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ホテルの部屋にもどってきた。フロントから救急箱を借りて、健介は治療を受けた。詩織の手によるものだ。どうやら打撲だけで、骨折には至っていないようだった。腕や背中の数ヶ所に湿布を貼ってもらった。
もらったのだが……。
「いいですか、池田さん。いつも白衣を着てるから医者みたいだと思われてるかもしれないですけど、わたしの専門はデプログラミングです。医者とは、なんのかかわりもありません」
なにやら詩織が、長々と語りだした。健介は、その意をくみ取る。
「き、気にしないでください」
健介の見える位置に貼ってある湿布は、どれも歪んでいた。皺ができ、とてもではないが、きれいとはほど遠い。
彼女、相当な不器用とみた。
しばし、居心地の悪い沈黙が流れた。
「……あんな、警察官がいるなんて……」
健介は憤りを吐き出すように、つぶやいた。
「深海さんも……」
昨日、詩織は言った。深海は、警察の力を信じていないと。
いまの自分と同じ気持ちなのだろうか?
「深海さんが信じていないのは、《警察》そのものではありません。たぶん、深海さん自身なんだと思います」
「?」
「詳しいことは、わたしも聞かされていないんですけど……むかし、深海さんは熊本県警の刑事だったそうです」
そういえば、奈々子や勇太の経歴はあるていど耳にしているが、深海のことは警部であるという階級以外なにも知らない。
「そこで、Mケースに類似の……いえ、Mケースの原点となった事件に遭遇したそうです」
熊本でもそんな事件が発生していたなど、初めての知識だ。
「助けられなかったそうです……深海さんは、それをいまでも悔いている……」
それで、自分を信じていない……。
「ですが、その失敗がいまの深海さんを形成しているのも事実です……正しいことをめざしているのなら、必ず逆襲する機会はめぐってきます」
それは、深海に対しての言葉だろうか、それとも健介に対しての励ましだろうか?
あの刑事たちへの逆襲……フィッシュイーターたちへの逆襲。
「……そうですね」
トントン、とノックの音がした。詩織が扉を開けると、そこにいたのは奈々子だった。昨日の詩織と同様、はじめて眼にする私服姿だ。制服のときは「婦警もののAVみたい」と感想をもったが、不思議とムダな色っぽさは控えめになっている。黒系のスーツが、理知的にみせているのだろう。
「奈々子さん」
「健介くん、大丈夫? やられちゃったんだって?」
「は、はい……」
「勇太も、しょっぴかれたようね」
「どこに行ってたんですか?」
「ちょっと、ヤボ用で」
奈々子は、ごまかすように答えた。そういえば、彼女はもともと神奈川の出身だったはずだから、地元の知り合いでもたずねていたのかもしれない。
「これから、どうしましょう?」
「そうね。深海さんもすぐに来るはずだから、それから今後の方針を決めましょう。諸橋正三さんの家には、なんらかの異常があるのね?」
「はい、ぼくはそう思います」
どこまで自信をもてばいいのかわからなかった。もしかしたら、思い過ごしなのかもしれない──その考えも、つねに頭のすみには残っている。
「勇太さんを取り戻すことはできないんですか? あれは、あきらかに不当逮捕です」
「でしょうね。警察庁のほうから、正式に抗議してもらうわ」
「でも、あの刑事さん……普通、あんなあからさまに妨害するでしょうか?」
そう疑問を投げかけたのは、詩織だった。
「ぼくも、おかしいと感じました」
「それなんだけど……いろいろ込み入った事情がありそうだから、健介くんも詩織ちゃんも、そのことは考えなくていいわ」
「は、はぁ……」
それで納得はできなかったが、奈々子の表情を見ていると、それ以上、深く踏み込んではいけない──そう感じた。
「あ、あの……、ぼくは、もう大丈夫ですので、できれば見張りにもどりたいんですけど……」
「待って、今日はもういいわ。とにかく深海さんが来るまで、ここにいましょう」
「でも……」
健介は異を唱えようとしたが、奈々子が会話を打ち切るように視線をそらした。そのまま言葉をのみ込んでしまった。
22
本当なら、電車に乗っていなければならない時間だった。
深海には、胸騒ぎがあった。いつもの場所を見ている。
もう二時間になる。このあいだの監視者が、また現れるのではないか。離れよう離れよう、そう思っても身体がいうことをきいてくれない。すでに、朝と呼ばれる時間帯は過ぎている。太陽も高い。住宅街の人の往来は、出勤時間を越えたいまでは、まばらなものだ。すると──。
深海は、眼を見張った。彼女が家から出てきたではないか。もちろん、それがめずらしいわけではない。出てきた彼女に近づく影があったのだ。いままで、どこにいたのだろうか?
隠れていた……。こういうことのプロである深海にも、それを気づかせないということは、むこうも深海の存在を察知して、故意に姿をくらませていたということになる。
あの男は、ただ者ではない。
男の姿を認めると、彼女は身体を硬直させた。いや、そう見えただけなのか……。
深海は、選択を迫られた。二人の前に行くか、このまま見届けるか。
はっきりと確認できたわけではないが、一言二言、会話を交わしたようだ。すぐに、彼女は自宅へもどっていく。男は、しばらくのあいだ、そこにたたずんでいた。
深海には、男に心当たりがあった。いつものようにキャップをまぶかにかぶっているから、容姿まではわからない。それでも思い当たる人物がいた。まさかとは思うが……。
彼女の家に入り込んだ悪魔──。
犯人は精神鑑定の結果、責任能力が無いとされ、法的ペナルティをうけていない。心神喪失者等医療観察法により、しかるべきところに入院はしたであろう。だが、十年以上が経過していることを考慮すれば、すでに完全なる自由を得ているはずだ。
北九州や尼崎と決定的にちがうのは、そこだ。
尼崎の主犯は留置場で自殺しているし、北九州──『Mケース』の犯人は、すでに死刑が確定している。もう一生、表の世界には出てこれない。
熊本のM……。もう一人のMが、再び彼女に接触をしたのではないか。普通に考えれば、もしそんな男が近寄ったなら、彼女は逃げて警察に駆け込んでいるだろう。
深海は、ある懸念を感じざるをえなかった。
彼女の洗脳は、まだ解けていないのではないか──と。
犯人が、再び現れたとしたら……。
フィッシュイーターは、喰らった獲物の味を忘れない。
尼崎の犯人は、二十年以上、同様の事件を繰り返していたし、北九州も数年に渡って支配の構図を維持し続けた。
むろん、それは深海の想像でしかない。
他人の家に入り込み、家族の肉体と心を浸食する。それは、蜜の味ではないのか。蓄えも奪い、家人を支配する。一度、それを体験したら、その行為に魅入られてしまうのではないか。フィッシュイーターとは、そういうものなのだ。
深海は、男に近づいた。しかし、それを察知したのか、男が早足で遠ざかっていく。前回と同じだ。それでも追っていくべきなのか……。
深海は迷った。
追うのをやめた。これ以上は、時間をかけられない。
いまの男が、《熊本のM》だという根拠はなにもないのだ。
自分には、ほかにもやるべきことがある。
新たなるフィッシュイーターの被害者を救出することだ。




