

 健介は問い詰めた。

 老婆は、首を横に振る。

 さらに数人の男たちが、なかから出てきた。

「なんだ、てめえ!」

「消えろよっ!」

 たとえ女性が否定しようとも、これはあきらかに異常だ。

 この粗暴な男たちに、ここは乗っ取られている。女性の弱みにつけこんだのか、力で脅しをかけたのか……どうにかして、ここへ入り込んだ。

 女性は、男たちの支配下におかれている。

 だから、自分から助けを求めることはしないし、警察が介入しようとしても、それを拒む。

 どうにかしなければ……。

〈確保しろ〉

 そのとき、インカムから指示があった。

 確保? しかし、肝心の老婆がそれを認めていない。玄関扉を開けはしたが、それ以上踏み込めば、こちらの立場がまずい。

 男たちの言うように、不法侵入ということになる。緊急事態であるならば、それも認められよう。だがはたして、これを緊急と解釈していいものか……健介には、判断できなかった。

〈確保しろ〉

 深海の声は、繰り返した。

 踏み込んで、男たちを逮捕するか?

 そもそも一人で、これだけの人数を相手にできるものなのか!? 先輩たちは、なにをしているのだろう。湖内勇太もいっしょに来ているのだから、体育会系の彼のほうが適任なのではないか……。

 だいたい自分にできる仕事なのか、これは!?

 こういうことは、もっと経験を積んだ人間がやるほうが……。

 心のなかで、やまない愚痴の嵐。

〈確保しろ〉

「ムリです!」

 たまらずに、健介は声を荒らげた。

〈いいから、確保しろ〉

「だれをですか!?」

 突然、声を張り上げたからか、男たちの表情が怪訝に歪む。

〈きまってるだろ、被害者を保護するんだ〉

 深海の言葉が、冷たく響いた。

「ど、どうやって!?」

〈強制的にだ〉

「え!?」

〈考えるな。とにかく確保しろ!〉

 男たちではなく、この女性を……。

 本人が、そう望んでいるわけではない。

 それを強制的に身柄を拘束しろということか!?

「菊地さん!」

「は、はい……」

 自身の名を強く呼ばれて、女性がビクつくように眼を見開いた。

「菊地さん、あなたを強制的に保護させていただきます!」

 二、三歩踏み出し、女性の腕をつかんで引き寄せた。

「さあ、行きましょう」

 戸惑う女性に靴を履かせ、外へ連れ出す。

「おい、待てよ!」

 男たちが、あとを追ってくる。

「なんでもねえって言ってんだろ!? 警察にそんな権限なんて、あんのかよ!?」

「菊地さんは、きみたちにおびえている。緊急措置だ。警察で保護をする」

「ふざけんな!」

「ふざけてるのは、あなたたちのほうだ!」

 健介は、激昂をおさえられなかった。

「この人に、暴力をふるってるな!?」

「知らねえよ! そのババアに訊いてみろ。なあ、オレたち、そんなことしてねえよな!?」

 老女は、答えられない。恫喝されたのでは、あたりまえだ。

「ほら、ちがうって言ってるだろ?」

「菊地さん、本当のことを言ってください。そうすれば、この男たちを逮捕できるんです……菊地さん!」

 しかし女性は、首を横に振るばかり。

「返してもらおうか、オレたちのカネヅルをよぉ!」

 喜々とした醜い笑顔をみせながら、男たちは彼女に手をのばしてくる。

 警察が相手だからといって、たじろぐ様子はない。自分たちの主張が通ると、絶対的に信じているようだ。

 もしかしたら、いままでにも、こういうことを繰り返してきたのかもしれない。

「こっちこいよ、ババア!」

 男の一人──おそらくリーダー格だと思われる男が、女性の腕を鷲づかみにした。

 その瞬間だった。

「いてぇ!」

 つかんだ手を引っ込めていた。

「いてぇ! なんだ、これ!?」

 リーダーの手の甲に、なにかが突き刺さっている。

 いや──、突き刺さっているというより、なにかがぶら下がっている。

 それは、見覚えのあるものだった。

 ルアー。

 深海が入念に手入れをしていた、あのルアーだ。

 針が深く刺さり、カラフルな小魚を模した飾りが、手の甲から生えている。

「い、いてえ! とれねえ!」

 釣り針には『かえし』がついているから、容易には取れないはずだ。

「食いついた、食いついた」

 いつのまにかワゴン車から降りていた深海が、そう声をあげた。

「て、てめえか!?」

 殺意に満ちた叫びが、深海を襲う。

「ルアーに食いつくのは、大食魚だ。おまえらは、小魚を食い尽くす」

「な、なに言ってやがる!?」

「湖内、保護対象者の敷地を隔離」

 リーダーを無視して、深海は命令を出す。すぐわきに控えていた湖内勇太が、男たちの群れに向かっていく。彼らのなかを突っ切って、家をめざそうと。

「て、てめえら!」

 怒りを爆発させた一人が、湖内に殴りかかった。

 だが!

 吹っ飛んだのは、その男のほうだった。

 男の腕をからみ取ったところまではわかったが、そこからは……。何気ない動作しかしていないのに、いまの技はなんだろう!?

 健介の眼には、どういう現象が起きたのか、かいもく見当もつかなかった。

「やりやがったな!」

 さらに、もう一人。やはり同じ結果になった。湖内の表情は変わらない。飄々と前進をやめなかった。武道の達人であることは、まちがいない。

 立て続けに圧倒的な実力をみせつけられて、男たちは襲いかかることをあきらめた。

 湖内は、玄関にたどりついた。

 スーツの内ポケットから、折り畳まれた紙を取り出した。

 それを開くと、扉にパシッと張りつける。

 なんだ、そりゃ!? と男たちが、その紙になにが書かれているのかを確かめようと、近くに集まった。健介も興味があった。男たちに混じる。

 湖内は、ポケットからさらに携帯用のテープを取り出して、丁寧に紙を貼っていた。

「なんだ!?」

 紙には『立入禁止命令書』と記されていた。

「現時刻から、菊地たみ子氏の所有地および居住区域への立ち入りを禁止する。破った者は、たとえ菊地たみ子氏本人からの許可を得ていたとしても、自動的に公務執行妨害罪が適用される。また、その周囲半径三十メートルに正当な理由がなく立ち入った場合も同様である。ちなみに公務執行妨害罪は、三年以下の懲役もしくは禁錮または五十万円以下の罰金」

 まるで法律書を読み上げるように、深海が長文を口にした。

 公務執行妨害罪?

 それならば、湖内に殴りかかった時点で成立しているのではないか? そもそも、そういう令状は裁判所が発行するもので、われわれの公務とはちがうものではないのか……。

 疑問が、次々とわき上がってくる。

「ただちに、退去してもらう」

「な、なに言ってんだ!?」

「10、9、8、7、6」

 おたがいの顔をさぐりながら困惑する男たちを無いことのように、深海はカウントダウンをはじめてしまった。男たちは、どうすることもできない。

 いや、健介も同じだった。突然では、どう行動してよいものか理解できない。

「3、2、1──公務執行妨害成立」

 深海が、そう宣言した直後、サイレンの音が響きだす。

 遠くだったものが、瞬く間に大音量で。

 数台の警察車両。覆面パトカーもふくまれている。その一台から先陣をきって飛び出してきたのは、川名奈々子だ。

「千葉県警のみなさん! 逮捕、お願いします!」

 その声を合図に、車両から降りた警察官が男たちを取り囲む。

 チンピラ全員が、あっというまに確保された。

「ふ、ふざけんな! 公務執行妨害!? おもしれーじゃねえか! どうせ、すぐに出てこれんだろ!?」

 リーダー格の男が、開き直りともいえる態度で威嚇する。

「おまえらに、《マエ》がなけりゃな」

 深海の声は、彼らの恫喝よりも冷酷な響きがあった。

「せいぜい、おびえてろ。必ず警察は、つきとめる!」


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