物書きの杞憂10
一つ確認したいことがあった。婆さんは未だ起きているはず、如何にも何か違和感を感じて、身内の存命さえ信じ難い。でも確かに、あの人は柔な老人ではない。御年79歳のすこぶる快活な淑女だ。年齢のことと、彼女を女性扱いしない男は何故か悉く不幸な目に合う。
しかも地味に尾の引く奴を―ある人は恋人の前で騒動に巻き込まれ、頭から蜂蜜を被り行きずりの数多の蜂に追われた(幸いにも蜜蜂ばかりだったが、)挙句振られている。―例えを挙げると切がないし子供の頃、散々躾けられた手前口が裂けても言いはしない。ただ稀に、こっちの胸中を判っているんじゃないかって恐ろしく感じることがある。“魔女”なんて揶揄似合いすぎて笑えない、禍々しさよりは少女染みた感じだけれど…。
そうだ。それで思い出した、彼女は一回だけ我が家に招かれたことがある。それも男装が様に為っていたから誰も女性だとは気付かなかった。勿論、変声機仕込んだ状態で、だ。件の婆さんに気に入られて『孫が娘だったら嫁がせたのに、』と至極残念そうな末恐ろしいことを堂々と言っていた。部屋の扉を薄く開いて窺っていたヴェルツエに目配せしたようにも思えたが、恐怖に慄いて腰が抜けたのを覚えている。後で従兄に盛大に笑われた、
「婆様、これ」と差し出そうとしたヴェルツエを押し退けて、「あの子には悪いことをしたかね。でも御蔭で良いことを知れた」と独白する通称:魔―、ギロリと優しい眼差しがヴェルツエの瞳を射抜く。『ひっ』と胸中に留めた己を褒め称えたい「ヴェルツエ、御前。あの子を射止めておいで丁度、恋人もいないだろう」と窓のそと集合住宅を指した。若しかしなくとも彼女久野瀬の居城であろう…
数日前、倦怠期に入り浮気されて別れた女が居た―泣き縋って見苦しいほかないし、噴水広場は憩いの場だ。目立つことこの上なし、そこを何故か婆様が通り縋った―何を如何説得されたのか知らないが女は吹っ切れて「さようなら」と手まで愛想よく振ったのだ。薄気味悪い思いを押し殺し、隣で微笑む婆様を見る「さあ帰りましょうか」可愛らしい少女のようにヴェルツエの手を取った。家に帰り着くまで握り締められ、また従兄にからかわれる。
その従兄の嫁ハンナに聴かされた話だと、―まあ薄々察しが着くけれど―恋人だった女はヴェルツエの顔が美しいから執着しただけで。婆さんが良い人を紹介したら身持ちも固くなり堅実な妻として納まったそう。美しいかは微妙な顔だが、今は幸せなのだそうだ。
ヴェルツエは看守の目から逃れ安堵の息を飲んだ、まだ気を弛めるには早い。何処で見張っているのか知れないからだ。久野瀬が驚く顔をするだろうと、重い溜息を吐き出した。




