第0話
どうして自分がこんな目に……!!
男は心の中でそう叫んだ。
叫ばずにはいられなかった。
確かに……この街はお世辞にも治安がいいとは言えないが―――それでも、このエウルの街に落ち着いて五年。
ドラゴンを乗り回して騒ぐ若者には迷惑してはいるものの、それでも上手く立ち回ってきた。
しかし、まさかそんな平穏が、白昼堂々のこんな街中で簡単に崩れ去ろうとは、思いもしなかった。
背後から、闇色の獣に襲われるまでは―――。
表の通りからこの裏路地は影になり注意して見なければ、誰しも素通りしてしまうだろう。現に男も財布を懐にしまい家路に急ぐ途中だったのだ。
声を出す間もなく裏路地に引きずりこまれ、無様に尻を打ち付けた男の前に、二人組が立ちはだかった。
「だ、だれだ……」
震える声で男が問う。建物の影になり二人組ということ以外うっすらとしか見えず、より恐怖が増す。
「……運が悪かったと思って諦めてくれっかな?」
カツン、と踵を鳴らし影が近づく。
まだ、若い。二十歳そこそこだろう。
使い古された両腕に嵌る銀の篭手、細かな傷の入った鈍く光る胸当てや、重たい金属の音がする底の減った靴が物語っている。この青年はどう見ても安穏と街中で暮らす種類の人間ではないことを。
これと言って特徴のない目鼻立ちだが、その左顔面を覆う革の眼帯だけが異様な雰囲気を醸し出していた。
「お、おれをどうするつもりだ……」
掠れる声を絞り出し問いた男に対し隻眼が僅かに細められた。
「どうするつもりもありませんわ」
しかし、男の質問に答えたのは鈴を転がすような女の声。
薔薇のように微笑みながら、路地のひび割れた壁にもたれ掛っていたもう一人が口を開いた。
「……・あ」
目の前の回答者の姿をその瞳に映せば、無自覚に言葉が漏る。
恐怖のあまり地面ばかり見ていたが顔を上げれば、薄暗い路地の中にあっても輝くような豊かな金の髪が嫌でも目についた。白い肌と薔薇色に染まった頬。こちらの女もまだ若い。まだ少女と言って差し支えない年齢のようだが、体のラインに沿ったベアトップはその成長途中の女性的な丸みを帯びた身体をより一層際立たせ、煽情的とすら言えた。
そして何より目を惹きつけるのは、蠱惑的な彩りを浮かべる赤い瞳。
口を阿呆のようにぽかんと開き自分を見つめる男の視線に気付いた女は、花弁を思わせる唇に孤を描く。
「先にオイタをしたのはアナタの方でしょう?」
「そうそう、善良な一般市民の財布を狙おうなんてダメだぜ~、おじさん」
「な、なんのことだ」
「え~?すっとぼけちゃうわけ?オレ達見てたぜ、さっき買い物帰りのお婆さんの財布スッただろ?あんた」
反射的に男の手が懐を抑えた。
青年と女が肩を竦めて僅かに笑い合う。
「……っ。お前たち……まさか自警団か」
「いいや、どう見てもただのしがない冒険者だろ」
「じゃあなんだ正義の味方気取りか?」
侮蔑もあらわに吐き捨てるような男の言葉に、青年が面白そうにゲラゲラと笑った。
「正義の味方~~~???別に興味ないね。オレ達が興味があんのは、アンタの財布だけだな」
「……な、んだと?」
「別に自警団に突き出すつもりもねぇからさ、財布の中身だけ置いてってくれる?」
「まぁアナタに選択肢なんてありませんけれど、ね。噛み殺されたくなかったら言う事をお聞きなさい」
「……噛み、殺す?」
男は青年と女の顔を交互に見上げ、そして、自らの足元へと視線を向ける。
「えぇ、優秀な猟犬が貴方の足元に控えていることをお忘れなく」
赤いネイルの施された長い指が男の影を指さした。
「その闇色の獣は、わたくしのいう事ならなんでも聞いてくれますのよ?」
――――闇色の獣、別名:影渡りの獣(ニフタクティノス)
魔導師の常套手段として、行使される存在である。犬の様な姿をし犬の様に主人に仕え闇から闇へと移動する召喚獣。その姿は術者の力量に左右されるという。
風を切る音と共に男の足元から飛び出し、あっという間に人目から隠された裏路地へと男を引きずり込んだのはつい先刻のこと。
本当に一瞬の出来事で、表通りでは男が消えた事など誰も気付いていないだろう。
「貴方が叫ぶより早く、喉元を噛み千切るなんて造作もないことなんですのよ?死体どころか血痕一つ残らず食べてくれますわ」
恐ろしい言葉を紡ぎながらも、花が綻ぶようにニッコリと微笑む。それに呼応するように、男の影から獣の低い唸り声が上がる。
彼女が言った通り、確かに闇色の獣は男の足元で息衝いているようだった。
影渡りの獣(ニフタクティノス)の名に恥じぬように、息を潜め、術者の命令でいつでも飛び出す為に。
「もちろん、オジ様が大人しく私の命令に従ってさえくだされば、そんな無体な真似は致しませんことよ」
そう言って、豊満な胸を強調するようにくびれた腰に手を当てる。
思わず自分の立場すら忘れて、ゴクリと生唾を飲み込んでしまうほど、目の前の女は美しかった。いっそ、妖艶と言ってもいい。赤いタイトスカートから覗く白い脚も、男の目を惹いてならない。
しかし、目の前の美女が口にした台詞は、まるで自分が悪いこと―――恐喝と言う名の犯罪に手を染めているなどとは微塵も思っていない雰囲気であった。
「は、犯罪だぞ、こんなこと」
「おっさん、お前が言うなよ」
「金に困ってるならこんなことしなくても、ギルドの方に行けば」
「そのセリフそっくりお返ししますけど、オジ様」
「悪くねぇだろ、アンタの軽犯罪を見逃す代わりに口止め料頂戴って言ってるだけなんだからさ。自警団に突き出すもよし、死ぬもよし、オレ達に大人しく金を渡すもよし。―――で、どうする?」
欠伸をするよりも自然に、青年が選択を迫る。
口調こそ投げやりだが、その目が全然笑っていない。
「…………」
男は渋々自分の懐から花柄の財布を取り出し、見目麗しい女の方に差し出した。
悪いことをすれば、結局自分に返ってくる。
誰しも、平等に。