第五話「子犬飼いましょう!」
犬の名前は今井麻美さんとは関係ありません。
銀行強盗の事件から三日。
楓と修次郎はメールで多くの会話をした。基本午後7時から10時の間のみ。
好きなもの・こと、嫌いなもの・こと、今度はどこに行きたいか。
楓の回答は半分が嘘だ。
女の子らしい回答をして修二郎を楽しませる。
楓自身、修二郎との会話は楽しいとは思っているが、同時に「こんなことをしていて、後で後悔するんじゃないか?」と思い始めていた。
「…僕はこのままでいいのかな…?」
楓は自室のベッドに寝そべりながらそう考えていた。
時刻は四時五十八分。
楓は布団を剥ぎ、ベッドから降り、ほったらかしにしてある中学校の制服とバッグを壁にかかっている木製のフックに掛けた。
タンスきれいに洗った黒いTシャツとジーパンを出して、着た。スマホをポケットに入れ、自室を出る。
あくびをしながら階段を降りて、洗面所に入った。引き出しからタオルを出して、蛇口から水を出す。眠気に満ちた顔に冷や水をかける。二十秒ほど経ち、タオルで顔を拭いて、洗濯機の上に置かれている緑のカゴに濡れたタオルを入れて、洗面所を出た。
広間に入り、辺りを見回す。
姉は帰ってきていない。
姉は高校卒業後、インターネット関係の会社に入社し、働き始めた。基本帰りは早いが、五時になっても帰ってこないということは、寄り道をしているか、“残業組”に入ってしまったのかもしれない。残業代は出るが、貰ってもうれしくないほど体力が削られながら帰らせられる。そんな奴らの集まりが残業組だ。
楓はキッチンに行き、冷蔵庫からひき肉とピーマン・玉ねぎ・人参・ケチャップを取り出し、隣にある棚からトマト缶とそのほかの調味料を取り出してテーブルに置いた。まな板と包丁を取り、まな板の上で野菜をみじん切りにしていく。
数十分後、ステンレスの鍋の中でミートソースが出来上がった。
七分後、もう一つの鍋の中でスパゲティの麺が茹で上がった。
楓は麺を皿に盛り、上にミートソースをかけて、広間のテーブルに置いた。キッチンに戻ってコップに麦茶を入れ、フォークを取り、広間に行ってそれらを置いた。ポケットからスマホを取り出してテーブルに置いて、座椅子に座る。
「いただきます。」
フォークを手に取り、麺を巻いて口に運ぶ。
半分食べ終えた頃に、テーブルに置いてあったスマホが短い間鳴った。取り出して画面を見てみると、“咲良奏”の名前が表示されていた。メールだ。開いてみた。
『ごめんね楓!今日はお姉ちゃんお家に帰れないから、明日の朝までお留守番しててね!』とある。
楓は『りょーかい。』と返信して、スマホの電源を切った。スパゲティに手を戻す。
食器を洗って片づけて、自室に行ってスマホを充電器に差し込んでからパジャマを取り、洗面所に行った。
服を脱いでタオルだけを持って風呂場に入った。
浴槽に浸かり、シャワーで髪と体を洗って、体全体を拭いて、洗面所に戻って新しい下着を履いて鼠色のパジャマを着た。
着替えた服とタオル二枚を開けた洗濯機に投入し、柔軟剤などを入れ、閉める。電源を入れてセットした。洗面所から出て自室に入った。
充電器に差し込んでおいたスマホを取って、ベッドに飛び乗る。
すると、修次郎から一件のメールが届いた。開いてみると、
『明日、汚れても良い服を着て、出来るだけ傷が付いたり失ったりしても平気な物を持って 前によく待ち合わせとかをした公園で会えないかな?時間は君次第だよ。』とある。
「なんのことだろう…?」
とりあえず楓は『わかりました。じゃぁ午後の二時に会いましょう。』と打ち込んで送信した。
「…ん…。」
一度部屋を出る。小便がしたくなったのだ。生憎二階にトイレは無い。階段を降りて一階のトイレに入った。
用を済ませ、一度広間に行く。
姉が居ないから静かだ。静かすぎて風邪をひきそうだ。姉が居ないといつもこうだ。
楓はそこはかとなく“寂しさ”を感じ始めた。
「…父さんも母さん…早く帰ってくればいいのに…。仕事のついででブラブラ歩き回ってるから日本に帰ってきていつもいつも上司の人にぶつぶつぶつぶつ…。」
そう念仏のように呟いていると、余計寂しさが増してきた。
「…修次郎さんが居てくれたらなぁ…」
楓はソファに座った。(霊的なもの以外で)何でも良いから大人数の声が聞きたくなってきた。テレビのリモコンを取ってテレビの電源を付け、ボタンでチャンネルを回す。コンビニの歌通りの様に、ほとんどが砂嵐だった。不気味すぎて心臓に妙な圧力がかかっていく様な気がしてきた。
楓は電源を切り、ソファに横たわった。
「…あぁ…寂しい……」
そう呟いて、ゆっくりと眠りに就いた。
朝になった。
目を開けると、向かいの姉がソファの上で寝ていた。うなっている。
「おかえり…お姉ちゃん…」
楓はソファに横たわったままそう呟き、一度二階に行って毛布を持って広間に行き、
「お疲れ様…。」
優しく、静かに姉の体に毛布をかけた。
姉は寝息をたたせながら寝ている。寝返りをし、毛布を体に巻く。ソファから落ちないか楓は心配したままキッチンに向かう。
午後一時四十分。
姉はまだ寝ている。楓はテーブルに『ミートソースがあります。麺はレンジで温めてね。』と書いた紙を置いて、自室に向かう。
髪を整え、何もプリントされていないただの黒い長袖Tシャツを着て、女物のジーパンを履き、小学校時代によく使っていた紐の付いた大きめの巾着袋に財布とスマホを入れ、階段を降りて自宅を出た。
公園に行くと、修次郎がペプシコーラを飲んで待っていた。
空になったペプシの缶を慣用のゴミ箱に投げ入れ「スットライク!!」、楓の方に歩いて行く。
「画面越し以外で合うのは四日ぶりだね。」
「そうですね…。」
「ところで、楓ちゃんはさ…」
「……?」
「“犬”って大丈夫?」
「…はい、大丈夫ですよ。」
修次郎の家に来た。
見た目はちょっと大きいだけの平凡な日本の民家だ。内装は、廊下は木・室内の床は全て畳だ。
修次郎と楓は六畳間の部屋に入った。生まれた頃から畳が全く無い家で生まれ育った楓にとっては、畳の安心感が誰よりも身に浸みる。
座布団に座ると、一人の女の子が襖を開けて入って来た。
「紹介しよう。妹の一人、美奈子だ。」
「は、初めまして…!よ、よろしくお願いします…!」
「いえいえ、こちらこそ!」
美奈子はニッコリと笑って、お盆にのっていた緑茶が入っている二本のペットボトルをちゃぶ台に置いた。
「ちゃんと言うとおりにしてくれたんだな。」
「当然よ。“あの子”は暴れん坊だもの。」
「…?」
「では、ごゆっくり__」
ふと襖を見ると、もう一人女の子が居た。隠れている。初めて会う楓に怯えている様だ。
「ほら菜奈子!楓さんにご挨拶しな!」
「はっ…初めまして…」
楓はニッコリ笑って「初めまして!」と返した。菜奈子も笑った。その後どこかに走り去っていく。
「…ごめんな、あいつ昔からあぁなんだ。」
「はぁ…。」
すると、菜奈子が一匹の子犬を抱いて戻ってきた。“ビーグル犬“だ。
「菜奈子!!早いよ!!」
「え…だってその人にこの子を見せ__あっ!!」
ビーグルの子犬は菜奈子の腕からすり抜け、ちゃぶ台の下を走り抜き、楓の太ももの辺りで止まった。甲高い声で「キャンッキャンッ!」と吠え始める。
__かっ…可愛い…!!
「あの、この子は…?」
楓はビーグルを抱き上げ、背を撫でる。ビーグルは知らない人に撫でられて少し嫌がっているようだ。
「うん…実はな…」
話はこうだ。
一週間前、様々な種類の犬を何匹も飼っていた夫婦が居て、主人の夫が亡くなった。妻のみでは犬たちの世話はキツすぎ、何匹かを自分達を含む近い親戚達に差し上げることにした。
だが、修次郎・美奈子・菜奈子の三兄妹の父親はアレルギー持ちで、この家に飼うことが禁止なのだ。
「友人達にも頼んでみたんだが、皆断ったんだ。」
「それで私に?」
「そうだ…急な話でごめんな…。」
ビーグルは楓の腕の中で暴れ回っている。何回か爪が袖に当たっている。
修次郎はビーグルの顎を指で「ほーれ、よしよーし。」と呟きながら撫で始める。嫌がって指を噛んだ。「ほら、怖くない」とか言っている。
__お姉ちゃんや父さんや母さんは、たしかアレルギー持ってない筈…飼ってみようかな?
「この子、名前なんていうんですか?」
「残念ながら、まだ決まってない。奥さんが「いつの間にか居た。」なんて言うぐらい犬多かったそうだしな。」
「へぇ…。」
楓は自分の腕の中で暴れ回っているこのビーグルの子犬の名前を考え始める。
股を見る限り、雌だろう。
「“ツバキ“!ほらっ、こっち来なっ!」
犬の名前はツバキに決まり、姉と電話し、飼う許可が下りたので、自宅にツバキを連れて行こうとしていた。
だが、修次郎の家から一歩も出ようとしない。
「…抱いて行くか?」
「その方が良いかもしれませんね…」
楓はツバキを抱き、修次郎と共に家を出た。
家に着くと、姉が居なかった。姉の愛車で通勤にも使われている『日産・ティーダ』も無い。
「ここが楓ちゃんの家か…。」
「はい…修次郎さんの家と違って、畳が全く無いんです…。」
「まぁ、犬を飼うならこの方が良いだろうな。ゲージとかある?」
「いえ。もしかしたら、姉がいないのは多分買いに行ったんだと思います…。」
「ふーむ…。とりあえず俺は帰るよ。明日いつでも良いから呼んでくれ。散歩の仕方とかも教えないといけないしな。」
「修次郎さん、犬飼ったことあるんですか?」
「柴犬二匹ぐらい小学生と中学生の頃飼ってたよ。菜奈子がよく甘噛みされてた。
じゃぁな。仲良くなれよ-。」
修次郎は楓の家を出て行き、自宅に戻っていった。
楓は広間を走り回っているツバキをタイミング良くキャッチし、抱き上げる。
「ここが君の新しいお家だよ…」
ツバキはまたキャンキャンと吠える。
その日の夜。姉からメールが届いた。
『急に仕事が入ってまた帰れなくなりました。ツバキちゃんと仲良くしてね。ゲージは買っておきました。明日家に置くよ。』とある。
ビックリマークや顔文字が無いのは、相当疲れているという証拠だ。
楓はツバキと共に風呂に入り、パジャマに着替え、ツバキを抱いて自室に行って、共にベッドに寝る。
「これで・・寂しくない…よね…」
暴れ回る新しい家族と共に、楓は一晩を過ごすのだった。




