アルセルドの日記。脇道幾つか、
彼の部下に言い聞かせていたら。何時の間にか先生自身が消えていた、おそらく散歩にでも出掛けたのだろうと気に留めなかった。昼時、私の意識のほとんどが食べ物に集中する時間だったから。日常と化した待ち人が持参する弁当の中身が今から楽しみでしょうがない。
丁度入れ違ったらしく敷地の端で一巡してくるのを待った。「おーい」と間抜けな呼び声とぶっきらぼうな馴染みが高々と物を掲げた。そのまま歩み寄ってきて隣の空間に腰掛ける。近所付き合いで未だ隣家と交流のある私は度々、都合してもらう事があった。一応、料理は心得ているが本命もいないので揮う機会も無いし。それに、何と言っても絶品なのだ。高い料金表示に釣り合わない外食よりもよほど美味である。
警備員には恋人として紹介したら、あっさり入館許可をくれた。「あ、所長には言っちゃ駄目だよ」と片目を瞑られれば仕方ない。本当は弟として招こうかと考えていたが、髪色も容姿も似ていない為に却下した。あわよくばと私の理想の旦那を捕らえるのに、邪魔な恋人偽装だが不承不承だ。折しもその日に限って並んで箸を突いていたのだ。
そんな最中、怖い顔をして走る先生を見掛けた。ちらと此方を一顧にすることなく走り去っていく。あまりの慌てように怪訝に思ったが見なかったことにした。
「ねえ、今の人…。如何してあんなに急いでいたのかな?」暢気な馴染みが欠伸をしながら話題を手向ける。「さあ、少なくともあんただけには一生判らないでしょうね…」食べ尽くした空の弁当箱を返すと「御礼はまた後日にするから。伝えといて」片手を上着の物入に掛け、後輩がいるだろう職場に戻った。ちなみに先生の部署とは離れている。
幼馴染の女が颯爽と長い髪を靡かせて白々しい建物の中へ歩いて行った、薄い褪せた金髪と少しはためく白衣が数少ない雲間の光さえも奪ってしまう。要は、きらきらしいのだ―こんな場所で燻るには些か眩しかろう―同僚の職員達を哀れんだ。
そして、走り去った男の瞬間の落胆というか。驚愕というかが凄まじかった、横切る刹那に散った雫を拾わずに掛けて行った。『勿体無い』と呟いた俺の顔が醜く歪んだのを誰に見咎められることも無かった。女が望む破格の物件が無防備に転がっているのに。年齢からして凡そ奥方でもいると思い違いしたのだろうが、あれは確実に―。
昼の残りを掻き込んで、常の警備員に挨拶して帰るかと立ち上がった。面白い土産が出来そうだ。悪ふざけに乗ってくる可愛らしさがあって良かった。このときはじめて幼馴染の長所を疎んじたのだ、悉く全てに於いて鉄壁な女は要らん。
書き溜めていた余分を消化、特に他意無く。