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夜九時まで観察を続けた。ホテルにもどり、まだ本部に連絡していないことを思い出して、すぐに電話をかけた。が、だれも出なかった。さすがに、みんな帰ってしまったようだ。奈々子の携帯にかけようともしたのだが、緊急事態でもないのに、帰宅しているところへ連絡をとるのはためらわれた。
おそらく刑事課での勤務経験があれば、そういう気づかいはなかっただろうと、健介は自己分析をはじきだしていた。地域課では、すでに帰宅したり、非番の同僚に連絡をとることはない。いや、よほどの大事件が発生したときは応援に呼び出されることもあるかもしれない。だが平和な秩父では、そんな経験もなかった。
ホテルの部屋では、詩織が待っていた。いっしょの部屋で泊まるのはさすがにまずいと感じ、べつの部屋をとろうと提案した。そもそも部屋はシングルなので、ベッドも一つしかない。ホテル側には警察庁の調査で滞在する旨を伝えてあるので、変則的な使用も許されている。とはいっても、独身(確認はしていないが)女性と同室泊というのは、あきらかなセクハラだ。
「大丈夫ですよ。わたしは気にしませんから」
予想に反して、詩織は軽い口調でそう言った。
「え、で、でも……」
こっちが気にするんだけど──とは、口にできなかった。
「それじゃあ、わたしはもう寝ますね」
健介は、あらためて壁にかかった時計に眼を向けたが、まだ九時半にもなっていない。
しかし詩織は、ベッドにもぐりこんでしまった。
「わたし、チョー朝型なんですよ」
健介も、どちらかといえば早寝早起きタイプだが、ここまで早寝ではない。
「本当は七時ぐらいに寝たかったんですけど、池田さんが帰るまで起きてないと……」
「え!?」
健介は、ほかにだれも見ていないのに、派手なリアクションをとってしまった。
なにかを言いながら、その途中で彼女の意識は落ちていた。
「はやっ」
寝顔を見られることにも抵抗はないようだ。すやすやと寝息がリズムをとっている。
その姿を見ていると、健介もドッと睡魔に襲われた。昨日から緊張が続いている。
詩織がベッドの片側を空けてくれているが、それに従うわけにはいかない。壁際の机で眠ることにした。椅子に腰掛け、机上に頭を預けた。こうして眠るのは、学生のとき以来だった。
朝の明るさで眼が覚めた。
肩には、毛布がかけてあった。詩織がやってくれたのだろう。
時計の針は、六時を指している。部屋のなかに、詩織の姿はない。本当に、朝型のようだ。ベッドわきの台の上にメモが置いてあった。用事があるので、いったん帰ります──そのように書いてあった。極端な朝型だから、夜に帰るということが困難だったのだろう。健介は支度をすませると、ホテルを出た。
警官の制服へは、現場近くの交番で着替えさせてもらっている。交番にいた、すでに顔なじみとなっている塩谷という警察官と挨拶を交わす。手早く着替えて、諸橋家に急いだ。
時刻は、六時四〇分を過ぎたところだった。
雲はない。快晴だ。ここまでは、とても平和な光景だった。
諸橋家に変化はない。まだカーテンは閉まっていた。
七時二〇分を過ぎたところで、平和な空気が掻き乱された。
近づく数人の気配。足音に、他意がふくまれている。
健介は振り返った。スーツ姿の男たち──三人。
「おい、なにやってんだ!? あんた、聞くところによると、よその人みたいじゃねえか」
一人が口を開いた。粗野な印象をあたえる口調と動作だった。
「あなたたちは?」
粗野な男が、なにかを懐から取り出した。
一瞬、身構えたが、それがよく知っているものだとわかって、健介は緊張を解いた。
警察手帳。
「神奈川県警のもんだ」
粗野な男は、飛田と名乗った。
「あんた、なんでうちで捜査してんの!?」
「ちゃんと許可はもらっているはずですが……」
「そんなことは知らねえよ、こっちの縄張りで勝手なことされちゃ迷惑なんだよ!」
飛田は、すごんでみせた。年齢は健介よりもずっと上だから、おそらく階級でも経験でも格上だ。本来なら頭が上がらないほどの主従関係が成り立っているだろう。
だが、いま健介の階級は、臨時とはいえ『警視正』相当が保証されている。
飛田の警察手帳をよくは見なかったが、巡査部長か警部補であろう。いっていたとしても警部。すんなりと引き下がるわけにもいかない。
「あの……縄張りもなにも、ぼくは警視庁ではなく、警察庁所属です」
「そんなこたぁ、どうでもいい! 東京から来たんだろ!?」
「それは、そうですけど……」
「だったら、東京に帰れや」
「あの……、そもそもぼく、もとは埼玉県警なんですけど」
「だったら埼玉だな、帰るのは」
飛田は、まったくこちらの話を聞く気はないようだ。
「ぼくは、ちゃんとした正規の調査で来ています。神奈川県警にも連絡が行っているはずです」
だからこそ、塩谷をはじめとして、交番の警察官の協力をとりつけられたのだ。
「そんなこと、俺には関係ねえ! いいか、ここで捜査したけりゃ、俺らの了解を得ろや!」
「なんで、あなた個人の了解を……」
「うっせえ! 不審人物ってことで逮捕すっぞ」
これでは、街のゴロツキとかわらない。こんな人間が警察官だとでもいうのか。
仲間の一人が、健介の肩に手を置いた。力がこもっている。爪が食い込んで痛かった。
「な、なにするんですか!?」
「ほら、わかったのか、わからねえのか?」
「わかりません! あなたたち、ぼくを脅迫するつもりですか!?」
「おいおい、俺たちゃ善良な警察官だ。脅迫なんてしねえよ。だがな──」
飛田は、そこで健介の耳元に近づいて、ひそひそ話をするように囁いた。
「このまま言うことを聞かなきゃ、なにがおこっても知らねえぞ」
健介の眼光は、知らず、鋭くなっていた。自覚したときには、飛田たちは離れていく。
「いいか、わかったな?」
そう言葉を残して、彼らは健介の前から去っていった。
「……」
突然の妨害。なにかある……健介は思った。
飛田の言動は、あきらかに非常識だ。たとえ連絡ミスなどで、彼らに自分のことが知られていなかったとしても、あんな脅迫まがいの妨害を仕掛けてくるのは不自然だ。
なにか裏がある。なにかの力が働いて、飛田たちがやって来た。
その力とは……?
諸橋家に巣くう何者かが関係しているのだろうか。その何者かによって、飛田たちが動いた。
……自分は、どうすべきか?
(そんなことは、わかりきってる)
そうだ。諸橋つぐみたち、まだ顔を知らない家族を見捨てることなどできない。このまま、何者かにプレッシャーをかけつづける。動いた、ということは、むこうが焦っている証拠だ。自分の見立ては、まちがっていない。
健介は、確信した。
諸橋家を、悪魔から助け出さなくては──。
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朝から、女を抱いた。名前も覚えていないような女をだ。
情が移っているのか……。
秀明は、辟易したように考えをめぐらせる。
ここらが、潮時なのかもしれない。足を洗って、お固い職業につくべきなのだ。
甘い感情は、身を滅ぼす。
(なにを想像してるんだ)
この女のためか?
(バカな……)
秀明は、考えるのをやめた。こういうときは、あの海を思い浮かべる。そうすれば、わずらわしいことが頭のなかから消去されていく。一時だけのことだとしても……。
女が、こちらを見ていた。おたがいベッドのなかだ。どちらからも、言葉はなかった。
秀明は、ふと思った。
この賭は、失敗だったのだ。
(いや、おれはまだまだやれる)
気を引き締めた。女一人で弱気になるなんて、愚かなことだ。
俺は、《シンカー》なのだ。




