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健介は、小田原へ急いでいた。
前日は警視庁での用事を済ませたあと、アパートに帰って、そこで睡眠をとった。久しぶりに、ゆっくり眠れたような気がした。まだ自室に馴染んでいるわけでもないが、それでもホテルよりはリラックスできる。それに、詩織もいない。
朝の目覚ましは、奈々子からの連絡だった。勇太から報告があり、深海が諸橋家に行くことになった、と告げられた。そして深海は、そこで勝負をかけるという。
勝負、という表現はいささか的を射ていない。犯人との戦いは、勝ち負けの問題ではないのだから。が、健介は奈々子に対して、反論の言葉をのみ込んでいた。
すぐにもどることを伝えた。アパートをあわてるように出て、東京駅へ向かった。
新幹線に飛び込んで、小田原へ。速いはずの新幹線が、遅く感じた。気ばかりが焦る。
深海は、危険な賭けにでるつもりなのだ。一人で犯人たちのもとに潜入するなど、無謀にもほどがある。そもそも警察官は、おとり捜査を禁止されているはずだ。いかに、一般の警察官とはちがう『特殊Mケース犯罪研究室』であろうとも……。
連絡をうけてから一時間ほどで、奈々子たちに合流できた。やはり新幹線は速いものだった。場所は、泊まっていたホテルの前。奈々子、詩織と二十数時間ぶりに顔を合わせた。勇太はいない。いまでも深海を、遠くからサポートしているようだ。
「どうするつもりなんですか、深海さんは? だいたい、なにをしてるんですか!?」
奈々子の唇は重い。深海が、ある人物──おそらく架空の──になりすまして、諸橋家に入り込もうとしているところまでは教えられている。しかし、そこからどうやって、深海が解決までもっていこうとしているのかがわからない。
「いい? これからが正念場よ」
「なんのですか?」
「命令は覚えてるわよね?」
「深海さんになにがあっても、接触しないってことですか?」
「そう」
「深海さんは、これから危険なことをしようとしてるんじゃないですか!?」
奈々子は、押し黙ってしまった。
「池田さん……深海さんなら大丈夫です。信じましょう」
詩織の言葉にも、しかし不安がやどっている。
「わたしたちの仕事は、深海さんの身を案じて、救い出すことじゃない。救うのは、諸橋家の人々よ」
「諸橋さんたちを助け出すために、深海さんは行動してるんでしょう!? だったら、ぼくらも!」
「ちがう。わたしたちの相手は……」
奈々子の視線が鋭くなっていた。健介は、奈々子の睨む方向に眼をやった。
飛田がいた。同僚の刑事たち二人もいっしょだ。最初に会ったときと同じメンバーだった。
「どこに行こうってんだ?」
飛田は、さぐるように問いかけた。
健介くん──と、奈々子が耳元で囁いた。
「あの男は、わたしたちが諸橋さんの家に近づくのを妨害するつもりなのよ」
自分たち警察官を遠ざけているあいだに、木島蓮美と江原丈治はなにを仕掛けるつもりなのだろう?
「どこに行こうと、わたしたちの勝手じゃない?」
勇ましく、奈々子が声をあげる。
「また、おまえか。このあいだの暴言、忘れはせんぞ!」
「あなたのほうこそ、懲りてないのね」
「おまえらよそ者なんて、こわかねえ」
飛田は、意味ありげに笑った。吐き気のするほど、気持ちの悪い笑みだった。
「ちょっとよ、署のほうで話を聞かせてもらおうか」
「容疑は、なんなの?」
「いろんなのだよ。恐喝でもいいし、暴行でもいい。殺人ってのもいいな」
楽しそうに、飛田の下品な口は動きつづける。
「身元不明、死因不明の遺体なんて、日本中どこにでもあるんだ。東京だけじゃねえ」
言葉の端々に、東京へのコンプレックスが見え隠れしている。健介は、この男のことを哀れに思えてきた。
「来てくれるよな?」
有無を言わせぬ問いかけだった。健介は、さきほどとは逆に、奈々子の耳元で囁いた。
「どうするんですか?」
「この男は、深海さんの顔を知ってるわ」
警察署の前で、研究室のメンバーは全員、飛田と顔を合わせている。
「彼らが、わたしたちを諸橋家に近づけたくないように、わたしたちも、彼らを諸橋家に近づけたくないの。しゃくだけど、ここは、おとなしく従って」
* * *
携帯の声が漏れていた。いつもは聞こえることなどないはずなのに、今日はよく耳に届いていた。「東京の刑事たちは寄りつけないようにした」──だれかの声がそう言った。
それを聞く女の表情は、満足げだ。女は携帯を仕舞うと、男に目配せのような合図をおくった。万事整った、と言わんばかりだ。
それからしばらくして、《高松の義雄》がやって来た。
「おうおう、よろしゅう、よろしゅう」
いったい、どこ地方の挨拶なのか、あいかわらず見当もつかなかった。それとも高松では、みなこんな感じなのだろうか?
今日は、母も服を着ることを許されている。父と自分をふくめて、正座も強要されていない。だが、足を崩す気にもなれなかったが……。
義雄が居間のテーブルについた。座布団の上に胡座をかくと、すかさず妹がお茶を運んできた。義雄の正面には、女。男は一歩引いたところで、雑な姿勢で座っていた。まるで、時代劇に出てくる浪人崩れの用心棒のようだった。
父と母、自分は部屋のすみ、玄関へ続く襖の手前で並んでいた。
「さっそくですが、義雄さん。知り合いの社長にお会いしていただくまえに、権利書の確認をしてよろしいでしょうか?」
「おうおう、いいとも、いいとも」
義雄は、色褪せたスポーツバッグのなかを物色しはじめた。とてもではないが、価値のあるものが入っているとは考えられなかった。
「これでええかい?」
テーブルの上に、茶封筒が置かれた。
「あらためさせてもらいます」
そう断ってから、女がなかに手を入れる。
数枚の紙を取り出していた。『土地権利書』の文字が、たしかに見えた。
「では、義雄さん、こちらの書類のほうにサインしてもらえませんか?」
「サイン? おうおう、どんな書類じゃ?」
女は用意していた一枚の紙を、義雄に渡した。
「ふむふむ……権利書に記された土地を借金返済のため、木島蓮美氏へ譲渡し──ん?」
さすがの義雄も、顔色が変わった。
「どういうこつや、ベッピンさん! わしゃ借金などしとらんぞ」
「いいからサインしてよ、義雄さん」
女の瞳が、毒蛇のように冷徹な光をおびた。
「できんぞ、そんなこつ!」
男が義雄の背後に移動していた。羽交い締めのように、義雄の自由を奪う。
「さあ、サインと印鑑も頼むよ、実印もあるんだろ?」
「だ、だれが書くもんか!」
男の腕が、義雄の首にからんだ。
「このまま、絞め殺したっていいんだぜ」
「う、や、やめれ……」
義雄の顔が、おびえの相に支配された。ようやく、女と男の恐ろしさを知ったのだ。
もう遅い。遅すぎだ。
「書くのか、書かないのか!?」
「わ、わかっちゃ……書くっちゃ」
観念した義雄の姿に、途方もないほどの哀れさを感じた。自分もふくめて、父も母も妹も、助ける者などいない。そうなのだ。この家は、狂っているのだ。
義雄は、書類に署名した。そのときになって、はじめて義雄の苗字がわかった。
『高松』──ん!?
《高松の義雄》の高松とは、地名のことではなかったのか!?
「あった、これが実印ね」
スポーツバッグを物色していた女が、なかから印鑑を取り出していた。
「や、やめちぇくれ……」
義雄の懇願など無いことのように、女は判を押した。
「これで、高松にある山林は、わたしのものね。……え?」
そこで、女も気づいたようだ。
「ねえ、姓が高松だったの? この山林は、どこにあるのよ!」
女は、義雄のもってきた権利書をくまなく読みはじめた。
「どこにも書いてないわね……」
どうやら、場所を示す表記はないらしい。これまでに権利書を眼にしたことがないからよくわからないが、そんなことがあるのだろうか!?
「義雄さん、この土地、どこにあるの!?」
「い、言うもんか!」
「教えなさい」
しかし、義雄は口をつぐむ。
「……いいわ。どこにあろうが、調べればわかるんだから」
「お、おまんら、こげんこつして、ただですむと思うとるんか!?」
「すむわよ。義雄さんは、これから遠いところへ旅立つんだから」
女が、氷原に立つ悪魔に見えた。
「ここじゃまずいから、移動しよっか」
まるで子供が遊び場を決めるように、女は言った。
携帯でどこかへ連絡をとると、十分ほどして、二人の男たちが入ってきた。そのうちの一人には、見覚えがあった。姉が消えたときにも現れた男だった。
「表に、制服警官はいた?」
「いない。だれもいない」
ぶっきらぼうに、見覚えのあるほうが答えた。爬虫類のような顔をしていた。
「わかってると思うが、始末はそっちでやってくれ」
無機質に、爬虫類は言った。
「わかってるわ」
女は、男の耳元でなにかを話しかけた。
「おい! おまえ来い」
すると、男に呼ばれた。引っ立てられるように、義雄ともどもつれていかれる。家を出ると、ワゴン車に押し込められた。数週間ぶりの外出だというのに、感動も解放感もまるでない。男と、現れた二人によって、義雄、そして自分がどこかへ運ばれていく。前回にはいなかったもう一人は、運転手役のようだ。
ふつふつと恐怖が強くなる。そういえば姉のときは、自分ではなく妹だった。
妹は、なにをやらされたのだ!?
そして、自分はこれから……。
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依頼主とは何度か顔を合わせているが、むこうの名前は覚えないようにしている。こちらも名乗らない。ただ『処理屋』としか。
秀明が、後処理以外に関与することはない。
専門外のことはしない──それが、長く業界でやっていくコツだ。
名古屋から朝早く移動し、小田原市内で今回のパートナーとなる人間とはじめて会った。パートナーといっても、仲よしこよしでなにかをするというわけではない。人選も、こちらは関わらない。ただの《運び屋》だ。
これまでに知っている顔ではなかった。秀明も、それなりに経験を積んでいるが、まったく眼にしたことがない人物だった。年齢は自分と同世代だろうと、秀明は見立てた。相貌は鋭く、口は堅そうだ。無論、それはあたりまえの基本適性ではあるが。
言葉を交わすこともなく、《運び屋》の用意した車で、ある家まで行った。
むせかえるような瘴気が充満している家だった。
なにかのタガがはずれている。以前来たときよりも、悪化していた。
その部屋のなかで、一人の少女と眼が合った。
おたがいが、他人のフリだ。
そうだ。あれは、ただの気まぐれだ。もう忘れるべきことなのだ。
彼女のほうも、それをよく理解していた。
それでいい。
ふと、名古屋に置いてきた女のことを思い出した。
結局、つれてくることはなかった。
まだ《シンカー》は、錆びついていない。それが証明できたのだ。女一人など、ただの消耗品だ。
俺は、プロフェッショナルなのだから。




