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「お疲れさまッス!」
狭い室内が、能天気な声で満たされた。ようやく湖内勇太が帰還したようだ。
「いままで、なにやってたのよ!」
すかさず、川名奈々子の雷が落ちた。
「いやー、いろいろあって」
「なにがいろいろよ! 鹿児島観光を楽しんでたくせにっ」
「まあ、そう怒らないでくださいよ。どうせほかのみんなも、なにもなかったんでしょう?」
言葉の内容も、まったくもって能天気だった。
「深海さんも帰ってきてるってことは、富山もなしッスね」
深海は、うなずいた。
「健介くんは?」
湖内が室内を見回す。しかし、目的の彼の姿はない。いるのは、彼を除いた三人と、たくさんのピーポくんのみだ。
「まだよ」
「まさか、当たりッスか?」
「それを調べてるんでしょ」
「そうッスよね。そうかんたんに《あたり》はきませんよね」
それはまるで、深海のルアーにかけて、釣り用語を使ったかのようだった。当の深海は率直に思った。湖内に、それだけの柔軟なユーモアセンスがあるとは考えづらい、と。
「ヘンねぇ」
「どうしたッスか?」
「五時の定時連絡がないのよ」
「結局、空振りで、そのまま帰ってくるんじゃないッスか?」
「うーん……、詩織ちゃんも行ってるはずなんだけど……」
「え!? どうしてッスか!? ズルいッス!」
「ちょっと、なに中学生みたいなこと言ってるのよ!」
深海は、熟慮していた。
池田健介の、あのときの……フライフィッシングの毛針で、子供を助け出したときの彼を思い出す。執念を感じた。いや、その言葉から連想するような、ドロドロしたものではない。ただ一心に、救出することだけを信じきる──。
「深海さん?」
川名に呼ばれて、深海はわれに返った。
「深海さんと勇太は、帰宅してください。わたしは、もう少し連絡を待ちます」
「水臭いッスね、奈々子さん。おれも残るッスよ」
「いいわよ。鹿児島観光で疲れるでしょ」
「それ、トゲがあるッス!」
「深海さんも帰ってください。昨夜のうちに帰って来て、今日も朝から出勤してるんですから」
「深海さん、観光してこなかったッスか!?」
「あたりまえでしょ! おまえといっしょにするな!」
「お、おまえ呼ばわりッスか……」
じゃれている二人をよそに、深海は考えをめぐらせる。
池田は、ルアーを仕掛けているのだ。そう確信があった。
いつ、獲物がそれに食いつくか……。
明日か、明後日か……。
「深海さん?」
再び、彼女に呼びかけられた。
「湖内と川名は、明朝、小田原へ向かってくれ」
「え? 明日ですか?」
「おれは、少し遅れる」
「でも……今夜、連絡があってから判断してもいいのでは……」
「たぶん、彼のほうが釣りはうまい」
「え?」
川名奈々子は、不思議そうに声を出した。なんのことを言っているのか理解できていないようだ。
「おれのルアーいじりは、ただの真似事なのは知ってるだろ? だが池田は、本当に魚を釣る」
「……それは、彼の趣味が釣りってことですか? それとも、比喩ですか?」
「どっちもだ」
彼女の表情は、とても納得しているようには見えなかった。
「健介くんが、深海さんよりも釣りがうまいとは思えませんけど……」
ためらいがちに、彼女は言った。口答えすることに抵抗があるのか、それともべつの感情なのか……。
川名奈々子の言う《釣り》も、深海に合わせて比喩として使っているものだ。
「わたしは反対です。もう少し、情勢を見極めてからのほうが……早まった行動は、池田くんのプレッシャーにつながります」
彼女の言うことも一理ある。初めての調査で、たんに慎重になっているだけかもしれないからだ。
「まあまあ、お二人とも。行ってみるだけ行ってみて、なにもなければそれでいいじゃないッスか」
「あんたねぇ、そんなムダな出費ができるほど、ここの予算は芳醇じゃないのよ」
「鹿児島や富山ならそうですけど、小田原なんですから。なにもなければ、とんぼ返りすればいいだけじゃないッスか」
「……」
難しい顔で……いや、とても険しい表情で数秒考え込んでから、川名奈々子は了承してくれた。
「わかりました。明日、わたしと勇太で向かいます」
* * *
例のおまわりは、妹が買い物から帰ってきて三十分ほどしてから、また姿を現したようだ。行かせてよかったな、と男は喜んでいた。だが、女はちがう。どこか不服そうだった。
「つぐみちゃん? 買い物中、なにか変わったことはなかった?」
女が、やさしげに問いかける。だが、その内心に鬼が住んでいることを知っているだけに、かえって不気味だ。妹は、首を横に振る。なんて気丈なのだ。おびえることもない。それとも、麻痺しているのか。
「なにか、いけないことをしたら……わかってるわよね?」
妹は、今度は首を縦に振った。
恐ろしい。聞いているこちらのほうが、途方もない恐怖を感じる。
「どうすんだよ、あの警察官。このまま毎日つきまとうつもりじゃないだろうな?」
「さあ」
「さあ、って……」
「なにビクついてるの? いざとなったら、奥のテを出すわよ」
「大丈夫なんだろうな? おまえの大学時代の知り合いだっけ?」
「そうよ。頼りになるの。まあ、実際に力をもっているのは、未来のパパなんだけどね。わたしの言うことなら、なんだってきいてくれるわ」
「だったら、いいけどよ……」
「信用してないみたいね」
「そういうわけじゃねえ。だけどよ、もしサツに踏み込まれたら、オレらヤバいだろう」
「ホント、気が小さいわねぇ。警察じゃ、なんにもできないわよ。それに、塀のなかへ避難してたときのことを思い出して。あれの手配も、やってくれたじゃない」
「……」
「情けない男」
「じゃあ、やってみせてくれよ」
「なにを?」
「証拠をみせてくれ。話が真実なら、あんな警官ぐらい、どうにでもできんだろ?」
「奥のテは、最後に使うからいいんじゃないの」
「頼むから、みせてくれ」
いったい、なんの会話なのだろう……。
女はため息をつくと、なにかを了解した。
「しょうがないわねぇ」
そして、携帯でどこかに連絡をとった。
詳しい内容まではわからなかった。こちらに話を聞かれないためなのか、べつの部屋に移動してしまったからだ。
足の先から凍えるような感覚がわきおこった。
ようやく光になるかもしれない希望すら、あの男と女は打ち砕こうとしているのだ。




