特設運送船[疾風丸]
架空戦記創作大会2015春参加作品になります。
―――昭和19(1944)年1月、日本。
「これ考えた奴、馬鹿だろ」
「疾風丸」船内、船長室。
部屋の主である朝比奈は辞令を見るや、吐き捨てるような口調でそう断言した。朝比奈はこの辞令を持ってきたかつての後輩であり、旧知の仲である藤原を思わず呆れた顔で見やるが、藤原は淡々とした態度を崩さないでいた。
「ええ、全く持ってその通りですが、上からの命令ですので私からは何とも」
「命令、命令ね」
ふん、と朝比奈は鼻を鳴らし、辞令を机の上に投げ捨てた。
その辞令には簡潔に、
―――疾風丸ハ第一海上護衛隊ニ編入、輸送任務ニ従事サレタシ。
と書かれていた。
全く持って、朝比奈には何故「疾風丸」が輸送船として選ばれたのか、その意味が分からなかった。
「大体、何でこの船が輸送任務でボルネオくんだりまで行かなきゃならんのだ。この船を知っているのか?油槽船じゃないぞ。高速帆船なんだぞ」
「疾風丸」は全長115m、船幅13,89m、主檣高56m、総トン数3,150tを誇る鋼鉄製の4檣バーク型帆船である。バーク型、つまり最後尾の檣のみが縦帆、残りの3檣は横帆という艤装である。
この船は日本国内で建造されたのではなく、1911年にドイツ・ハンブルクのブローム・ウント・フォス社によって建造された帆船であった。元の名前は「パサート」と言った。
「パサート」は当時、25人―35人ほどの船員を乗せて欧州と南米を結ぶ貨物船として利用されていたが、1920年中頃に売却されるのを日本のある海運業者が購入。また同じく売却された「パサート」の姉妹船である「ペキン」も購入し、こちらは「陣風丸」と改名。2隻とも日本―オーストラリア間の貨物船として従事していた。
しかし、太平洋戦争の激化により海軍に徴発され、艤装を外してディーゼル機関を搭載。船体を軍艦色に塗り直して「陣風丸」と共に瀬戸内海で船員を育成するための航海練習と石炭や物資の輸送任務に従事していた。
「ええ、知っています。帆船だからですよ」
「はあ?」
「簡単に言いますと、一部の暴走と、モノがないからです」
藤原が言うように、日本に足りないモノが多すぎた。
特に燃料である。
日本でも相良油田など数は少ないが油田は存在する。が、艦艇や航空機、戦車などを動かすには全く足らない。そのため輸入に頼っていたが、輸出国だった米国との不仲も含む国際情勢の悪化と一連の出来事から資源の輸入が途絶えることになった。
そのため石油の供給が途絶えた日本は、戦争によって東南アジアの資源地帯を占領し資源を確保することを目指し、米国と開戦。太平洋戦争が勃発した。
1942年2月に蘭領インドネシアのバレンパン油田に陸軍の空挺部隊が降下作戦を行い、ほぼ無傷で油田と精油所を占領。他にも失敗はあったものの南方作戦によってオランダ領東インドなど東南アジア各地の産油地帯を占領した日本軍はバレンバン油田、ボルネオ島東岸のバリクパパン油田を中心に石油を手に入れることになった。
だが、昨今の戦況の悪化と活発化した連合軍による通商破壊によって石油の供給が滞りがちになっていた。そのため少しでも多くの石油を軍艦に回し、他の事では使用を控えたい。
そこで一部の海軍軍人が目をつけたのが、瀬戸内海にいる大型帆船であった。
帆船は帆に風を受ければ走るので燃料を必要としない。貴重な燃料の使用を抑えられ、かつ帆船自体の規模は大きいため、それなりに物資の輸送が出来た。そして南方海域は貿易風の影響もあり、今までの遠洋航海の記録でも帆走であっても十分な速力を得られると考えたのだ。
当初は瀬戸内海ある多数の機帆船を徴発することも考えたが、こちらにはアプローチをかけていなかった。その殆どが焼玉エンジンによる汽走を主体とした150t以下の木造船であり、物資輸送などに従事していたが船体が小さく、先に陸軍によって中国、南方戦線向けに片っ端から徴発されており、目ぼしい船は残っていなかったのだ。
何より陸軍の後追いをしたくはない、という思いが強かった。
「ですが本当に帆走だけで可能なのか、どうなのか。これが分からないためとりあえず「疾風丸」のみを改装して輸送任務に着かせる、そう考えたようです」
「ハッ、失敗すれば死、成功すれば他の帆船も同じく輸送任務に。たまったもんじゃないな」
「それには同意します。ですが、我々にはどうしようもありません」
このとき、瀬戸内海には「疾風丸」と「陣風丸」の他に、4隻の大型帆船がいた。
・「日本丸」(2,278t、4檣パーク型帆船)
・「海王丸」(2,238t、4檣パーク型帆船)
・「大成丸」(2,423t、4檣パーク型帆船)
・「進徳丸」(2,518t、4檣パーゲンティン型帆船)
この4隻は商船学校生を育成するための航海練習兼物資輸送に従事していたが、今の状況下では「疾風丸」の成果次第でどうなるか分からなかった。朝比奈の言うとおり、6隻の大型帆船で船団を組み、南方へ輸送任務に就くことだって考えられるのだ。
(……人を育てるはずの帆船まで引っ張り出して本当に、日本は勝てるのか?)
「ともかく、辞令を受けた以上は嫌でもやらなきゃならんか」
「既に艤装は用意されていますので、この湊で改装を受けるようにと」
「分かった、直ぐに準備する」
事務的なやり取りを終え、二人は久々に軽い雑談をする。そして藤原は退出した。
一人になった朝比奈は再び辞令に目をやり、首を静かに振る。
「本当に、どうなることやら……。皆を生きて帰らせられるのか……?」
これから巻き込まれるだろう苦難を考え、朝比奈はため息をついた。
*
昭和19(1944)年2月下旬。
「疾風丸」は旗艦となる海防艦1隻、中小型油槽船5隻からなる船団を編制。「ミ船団」と呼称され、ボルネオ島西岸のミリに向けて北九州の門司港を出港した。西岸にあるミリ油田は日本と距離的に近いという利点があったが、遠浅の地形であり、港湾設備も不十分であったため大型油槽船の運用に不向きであった。そのため余り活用されなかったが、去年末から米国海軍の潜水艦による攻撃が相次ぎ、今月の初めには「ヒ30船団」の油槽船2隻が撃沈されるなど被害が大きくなり始めていた。
そこで海軍は方針を転換し、低速・小型の油槽船をミリ産油輸送のための特別船団としてミ船団の開設を決めたのだ。この船団はミ船団第一陣であり、低速船で纏められていた。8kt程度しか出なかったが、「疾風丸」は微風下であっても帆走で8ktは出せるので、この船団に組み込まれることになった。
ただ、周りがもうもうと黒煙を上げて走る中、最後尾にいる「疾風丸」だけが茶色く染めた帆を目一杯膨らませ、滑る様に走るのは何とも不思議な光景であった。
「やれやれ。仕方ないとはいえ、「お色直し」もしないでこんな姿で帆走するとはね……」
「疾風丸」船橋で朝比奈はそう零した。「疾風丸」は船体はねずみ色の軍艦色、帆は柿渋で染めたものを使用していた。純白の帆だと光を反射して、遠くから目立つという理由であった。少しでも目立たず、安価な染料として柿渋が使われたのだ。
今のところ、「疾風丸」は問題は無く、航海は順調そのものであった。むしろ周りの速度に合わせるため、幾つかの帆を縮帆して速度を落としている状況だった。
「針路変更です。旗艦に追従するようにと」
――この船は汽走船とは違うんだぞッ、そんな直ぐに針路を変えられるかッ!
そう反射的に怒鳴りつけようとして、朝比奈は思いとどまる。ただ旗艦からの命令を読み上げた通信士には何も落ち度もないのだ。
朝比奈は怒りを堪え、通信士に「風向きが悪く、転舵できるか分からない。また帆船は直ぐに方向転換できないため、もっと事前に通達して欲しい」という内容の電文を送るよう命令を出したが、既に遅し。
旗艦と他の油槽船は転舵を始めていた。
「チッ」朝比奈は舌打ちをするも、直ぐに頭を切り替える。
「上手回し用意、急げ!」
突然の号令に慌てた船員達が総出でそれぞれの部署につく。
「下手舵!」
船団からやや遅れて、「疾風丸」は転舵する。それから朝比奈は矢継ぎ早に「はらみ綱、転桁索!」「前檣、主檣、帆桁を回せ!回せッ!」と号令を出し、船員達の技もあってどうにか転舵する。
ただ、そんな苦労も知らない海軍軍人が「遅い!」と文句を言ってくるため、朝比奈は常に血圧が上がりっぱなしであった。
どうにかして、敵潜水艦に遭うこともなく船団はミリに到着。「疾風丸」は石油の入ったドラム缶をぎりぎりまで積み込み、帰路に立った。
無事、門司港に到着し、朝比奈はこんな馬鹿げたことも終わりだ、と内心考えていたが、そうはならず。
何事もなかったため、そして想定よりも多い石油が手に入ったことで海軍はこれを成功と捉えたのだ!
ただ、帆船を汽走船と組むのは問題があるとして、「陣風丸」、「日本丸」、「海王丸」、「大成丸」、「進徳丸」という全ての大型練習帆船の艤装を戻し、投入することに決定。6隻の帆船を一つの船団とし、「ミ号帆走船団」と呼称。石油輸送任務に当たることになった。
「こんな馬鹿な話があるかッ!?」
辞令を聞いた朝比奈はそう怒鳴ったが、命令は覆らない。
護衛艦がいると帆船の動きを阻害するという理由で――実際は護衛艦の数に余裕がなかったんだろうと思われる――、一応、各船に武装が施されることになったが、旧式の平射砲が1門、聴音機と探信儀、爆雷投射機が1基ずつ、重機関銃2丁という気休めにもならないものだった。
昭和19(1944)年4月中旬。
再びミリの石油を本土に輸送するため、「疾風丸」を含む大型帆船6隻による船団が門司港を出港。
電信を使わず、伝統的な灯火信号と信号旗でやりとりしていたためか、また帆船であるため風の影響から速度は一定ではなく、規定の航路からずれが出ており、結果としてそれが功を奏したのか。運よく襲撃はなく、船団は予定日をやや遅れてミリに到着。石油を積み込み、出港。6月の上旬に門司港に帰港した。
そして7月上旬には2度目となる「ミ号帆走船団」が門司港を出港。これが船団最後となる輸送任務であり、そして最大の危険が訪れることになった。
それはミリで石油缶を積み、門司港へ帰還しようとルソン海峡を通っているときだった。
「疾風丸」を先頭に帆走しているとき、急に風が変わった。急いで帆の開きを変え、針路を変更した際に「疾風丸」の元いた辺りで海中から爆発が起きたのだ!
「敵だ!」
朝比奈は直ぐに判断を下し、信号員に他船へ警戒を促すよう通達する。違ったら無駄なことをしたで済むが、本当だったらほぼ何も出来ないのだ。
信号を受けて船団は各自で回避運動を始める。帆船は自由に動かないし、何より艤装も総トン数も違うからだ。緊急時にまともな艦隊運動は出来ない。「大成丸」と「進徳丸」が風に流され、船団から離れていく。
直後、見張員が声を上げる。
「雷撃ィーッ!」
遠く、風上から二つの白い筋、雷跡だ。「疾風丸」に向かっている。
「下手舵一杯!」
舵輪の取っ手が霞むほど速く回し、帆桁と転桁索を引き寄せる。すぐさま船を船首を雷跡側へ向ける。
「前檣、裏帆打たせッ!船を止めろ!」
裏帆を打ち、強引に船を停止させる。間に合った。2つの雷跡は帆船を避けるように走っていった。射点と思われる場所に「日本丸」と「海王丸」が近づき、次々と爆雷を投射する。
「潜望鏡に注意ッ!」
探す、探す、探す。潜望鏡らしきものには機関銃を打ち込む。牽制にはなるだろう。一旦、爆雷攻撃を止める。聴音機で周囲を探索する。
「いたッ!本船3時方向に推進音。感度2!」
他にエンジン音がしないためか、潜水艦が見つかる。直ぐにこの情報を伝える。「日本丸」と「海王丸」が探信儀を使い、潜水艦へと迫る。潜伏していそうな海域を絞り、「疾風丸」と「陣風丸」も動く。
探信儀で遂に潜水艦を捕捉する。
「爆雷用意!」
ほぼ同時に、4隻の帆船から爆雷が投下される。辺り一帯に搭載する全ての爆雷を投下し続ける。
ほぼ爆雷を打ち尽くしたところで、「日本丸」から信号が来る。
「日本丸から信号!『海面ニ重油、気泡ヲ見ユ。轟沈確実』です!」
「やったかッ!?」
この言葉に船橋では溢れんばかりの歓声と万歳が起きた。見れば船員が互いに肩を叩き合っていた。「日本丸」に近づくと、海面には重油が広がっており、それに混ざって潜水艦の乗務員らしい物体まで浮いていた。
「総員、静かにッ!」朝比奈が声を張る。「長居は無用だ。とっととこの海域を抜け出すぞ、次が来るかもしれん」
再び「疾風丸」の元に帆船が集まり、海域を脱出する。
そして8月下旬。船団は門司港へ到着した。戦後に分かった話だが、ルソン海峡には米国の潜水艦が多数配置されており、群狼戦術によって多数の輸送船が沈められたのだという。「帆走船団」が助かったのも、様々な要因が絡んだ結果なんだろう、と朝比奈は振り返った。
10月には「帆走船団」はミリへ三度目の輸送任務に就く予定だったが、米国潜水艦による攻撃の激化により中止。「帆走船団」は解散し、再び艤装を外し、各地で物資輸送任務に就くこととなった。
「帆走船団」が持ってきた石油は多少、海軍に余裕が出来たが大局には寄与せず。
昭和20(1945)年8月15日、終戦。
終戦後、「疾風丸」を含む6隻の船は無傷で残っており、海外在留邦人の復員船として、また遺骨収集にも携わった。昭和25(1950)年に勃発した朝鮮戦争では特殊輸送任務に従事した。
昭和31(1956)年にはそれぞれが元の塗装、純白の帆に戻され、「疾風丸」と「陣風丸」は貨物船として食糧輸送に従事したが、昭和41(1966)年に練習帆船となる。「日本丸」、「海王丸」、「大成丸」、「進徳丸」と共に多く船員を育成することになった。
後に「陣風丸」が投錨中、暴風雨に遭い座礁。また後継船の建造により「日本丸」、「海王丸」、「大成丸」、「進徳丸」の4隻の帆船は順次引退することになった。しかし、「疾風丸」のみは改修を重ね、現役を続行。
平成23(2011)年には「疾風丸」の進水100周年を記念して、横浜港に今だ現役である「疾風丸」、引退し、各地で係留保存されていた「初代陣風丸」、「初代日本丸」、「初代大成丸」、「初代進徳丸」、初代から名前を引き継いだ「海王丸Ⅱ世」までもが集まり、世間を大いに賑わせた。
現在もなお「疾風丸」は現役の練習帆船として活躍し、多くの実習生を育てている。
ネタで書き始めたので、まあ無茶があること……。
大人しくゼーアドラーみたいな感じにすれば良かったかなー、と思わくもない。
「疾風丸」の元になった帆船「パサート」は現在、ドイツ・リューベックのトラベミュンデに係留されております。
「陣風丸」の元である「ペキン」はニューヨークのサウス・ストリート・シーポートに係留されていますが、所有者の博物館が経営難で閉鎖。老朽化しているという……。
少しでも楽しんでもらえれば幸いです。