19/20
19
本当に大丈夫なんだろうな、と男。
手をまわしておいたわ、と女。
危ない……、外にいる警察官が!
* * *
意地でも、ここを離れるつもりはなかった。
健介は、神奈川県警と喧嘩をしてでも監視を続けるつもりだった。みんなに迷惑がかかるだろうか──そういう心配はある。だが、あんな妨害に屈するようなら、なんのための『特殊Mケース犯罪研究室』なのか。
熱くなりすぎなのは自覚していたが、どのみち自分一人ではなんの判断もできないのだから、信じた道を突き進むしかない。深海たちに報告を──とも考えたが、まだ定時連絡には早い。いまは、ここに居つづけることが自分のやるべきことなのだ。
諸橋家に動きはない。カーテンは閉まったままだ。
ただ、何度かカーテンが揺れたような気がしている。距離があるから、さだかではないが……。もしかしたら家のなかからも、こちらのことをうかがっているのかもしれない。
家へと続く細い路地に、場違いなエンジン音が轟いた。大型バイクが二台。速度はあまり出ていないが、マフラーからの騒音が朝の住宅街の治安を悪く染めた。
二台のバイクは、健介のすぐそばで停まった。それぞれが、地に降り立つ。
一人は長身で、肩幅もガッシリしている。もう一人は、中肉中背。双方ともが、フルフェイスのヘルメットに革のライダースーツをまとっている。体格から判断すると、二人とも男だ。
彼らの手にあるものを見て、健介は凍りついた。二人ともが、鉄パイプを握っている。
なにをするつもりなのかは、おのずと理解できる。
健介は、警棒を抜いた。制服警官の格好は偽りなので、当然のことながら拳銃は所持していない。これが、唯一の武器だ。
「なにをするつもりですか!?」
声の震えが、自分でもわかった。男たちは、無言で鉄パイプを叩きつけてきた。
警棒で受け止める。
〈キンッ!〉
だが二人が相手では、片方の攻撃しか防げない。
わき腹に衝撃をうけた。痛いというよりも、熱い!
息が止まる。立て続けに、背中を!
後頭部だけは、どうにかして守らなければ……!
いつのまにか、警棒を落としていた。腕にも食らっていたのか。痺れる。
膝をついた。立っていられない。
ダメだ。やられる……。
健介は見上げた。ヘルメットのなかの顔が、喜悦に歪んでいるようだった。
とどめをさされる──。
「ちょっと! なにやってるんですか!?」
女性の声が響いた。振り返る余裕はなかった。
「池田さん!」
詩織の声だった。
「あなたたち!」
ヘルメットをかぶった暴漢が、彼女に視線を移した。
「天沼さん、逃げて!」
この男たちは、異常だ。金銭が目的でもなければ、こちらに恨みがあるわけでもない。ただ暴力を楽しんでいる。
男の一人が、詩織との距離をつめた。
健介は立ち上がろうとするが、うまく力が入らない。
男が、鉄パイプを振り上げた。取り返しのつかないことになる。
ここは住宅街だ。とにかく大声をあげるんだ!
健介は、腹の底から叫びをあげようとした。
ドンッ!
もう一人に、背中を叩かれた。声を出すどころではない。呼吸ができない。
やめろ、やめろ、と何度も叫ぼうとした。どうしても、声にならない。
絶望しながら、詩織へ眼を向けた。
詩織の前に、だれかが飛び出した。
悠然と立つそれは──。
「ゆ、ゆう……」
凶器を振り上げていた男は、一瞬たじろいだ。だが、かまわずに鉄パイプを詩織にではなく、その登場した彼に叩きつけた。
これといった構えはとっていない。なのに、鉄パイプは当たらない。
空気に阻まれるように、パイプは、あらぬ方向へ軌道を描く。
「勇太さん!」
ようやく健介は声に出せた。
勇太が無造作に腕を振ると、男の手から鉄パイプがなくなっていた。
アスファルトの上に、乾いた音をたてて転がっている。
素手になった男は、なおも勇太に攻撃をくわえようとするが、それは格闘の専門家ではない健介の眼にも、無謀に見えた。
流れるような動き。力はこもっていない。それなのに男は、嘘のように倒されていた。
まさしく、魔法!
残りの一人に勇太が瞳を向ける。いまの常人離れした技に、男は戦意喪失したようだ。鉄パイプを自ら放り投げた。倒された男に肩を貸し、逃げていこうとバイクへ急ぐ。
勇太は、それを追おうとはしなかった。
男たちはバイクに跨がったが、発進はしない。
数人の影が近づいてきた。さきほど脅しをかけてきた神奈川県警の人間だった。
「おい、なんの騒ぎだ?」
飛田が、おもしろおかしそうにたずねた。
健介たちにではなく、ヘルメットの男たちへ。
「これに乗ってたら、いきなり鉄パイプで殴られたんだよ。こっちは、なんにもしてねえのに」
男の一人がバイザーだけを上げて、悪びれもせずに答えた。
「そうか、傷害罪だな」
飛田は、健介に笑顔でそう告げた。
あまりにも馬鹿げているので、非難する言葉も出てこなかった。この二人は、飛田たちが仕込んだのだ。おそらく、知り合いの暴力団員かチンピラだ。こういうことをしている人間なのだから、そのテの犯罪者と関係をもっていたとしても不思議ではない。
「現行犯だ」
刑事の一人が、勇太に手錠をかけた。勇太は文句も言わず、抵抗もしない。
「ゆ、勇太さん!」
「大丈夫ッス」
平静を崩すこともなく、勇太はあくまでも落ち着いている。
「おい、てめえもだよ。人の心配してる場合じゃねえんだよ」
飛田は、健介にまで手錠をちらつかせる。
「同じ警察官なのに、こんなこと本気でするつもりなんですか!?」
「警官であろうと、人を襲ったら、犯罪だわなぁ」
「待ってください」
健介の手首に手錠の冷たさが押し当てられたとき、勇太が声をあげた。
「手を出したのは、自分だけッス。健介くんは、なにもしてないッス」
「勇太さんは、ぼくを助けてくれたんだ。正当防衛だ!」
「なんだとぉ!? ここは神奈川なんだぜ。ここにはここのルールがあんだよ」
俺たちに従うのがルールなんだよ──そう言われた気がして、頭に血が昇った。
飛田につかみかかろうとしたが、それを詩織に止められた。
「池田さん!」
彼女は、強い瞳で訴えていた。これ以上、口答えしてはいけない──と。
「わかった。こいつに免じて、おまえとこのお嬢さんは見逃してやるよ。だがな、これに懲りて東京へ帰ればいいが、そうでなかったときは──」
怖い眼で、飛田は睨んだ。まるで、ヤクザのような顔つきだ。
「じゃあ、こいつはつれていくぜ」
飛田たちに、勇太が連行されていく。健介には、それをただ眺めることしかできなかった。悔しかった。なにもできない。あんな悪徳警官に、自分のすべてが通用しない。力がない。実力がない。権力がない。
なにもない!
「恐ろしい眼をしていますね」
最初、詩織が、いまの飛田のことを言っているのかと思った。
「気づいていませんか? いま池田さんは、とても怖い眼をしています。まるで、犯罪者のように……」
言われて、ハッとした。
「いいですか、あなたは警察官です。そして正義がどのようなものなのかを知っている。あんな名ばかりの刑事とはちがう。自分を見失わないでください」
「……うまいですね。さすがはプロだ。ぼくを一瞬でデプログラミングしましたね」
そう。禍々しい暗黒の感情から。
「ちがいます。いまのは、わたしの本心を口にしたまでです」
健介は、息を吐き出した。頭のスイッチを切り替える。
「これで、ハッキリしました。あの家には、だれかが入り込んでいる。そして、その人物があの刑事たちを差し向けた」
「どんな人間なのでしょう?」
「これから、つきとめます」
決意して諸橋家に近づいていこうとしたが、身体がいうことをきいてくれなかった。
「池田さん!」
フラついた。詩織に寄りかかる。
「大丈夫ですか?」
「大丈夫です……」
しかし、自力で歩くのも困難だった。時間が経つにつれ、身体が重くなっていく。断じて、やましい気持ちで彼女に体重をあずけているわけではない。
「救急車を呼びましょう」
「いえ、頭は打たれていません。打撲だけです」
「でも……」
「心配しないでください」
「……それでは、いったんホテルで休みましょう」
それには、黙って従うことにした。
「でも……勇太さんは、一人でここへ来たんでしょうか?」
「あ、いえ、偶然駅で会ったから、わたしがつれてきたんです」
「そうだったんですか……。ところで、天沼さんの用事は、もう片づいたんですか?」
「はい。一件、ご相談の予約が入っていましたので、東京へもどっていました」
その帰りだからだろうか、彼女は白衣姿だった。いまの時刻から逆算すると、その相談というのは、かなり早朝からの予約ということになる。
「患者さんも、早起きなんですね」
「ええ」
彼女は、あたりまえのように応えた。
「……湖内さんは、どうなっちゃうんでしょうか?」
「ぼくにもわかりません……」
いったい、どういうことなのか──それは健介にも理解不能だ。
おそらく飛田は、特殊Mケース犯罪研究室が調査をおこなうことは知っている。知っているにもかかわらず、妨害工作をした。健介にもいまひとつ、自分たちの研究室がどれほどの効力をもっているのかは推し量れない。それでも警察庁のれっきとした部署なのだ。下手をすれば警察庁と喧嘩をすることになるかもしれないというのに、飛田はその覚悟をしているのだろうか。それとも、警察庁より敵にまわしたくない相手の意向をくんでいるのだろうか?
「でもいくらなんでも、勇太さんをどうにかできるわけはない。すぐに釈放されるはずです」
そして健介は、すぐにでもやらなければならないことに思い至った。
「深海さんたちに連絡しないと」
緊急事態が発生したのだ。もはや、自分一人でどうこうできる領域ではない。
「あ、それなら大丈夫だと思いますよ」
「え?」
「だって、みなさんでいらしたみたいでしたから」
「深海さんと、奈々子さんも?」
「深海さんは、少し遅れるらしいです」
健介は、周囲を見渡した。川名奈々子の姿はどこにもない。
「奈々子さんは?」
「さっきまでいっしょだったんですけど……どこいっちゃったんでしょうねぇ」
20
小田原城をのぞむことができる通りを、男は歩いていた。観光客の往来が激しい。が、男の目的はちがう。ただ、その群れに混じっているのだ。
正面から女が歩いてくる。彼女もまた、観光客に溶けていた。
すれちがいざまに男は反転し、女の横にピタッとつき従った。
何気ない動作。自然に、自然に。
男と女は、寄り添いながら歩きつづける。しかし、おたがいが他人のように振る舞っている。まわりの観光客も、二人が知り合いとは思わない。
たんに、目的の方向が同じなのだと──。
「こっちに、もどってきたんですか?」
「バカ言わないで。一時的なものよ」
「で、どんな御用ですか? まさか城見物につきあえというわけじゃないんでしょ」
「うちの若い子が、妨害をうけてるみたいなの」
「さすがは、《ドクカマス》。情報がはやい」
「そのあだ名、なんとかならないの? イメージ悪いんだけど」
「みんなが自然にそう呼び出したんですから、どうにもできませんよ」
「で、なにか知らない?」
「うちの刑事部が、いろいろと根回しに奔走してます。たぶん、それでしょう」
「上は、どのあたりまで染まってる?」
「せいぜい、刑事部長までじゃないですか? あのひと、権力に弱いから」
「だれからの圧力?」
男は、指さした。
女は、見る。
観光客たちのその先には、掲示板が設置されている。
ポスターが貼ってあった。
「まさか。あんな小物が?」
「あれは小物ですがね、親が大物なんです」
「どういうこと?」
「正確に言えば、これから親になる人が──ですよ」




