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          プロローグ


 この《家》は、監獄だった。

 温もりを感じるはずの家族団欒は、すでにない。ピリピリと肌を刺す緊張感。いつ、いかなるときも迫りくる恐怖。

 もうどれぐらいになるだろう。あの男と女が、ここへやって来たのは……。

 いつのまにか、入り込んでいた。知らないうちに寄生虫が体内を跋扈しているかのように……。どこにも逃げ場はない。一番、安全な地であるはずの《家》が、このありさまなのだから。

「あの……服を着せてやってもらえないだろうか……」

 ビクついているのがわかった。これが、この《家》の主だった人間の態度だろうか。

 威厳のあった父の面影はない。

 父の横には、裸に剥かれた母がいる。ずっと全裸のままだ。もう三日になるだろうか。家畜に服はいらないと、《本当の主》に言われた。母は、家畜だ。

 父は、家畜の世話人。

 長男である自分は、主たちの使用人をさせられている。

 妹は、家族のなかでは最も位が高い。そうはいっても、結局は《本当の主》に肉体を提供するだけの存在だ。しかし、それでも三食を保障され、寝床も確保されている。

「ダメよ。そのままでいなさい。さからったら、わかるわね? 家畜は、屠殺されるものよ」

 女が、冷たく言い放った。女王様として君臨しているつもりなのだ。

 屠殺……恐ろしい響きだ。冗談などではない。現に一人……いや、どうなのだろう?

「……さんは……」

 勇気をもって、言葉を出した。

「姉さんは……」

「あ?」

 男の眼光が、鋭く尖った。

 いけない。彼の気分をそこねることは、あってはならない。

「な、なんでも……」

 発言する気力は、瞬時に削げた。

 姉が、ここから姿を消して、だいぶ経つ。どこに行ってしまったのか?

 考えるべきではない。考えて、どうなるというのだ。

 恐ろしいことだ。自分の予想どおりだったとしても、ちがったとしても……。

 この《家》は、もう自分たちのものではないのだから。




           1


 まさか、こんなところでさまようはめになろうとは、考えてもいなかった。

 東京の──いや、日本の中心であるはずの官庁街。池田健介は、都会の恐ろしさを肌で感じていた。出身は埼玉だが、そこも東京のようなものだと信じていた。

「あの……」

「またですか?」

 受付の女性に、迷惑そうな顔をされている。

 警視庁本庁舎の一階ロビー。月曜の朝だからだろうか、人であふれるフロアには、苛立たしさと時間にせかされる不快感が満ちていた。東京の人間は、徹底的にドライだということを思い知らされている。

「もう一度、調べてもらえますか? 秩父署から、こちらに転属してきた池田という者です」

「ですから、ここは警視庁なんです。埼玉県警の方が、ここへ転勤になることはありません。他県警からの出向はありますけど、そんな話は聞いていませんので」

「いえ、ここではなく、警察庁への出向なんですよ」

「でしたら、警察庁へ行ってください。おとなりです」

 さきほども交わした会話だった。

 これまで秩父で平和に勤務していた健介だが、突然辞令が出た。警察庁の『特殊Mケース犯罪研究室』という耳慣れない部署への出向だった。住む部屋などの手配は警察庁のほうでするということだったが、ちゃんとした準備をする間もなく、ここへやって来た。

 最初に警察庁をたずねたら、その部署は警視庁内にあると言われたので、素直に警視庁へ行ってみた。が、この受付で「そんな部署はありません。警察庁でしたら警察庁へ行ってください」と冷たくあしらわれた。

 で、再び警察庁へ向かったら、同じように「警視庁へ」と繰り返された。

 仕方なく、またここへ……。そして、いまだ足止めをくらっている。

 二つの建物の距離は、ほんのわずかしかない。だが、その行ったり来たりは、まるで都会の迷路にはまりこんでしまったかのように、長大で難解だ。

「『特殊Mケース犯罪研究室』というところです。お願いします。もう一度、調べてみてください」

 健介には、そう頭を下げることしかできなかった。きっと、この受付の女性がどこか不親切なのは、ここが東京の真ん中であるということと、自分の外見がどうみても警察官とは程遠いからだ。秩父では、気のいい『おまわりさん』だった。地域密着型の警察官が自分でも板についていると感じていた。

 年齢は、二一。貫祿もなければ、経験も浅い。彼女の眼から見ても、とるにたらない存在なのだ。受付嬢は事務職採用者がほとんどだから、おそらく彼女も警察官ではない。仮に警察官だったとしても、最下層の巡査である自分がナメられるのも当然のことなのだ。

「では、少しお待ちください」

 受付の女性は、あきらかに乗り気でない雰囲気を漂わせながら、内線電話でどこかに問い合わせた。

「え!? あるんですか!?」

 受話器に向かって、険しい声が吸い込まれていく。

 数瞬後、通話を終えた彼女の表情が、硬い。どこか、ばつが悪そうだ。

「申し訳ありませんでした。警察庁の出張所ということで、『特殊Mケース犯罪研究室』という部署は、おっしゃるとおりこちらにありました」

「そ、そうですか」

 ほっとした。彼女は、合わせる顔がないといった感じで、視線をさまよわせている。

 健介に、責める気持ちは微塵もなかった。ただただ、目的地がみつかったことによる安堵しかない。どうやら、彼女にもそのことが伝わったようだ。受付の女性は、メモ用紙になにかを書き込んでいる。

「あの……」

 健介は、すぐにでもここを立ち去りたかったが、まだ肝心の場所を聞いていない。

「とても迷いやすいところですので、簡単ですが、この地図をどうぞ」

 そうメモ用紙を渡された。建物内なのに地図が必要というのが不可解だった。まさか、彼女なりのユーモアだろうか?

「どうも……」

 真面目な親切心からだと信じることにして、それを受け取った。手書きの地図を頼りに目的の部屋をめざす。まずは、エレベーターで部署のある階へ。そこからは地図に従う。

 簡易的に記されてはいても、思いのほか複雑だ。十分ほど歩いた。

 いつのまにか、心細さに支配されていた。人の気配から、どんどんと遠ざかっていく。

 だれもいないほうへ、いないほうへ、自分は向かっていないか? この地図、本当に目的地を示しているのだろうか──そんな根本の疑問が、脳裏をかすめた。

 あの受付女性に、いっぱい食わされているのではないか。自分がしつこくするものだから、嫌がらせをされているのでは!? そもそも警視庁とは、こんなに広くて、迷いやすいものだろうか!? さまざまな負の事柄が、噴き出すように頭を占領する。

「ここかなぁ……」

 地図の指示どおりにたどりついたそこは、フロア内でも、ひときわさびしげで、狭い通路の一角だった。扉の上部に、『特別特殊捜査室』と記されたプレートが掲げられている。伝え聞いている名称とは少し異なるが、ここなのかもしれない。

 健介は、心細げに存在するその扉を開けてみた。

 室内は、驚くほどに狭かった。本能的に、ここじゃない、と直感した。

 一つだけのデスク。一つだけのチェア。

「ん?」

 そんな一つだけしかない席についていた、ただ一人の人物が、こちらに気づいて、椅子を回転させた。

「あ、あの……」

「なにか用?」

「あ、いえ……ここじゃないですよね? 特殊Mケース犯罪研究室というところを探してるんですけど……」

「あ、それ、となりだ」

「そ、そうですか。すみませんでした」

 そう謝って出ていこうとしたが、その人物は、なおも会話を続けようとする。

「このエリアは、警視庁でも『きわもの』部署が並ぶところだよ。まあ、今後、なにかと顔を合わせることがあるかもしれないから、よろしくたのむよ」

「は、はあ……」

「おれは、佐野だ」

「ぼ、ぼくは池田です」

 慌てて、健介は名乗り返した。

「ここは、あなた一人なんですか?」

「あ? ちがうちがう。おれは居候みたいなもんだ。ここの主は、いろいろと飛び回ってるから」

「そうなんですか……」

 どこまで詮索していいものか見当がつかないから、そう言うことしかできなかった。

「そ、それでは、ぼくはこれで……」

 健介は、頭を下げると部屋を出た。

 出た瞬間、いまの人物がつけていた襟のバッジが気にかかった。

 S1Smpd

(あれって……)

 いや、いまはそんなことよりも、自分が行くべき場所へ急がなければならない。となりといっても、歩数にして三十歩ほど離れているだろうか。とにかく無機質な廊下が続いているエリアだから、実際よりも長く感じてしまうのかもしれない。

『警察庁 特殊Mケース犯罪研究室』

 プレートではなく、手書きで扉に貼りつけてあった。今度こそ、まちがいではないだろう。

 健介は、さきほどよりも勇気をこめて扉を開けた。

 部屋の広さは、二十畳ほどあるだろうか。オフィスとしては、けっして広いというわけではない。だが、さっきの部屋よりは、ずいぶんとマシだ。

 机が四つ。三人の姿がある。

 扉を開けた音で気づいたのだろうか、すぐ近くの席に座っていた女性が、こちらを向いた。

「あ、新任の人?」

 小声で囁きかけてきた。

「そ、そうです。埼玉県警秩父署から本日付けでこちらへ配属になった、池田健介です!」

 力一杯、自己紹介をしてみたものの、その女性も、となりのデスクにいる男性も、人差し指を口許にあてていた。黙れ、ということのようだ。

 自分は、なにか大きな勘違いをしているのではないか?

 また、まちがえてしまったのだろうか!?

「こ、ここで……いいんですよね?」

「いいから、シッ」

 女性から、きつく睨まれてしまった。年齢は、二十代後半……二八、九といったところだろう。制服を着ているので、内勤のようだ。

 妙に色気を……もっといえば、無駄に色気をふりまいている。同僚から借りたことのある、婦警もののAVを思い出していた。たしか、こんな女優さんだった。独身寮では、よく婦警ものが回覧板のようにまわってくる。こんな娘、いるわけねえじゃん──などと、みんなで盛り上がりながら鑑賞しているのだ。

『こんな娘』が、ここにいた。

「ん?」

 ジッと顔をみつめてしまったからか、女性の睨みが一層、深くなった。彼女の制服に、視線をそらした。

 特殊Mケース犯罪研究室──という部署は、警察庁ではあるが、一般の私服警察官と同じ職務形態だと知らされている。刑事課や生活安全課のようなものだと。ただし、そのあつかう事件が一般の犯罪とはちがって、特殊らしい。

 だから、特殊ケースなのだ、と。

 だが、その詳細までは聞きおよんでいなかった。

 ほかの男性二人は、私服を着用していた。女性といっしょに、黙れ、と合図を送ってきたほうの一人が、自分と同世代──若干、年上だろうか。紺のスーツ。短髪。どちらかといえば体育会系だ。

 もう一人は、三十代後半から四十ほどと見受けられる。スーツ姿ではない。柄物のシャツが眼に痛い。健介の位置からはハッキリと見えないが、下もデニムのようだ。

 通常、私服勤務をする警察官は、スーツ着用が基本のはずだ。それともこの東京では、そんな常識などないのだろうか?

 もし、この部署のメンバーがこれだけならば、年齢的にも、かもし出す雰囲気からも、彼がここのリーダーということになる。

「ええーと、ぼくは秩父署から──」

 今度は、リーダーだと思われるその男性に、あたらめて声をかけた。

「だから、待って!」

 それを内勤の女性に制されてしまった。

「いま声かけちゃダメ」

「え?」

「ほら、あれ」

 もう一人の若いほうの男性が、指で示す。

「深海さん、あれ、邪魔されるのイヤがるから」

 だから、『あれ』とはなんなのだろう。

 見れば、深海と呼ばれた男性の手は、なにかをもてあそんでいた。

 あれは……?

「ルアー?」

 思わず健介は、つぶやいてしまった。

 カラフルに塗装された小さなもの。針が鋭利に輝いている。それを紙ヤスリで入念に研いでいるようだ。

 しばらく……五分ほどだろうか、深海という男性の作業を待つ時間が、永遠のように過ぎていった。ふう、と削れた塵を払うように息を吐くと、彼は、しげしげとルアーを眺めはじめた。いろいろと角度を変えて。

 満足したのだろうか、ルアーを机上に置いた。それが合図のように、

「よろしくね、わたしは川名奈々子。神奈川県警からの出向よ」

 唐突に、自己紹介がはじまった。

 かわなななこ……なんて舌の絡まりそうな名前なのだろう。

「あ、いま、言いにくいって思ったでしょ」

「い、いいえ!」

 健介は図星をつかれて、あたふたとしてしまった。

「仕方ないでしょ! ダンナの姓が、『川名』だったんだから」

「先輩、旧姓は佐藤なんスよ」

 若いほうの男性が、補足してくれた。ということは、彼女は既婚者なのか。所帯染みたところがないから、意外だった。それとも、結婚しているから、こんなにも無駄に色気が出ているのだろうか……。

「おれは、湖内ッス。湖内勇太ッス。山梨県警からの出向ッス」

「よろしくお願いします……」

 彼──湖内勇太のノリについていけず、健介は元気なくつぶやいた。

「で、あれが、深海さん」

 女性──川名奈々子が、添えるように紹介してくれた。

「どうも、今日からお世話になる、池田健介です!」

 入室したときよりも声量は抑えていたが、健介は最初の挨拶をやり直した。

 ゆっくりと、深海が振り向いた。

 ラフな服装が似合っていない。彼のような男こそ、スーツを着るべきではないのか。

 全体として無表情。どこか茫洋としていて、カリスマ性のようなものはうかがえない。警察官というよりも、市役所に勤める公務員の様相だ。

 ただし、眼力だけが強い。

「よろしく」

「よ、よろしくお願いします」

 職場でルアーの手入れをしているぐらいだから、信頼できる上司ではないだろう。

 健介は、これからの、ここでの生活を思って憂鬱になった。

 その感情を悟られたのだろうか、深海が視線をどけてくれない。対応に困った健介は、机上のルアーに焦点をしぼった。

「趣味なんですか? 釣り」

「いいや、釣りはやらない」

 思ってもみなかった答えが返ってきた。

「え? でも、それ……」

 ルアーを持っていて、釣りが趣味じゃない人が、この世にいるのだろうか?

 それとも趣味じゃなくて、釣りのほうが仕事だとか……。

 こんな得体の知れない部署ならば、ありえる話だと考えた。

 ここは、なにかヘマをやらかした人材の溜まり場なのかもしれない。自分も知らないうちに重大なミスをおかしてしまったのではないだろうか。もしくは、偉い人の機嫌をそこねたとか……。

 健介は、これまでのまだ短い警官人生を瞬時に回想していく。だれか、上層部の人と接点はなかったか……いや、あるはずはない。秩父での交番勤務では、そんな機会など。

「ここでは……どんな仕事をするんでしょうか……?」

 噴き出した疑問を押し止めることはできなかった。

「特殊ケースの犯罪を検挙する」

 深海は、短くそう答えた。それでは、この部署の名称そのままではないか。

 その『特殊なケース』の犯罪とは、なんなのか!?

《M》とは!?

 きっと、瞳で強く訴えていたのだろう。

 深海は、言葉をつけたした。

「体験したほうが早い。調査を終えた案件が一つある。すぐにでも踏み込める」

「予定では、本日午後三時です」

 すかさず、川名奈々子が補足してくれた。

「タイミングよかったッスね」

「バカね、それを見越して、今日からなんでしょ」

「あ、そうか」

 軽い口調での奈々子と湖内勇太のやりとりだが、意味のわからない健介は、ポカンと耳にしていることしかできない。

「これで釣り上げる」

 ルアーを掲げて、深海は言った。

「さ、魚ですか!?」

「ちがう。ルアーにかかるのは、フィッシュイーターと相場が決まっている」

 魚を捕食する魚──。

 釣りの知識はもっている。

 休みの日は、たいてい釣りに行くし、ルアーやフライフィッシングの経験も豊富だ。

 疑似餌は、魚や虫を模している。一般的には、フライフィッシングは虫を食べる魚を、ルアーフィッシングは小魚を食べる大型魚を狙う。

 ルアーでは、フィッシュイーターを。

 では、その《フィッシュイーター》とは、なんなのだろうか!?


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