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朝日のまぶしさが、屋根と屋根の隙間から眼を刺していた。
健介は、早朝から問題の家を監視していた。カーテンが開けられたのは、七時過ぎだった。が、開けられない部屋もある。カーテンを開けたのは、二十代だと思われる男性だった。それから二時間あまり──。
この家には、だれもいないのではないかと感じるほど、人の気配がなかった。
昨日のうちに近所で聞き込みをおこなっていた。家族五人のほかに、よく知らない人間がたまに出入りしているという証言が得られている。しかし、はっきりとした目撃情報ではない。それでも、諸橋家の様子が「おかしい」と近所では噂されているようだ。
さらに、不安要素をかきたてる話も聞くことができた。
ここ最近、長女を見ていないという。
諸橋琴音……この家に、彼女はいるのだろうか?
それだけではない。ほかの家族も、以前よりは見かけなくなったということだった。
家主の正三。その妻、佳代。長男、隆。
次女のつぐみだけは、ゴミ出しをしたり、買い物に出掛ける姿をよく眼にするという。昨日、応対に出た女性も、そのつぐみでまちがいないだろう。
まずは、家族とはべつの人間がいるのかを確認したかった。制服を着ていれば、白昼の監視は目立ってしまう。だが、目立ってもいいと健介は考えていた。自分の存在をアピールすることで、なかにいる人間に(無論、やましいことをしているとして)プレッシャーをあたえることができるのではないか。
近所の住人には不安に思わないよう、一応話は通してある。
九時半……十時半。やはり、諸橋家に変化はなかった。次女のつぐみが学校へ行くこともないし、家主の正三も、長男の隆も仕事へ行くことはなかった。
正三は、市内の食品加工メーカーに勤務しているが、現在は体調を悪くして、長期休暇をとっていた。隆は、大学卒業後、今年の春から地元新聞社に就職しているという。そちらのほうには、まだ問い合わせていないので、現状どうなっているのかわからない。とはいえ、入社して早々、何日も休むわけにはいかないはずだ。
もし、正三も隆も仕事をしていないとしたら、どうやって生計を立てているのか?
正三のほうは正式に休暇をとっているのだとしても、昨今の景気状態で、はたしてその間の手当てが支給されるものなのか。民間企業に無縁の健介には、わからないことだった。
思案しているうちにも時刻は進み、十一時を過ぎようとしていた。こうしていても埒が明かない。
あの家のなかで、なにかしらの犯罪行為がおこなわれているかもしれない。
それを、どうにかして確かめなければならなかった。
再び、訪問してみるしかない……。
健介は歩き出した。脳裏のどこかで、危機的状況が進行していると決めつけている。
予感。いや、そんな陳腐なものではない。
経験。それもちがう。それほど濃密な警官人生を歩んでいるわけではない。自分の年齢では、まだまだ序の口だ。
本能。その表現もあやふやだ。だが人間には元来、危機を察知する能力が備わっているという。そういうたぐいのものなのか……。
真実に行き着けば、結局なんでもなかったと、笑い話になってしまうかもしれない。
そうなってくれたほうがいい。そう思う自分もいる。
どちらにしろ、それをはっきりさせなければならない。
呼び鈴を鳴らした。家のなかから、人の気配は伝わってこない。
もう一度。二十秒経っただろうか、ドアに耳をあてていた健介は、軽い足音を聞いた。
「……はい」
昨日と同じ女性の声が、かすかに響いた。ドアは開かない。
「交番の池田です」
「なにか用でしょうか?」
やはり感情のこもっていない声が、機械的に発せられていた。
「開けてもらえないでしょうか?」
「困ります」
女性は短くまとめあげるように、そう応えた。
「つぐみさん、ですよね?」
女性からの返事はない。無視をされたというよりも、名前を呼ばれたことに戸惑っているようだった。
「学校、行ってませんよね? 担任の先生から、様子を見てきてくれないか、って頼まれたんです」
もちろん嘘だが、高校生にはバレないだろうと計算があった。
教師からそんな依頼をうけて、警察官が動くことはない。事件性が濃厚の場合ならべつだが、そういうときでも、その教師の訪問に立ち会うという形になる。こうして単独でやって来るということはありえない。
「いまは、具合が悪いので……」
「昨日は、元気そうだったけど」
「コホン!」
あきらかに偽りだとわかる咳だった。
「開けてくれませんか?」
再度、うながした。
「……お願いですから、帰ってください」
「お父さんやお母さんは、元気ですか?」
「……はい」
少しの間があいてから、そう答えが返ってきた。
「お兄さんや、お姉さんは?」
「……げんき……」
『です』という声は聞こえなかった。そもそも口にしていなかったのかもしれない。
お兄さん、隆。
お姉さん、琴音。
なにかあったのだろうか!?
「お兄さんは、元気ですか?」
「……はい」
「お姉さんは?」
しばしの沈黙。
「……帰ってください」
彼女の姉──諸橋琴音の身に、なにかがあった!?
「いま、琴音さんはなかにいますか?」
返事はない。その反応を素直に解釈するのなら、家にはいない。
「ご家族以外に、だれかいますか?」
「いません!」
それまでの、か細い声とはちがい、強い口調だった。
いる!
「わかりました。学校の先生には、つぐみさんは元気だと伝えておきます」
「……」
なにも言葉はないとあきらめかけとき、小さく「ありがとう」と聞こえた。
なぜだか、それだけは嘘でないと思った。
彼女の本心だと。
* * *
妹のすぐ後ろには、あの男が立っていた。妹がよけいなことを言ってしまったら、あの男はなにをするかわからない。
たずねてきたのは、昨日の警官のようだった。今朝、カーテンを開けるとき、制服警察官がこの家をうかがっていることに気がついた。きっと、昨日の警官と同一人物なのだ。
ここからでは、妹と警官の会話までは聞こえない。
なにが目的なのか……。
この家の異常に気づいてくれたのだろうか……いや、たとえそうだったとしても、警察ではどうすることもできない。
それは、この数ヶ月でよく理解している。
お願いだから、なにごともなく帰ってほしい。もしなにかあれば……あの男と女の機嫌をそこねたら、自分たち家族は終わりだ。
気に入られている妹は、どうにか生き残れるかもしれない。だが自分と両親は……。
姉のようになるのか……。
姉の身に、なにかあったとはかぎらない。
それはわかっている……わかっているが、不安ばかりがのしかかってくる。
もう、かつての家族団欒にはもどれないのだろうか?
平和だったあのころが、夢のようだ。
そうなのだ。あのころが夢で、いまが現実なのだ。
そう考えれば、少しはいまの状況も、幸せだと感じられる……。




