トレイン
人は旅をするものだと聞く。しかしそれは独りでするものか、はたまた誰かとするものなのか、厳密に定めたものはいない。
旅と言うものを人生と置き換えて見ると、普通は誰かと寄り添い合い、旅をすることが普通だろう。しかしそうでもない人間もいるのだろう。
現に私は、人との垣根をいつしか壊すことを忘れ、今一人になってしまった。決して人間が嫌いだったわけじゃない。むしろ好きだった。煩わしい人間生活を一種のゲームのように、一種の試練のように私はそれをしてきた。
揉め事もたくさんあった。人とケンカするのは当たり前。人を疑うのは当たり前。金が絡み、情が絡み、私の周りの人たちと互いを傷つけあってきたのだ。それが楽しかった。選択肢がいっぱいあるなかで、私はそれらを選び取ってきたのだ。
そうして私は人生の終盤を迎えている。
今、行き先を決めずに電車に乗り込み、私は心地よい揺れと共にあてどもなく彷徨っている。若者のように途方に暮れているのではない。私は好んで彷徨っているのだ。
手元にある小説を開き、文字に視線を落とした。長い旅になりそうだと思ったので、厚い本のなかから、より一層厚い本を本棚から引っ張り出してきたのだ。
そうそう、私の書斎はかなりの本が置いてある。決して研究者という職業に就いていたわけではない。普通の一般企業だ。だが、私は社会人でありながら、どこか暇を持て余していたのだ。言い知れぬ孤独が私だけの友とでも言うように。だから私は本を集めた。専門書から小説、絵本に至るまで。そうして私はあたかも満たされたように生活を送っていたのだ。
ふと身体が電車の進行方向に傾き電車が停まった。駅に着いたのだろう。私は特に駅名を見ることなく、ただ小説に目を落としていた。すると、どこからともなく子供の声が聞こえてきた。私はそれにつられるように視線を上げた。
子供は私以外誰もいない車両を見て喜んで走り回った。手に持っている自動車のおもちゃをかかげて、子供は飛んだり跳ねたりしていた。私はその子供の無邪気ともいえるその奇行にじっと視線を向けていた。決して子供に対して嫌悪していたのではない。むしろ微笑ましくて、ついつい後を追ってしまったのだ。これまで私は自分の考えを少しだけ否定しながら話しているが、それは私がそれだけ誤解されがちな人間だったということを心にとめていただきたい。
子供はひと通り広い車両を満喫し終えると、私の隣で小さな身体を椅子に預けて、私の顔をまじまじと見つめた。私は読みかけの本に栞を挟むと、本を脇に置いて子供の方に穏やかに微笑みかけた。それを見た子供は私につられて微笑み返してくれた。私はその子供の無邪気さにすっかり心を奪われてしまった。
「坊や、お母さんとは一緒じゃないのかい?」
子供は私の質問が理解できなかったのか、聞いてなかったのか首をかしげて、私の目をもう一度まじまじと見つめた。私はもう一度子供に尋ねようとして口を開きかけたが、子供が違うものに夢中になっているのに気が付き口をつぐんだ。
私は向かいの窓に視線を移して秋の紅葉を眺めた。
「見て、おじいちゃん! まるで赤い絨毯みたいだよ。あれに飛び込んだらどんなに気持ちがいいのかな。おじいちゃんはしたことある?」
子供が初めて放った言葉に、私は慌てて後ろの方を見た。子供は電車の座席に膝をつけて身を乗り出すように頭を窓にぴたりとつけているのだ。そして、私の方を見て笑いかけた。
「どれどれ」
私は子供が言っていた光景に目をやった。私は最初、紅葉のことを言っているのかと思った。茶畑などを見ると、あの緑色の柔らかそうな部分に飛び込みたくなる思いをずっと子供の頃に感じていたのだ。綺麗に並んでなめらかに切られたそれは、私の心を躍らせたのだ。また、雪のことを思い出しもした。どこも足跡のない雪景色を見ると、踏みつけてこの光景を汚したくないという思いとは裏腹に、雪に全身で飛び込みたいという衝動は経験にあった。
しかし子供が言っていたのは、そのどれでもなかった。子供は日の暮れかかった夕日から発せられる、淡いオレンジ色のことを言っていたのだ。そうして、その夕日に照らされた赤い屋根たち。子供はその光景を赤い絨毯というなんとも曖昧な方法で表現したのだ。面白いことを考える子供だと思った。私は屋根のちょっとした凸凹が絨毯の模様のように思えた。
子供は私がそれに目を奪われていると、満足したような微笑みを浮かべた。
「すごいよね?」
子供は私の顔を見るなり、私の感嘆な言葉をせがんで来たのだ。
「ああ、すごい。よく見つけたね、坊や。君は面白い人になれるかもしれないね。いやはや、大人になる時が楽しみだよ」
私は子供の頭を撫でながら景色の方ばかり目が囚われていた。ひとしきりその景色を見終わると、私は子供の方に視線をやった。子供は先ほどの景色にはもう飽きたのか、自分の持っていたおもちゃでまた遊んでいた。
「なあ、坊や。どこまで行くんだい?」
「うーんとね、お母さんと離れちゃったから、ここで待ってるの。少し前まで一緒にいたんだけど、いなくなっちゃった」
「そうだったのかい。それじゃあ、その切符は坊やのお母さんに持たされたんだね。そうか、そうだったのか」
私はしきりに納得したように言葉を繰り返した。ふと私は子供が不便に思った。このままでは子供は母親に会えないかもしれない。むしろ次の駅で子供を降ろして駅員に連絡したほうがいいだろうか。
私は思案を巡らせながらポケットを探ると、ちょうど子供の好きそうな飴玉が入っていた。私はそれを子供にやり、もう少し頑張ろうと意味合いを込めて差し出した。子供は嬉しそうに受け取り、口の中で飴玉を転がし始めた。その飴玉に本当に夢中になって舐めていた。子供はまるで親のことなど頭にないように。気が紛れるならいいだろうと私は思い、そのまま外の景色を見つめた。すると子供がまた話しかけてきた。
「ねえ、おじいちゃんはどこに行く途中なの?」
「私かい? 私は特に行き先を決めていないんだよ。今は電車に揺られるために乗っているからね。歳をとるとこれが少しばかり心地よく感じるんだ。まあ、実際私もどこに行きたいかわからないってことだよ」
「ふーん。あ!」
「どうしたんだい。お母さんと連絡でも着いたのかい」
「ううん。実はね、最近いいことがあったの。とってもいいこと。僕ね、夏にね、こんなおっきなセミ捕まえたの。僕のね、手の平ぐらいあってね、お母さんに自慢したらえらいねって、褒めてくれたの。ねえ、すごい?」
「それはすごい。私の子供の頃にはそれくらいのセミがゴロゴロいてね。それでもそれを捕まえられるのは結構難しかったもんだよ。それにしても、今でもそれぐらいのセミが出るなんてそれはびっくりしたよ。それを捕まえた坊やも大したもんだ」
「えへへ」
私は子供の無邪気な笑顔を見ると心が穏やかな気持ちになった。
実際、子どもの笑顔に腹を立てる人間などいないのではないだろうか。それほど子供の笑顔は力を持っていた。大人のように卑しい笑みや、憎たらしい笑みなど子供に要求するのは無理があるだろう。子供はまだこの世に生まれ出たばかりの何も知らない存在なのだから。だから、ある意味私とは全く別の生き物のように思える。思考回路が同じでも、その思考から行き着く先が全く別の方向というのもあり得るのではないだろうか。そうして私たちは、子供に私たちという大人をお手本にするかのように育てているのだ。
それは子供にとっては、はた迷惑なことかもしれない。卑しい人間になって、純粋無垢ではなくなってしまう。それでも子供は将来の夢を、大人になっていく自分を無邪気に語るのだ。こんな人間になりたい。こんな職業に就きたいと。もしかしたら私たちを見て、こんな人間になりたいと言ってくれるか子供もいるかもしれない。そんな時私たちは心底嬉しい気持ちになるのだ。この世に生まれてきてよかったと思えるだろう。それがもしかしたら子を残すことに直結するのかもしれない。
「坊やは将来どんな大人になりたいんだい? 今はなれるものが多いからね。坊やの年代は少しばかり大変かもしれないけど」
「将来の夢? そうだなー。スポーツ選手になりたい。だってそうでしょう? スポーツ選手になればお金がいっぱいもらえるでしょう? そうしたらきっとお母さん達が喜ぶじゃん。そうしたらきっとみんな幸せになれるはずだもん。おじいちゃんもそう思わない?」
「そうだね。頑張るといいさ。これから大変な努力をしなくちゃならないがね。坊やはきっとそれを辛いことだと感じるかもしれない。それでも頑張り続ければ叶うものもある。いつかその夢がかなったら、おじいちゃんに教えてくれるかい?」
「うん!」
私は子供と手を交わして指切りをした。私にとっては何の意味もない行為だったが、子供にとっては決意の表れと、将来の希望が込められていたのかもしれない。
「でもね、本当は色々なりたいとものがあるんだ。だってそうでしょう? 僕はまだ生きてもいないんだから」
その言葉に私は心臓を誰かに触れられたような気がした。電車のなかのエアコンが効きすぎているせいか、背筋が肌寒い。子供は無邪気に笑っていたと思ったら、いきなり哲学めいたことを言い出した。まるで自分の心が見透かされた気分になってきた。私はこの子供が自分で何を言っているかわかってないのではないだろうか。誰かの真似をしているのかもしれない。私はこのとき一番正しい解釈を導き出したと思っていた。だから私は尋ねたのだ。
「それは一体誰から聞いたんだい? 誰かの言葉を真似したんだろう?」
私の言葉には同様のそのものが潜んでいた。それでも仕方がなかったのだ。しかし子供は、私が質問した言葉に答えず、穏やかに微笑んでいるのだから。私は焦って何か言葉はないかと探した。
「そういえば、他になりたいものがあるんだって? おじいちゃんに教えてくれるかな?」
「えっとね。お花やさんとか。パン屋さん。警察官とかにもなりたい。消防士さんとかもやってみたいなー」
「そうかい、そうかい。全部いい仕事だね。ちなみに坊やのお父さんは何をやっている人なんだい?」
そのことを聞くと、子供はふと満面の笑みを浮かべた。それを聞かれたことが嬉しかったのか、もったいつけて、なかなか話そうとはしなかった。そして子供がひとしきりにこやかな笑みを浮かべた後で応えてくれた。
「うーん、よくわからないんだ。危ないからってあまり仕事場に入れてもらえないからさ。でもね、何かすごいものを作ってるんだ」
それと同時に電車が停止した。もう次の駅に着いたのだ。すると、少年はドアの方にいきなり駆け出して行った。
「あ、お母さんが呼んでる。行かなきゃ。バイバイ、おじいちゃん」
子供は慌てて降りると私に向かって最後に無邪気な笑顔を見せてくれた。私もにこやかに手を振りかえした。はて、人の声など私は聞いただろうか。それにお母さんとはぐれたのは駅ではなかったか。そうか、もしかしたらこの電車に一緒に乗っていたのだろう。
状況はいろいろと納得したものの、私はそれでいて先ほどの子供の話が気になって仕方がなかった。あれほど穏やかな表情を、まだ幼い普通の子供ができるだろうが。
私は最近の子供はよくわからないという結論を出して一人で納得すると、脇に抱えた本を開いてページをめくった。私の旅はまだ始まったばかりなのだから。日が沈みかけて、一筋の淡いオレンジに色の光が電車の窓を突き抜けて車内を照らした。
途端に慌ただしい音がした。私は顔を上げると、そこには一人の少年が立っていた。どうやら駆け込んで電車に乗ってきたらしい。息も荒く、肩を上下に揺らしている。身なりは学生服をきっちり上ボタンまで締めていて、今時珍しい風体の若者である。私は横目でその少年のことを観察すると、また行間に目を落とした。
本を一ページ読み終えた頃、しきりに向かいの座席の、私が座ってる反対側の隅の方からため息が聞こえてくるのだ。私は声をかけようか迷ったが、意を決して声をかけてみた。
「どうしたんですか? 何か悩み事でも?」
私が声をかけると、少年はこちらをきつく睨んだ。私は穏やかな表情で少年の顔を見つめると、少年は根負けしたようにため息をついた。苦笑いを浮かべて私に返答した。
「いえ、少しだけ父親と喧嘩してしまって、思いつめていたんです。どうも、いけませんね。自分を育ててくれた親に反抗的な態度をとってしまうのは。それでもやはり反抗期と言いますか、自分の感情を押さえ込めないでいるんです」
「そうですか。反抗期とは誰にでもありますし、一生反抗する息子というのもいるらしいですよ。ちなみにお父さんとはどんなことで喧嘩してしまったのですか? いえいえ、言いたくなければいいんです。ただの老人の戯言として聞き流してしまって構いませんから。ただ話したら楽になるということもありますので。私は話に耳を傾けるだけですから」
私がそう言うと、少年はむっつりとした顔をして黙り込んだ。しかし、しばらくすると少年は私の顔をまっすぐ見て口を開いた。その表情からは、何かしらの信頼関係が私たちのなかで結ばれたような、そんな感覚がした。
「実は、進路のことで……。俺の親父は工場で腕一本で仕事してきたっていう職人なんですよ。やっぱり、親父は俺を自分の跡取りとして育てたいらしくて、俺を専門的な学校に入れるなんて言い出して。でも、やっぱり俺にだってやりたいことはあって、それで反発してしまったんです」
「そうですか。確かにお父さんの立場からしたら、息子のあなたに工場を継いでもらうのが第二の人生としての悲願だったのでしょう。私だってもし息子がいて、私が何かを経営していたら、私は是非とも息子に継がせたいと思うでしょう。多分息子がいたら、それが私の人生のある意味目標になっていたかもしれませんね」
「やっぱりそうですよね……」
少年は消え入りそうな声で言葉を発した。話を聞く前よりも落ち込ませてしまったかもしれないと、私は居たたまれない気持ちになった。私は少年に何か話を聞かせるものはないかと考えていると、ふとある話を思い出した。
「少しだけあなたと似た境遇の家族の話があるんですよ。まあ、どこにでもあるような話ですがね。その中にはあなたと同じことで悩んでいる息子もいたんです。
その話なんですがね、とある父親と息子ともう一人娘の話なんです。その家族の父親はある大きな大学病院に努めていたのですが、ある日辞表を叩きつけて辞めてしまったんです。その父親はそれは腕のいい医者だったんですが、正義感というものがありまして、上の人の不正を見過ごすことの出来ないたちの人だったんですよ。それで上司とケンカしてその病院を辞めて、自分の診療所を持つことにしたんです」
私の話に興味を覚えたのか少年は食い入るように私を眺めて、話に耳を傾け始めた。私は微笑みながら話を進めた。
「最初のうちは、その父親は大変苦労しました。腕はいいといっても、患者はそれを知らないわけですよね。だから患者の入りもあまり芳しくなかった。それでもなんとか頑張ってその診療所を普通に稼げるぐらいにまで育て上げたんです。
そのうち子供が生まれ、父親は生まれた男の子にその診療所を継いで欲しいと思ったんです。でも、その子供は出来があまりよくなかったんです。簡単に言えばあまり勉強ができなかったということでしょう。医者というのは頭が良くないと出来ないような職業ですからね。父親は大変苛立ちを覚えました。子供からしてみたら、勝手に自分を跡継ぎにしたいと思ってるだけだろうと、憤慨してしまうところでしょうけど。そうして、とうとうその息子は癇癪を起こして家を飛び出してしまうのです。
そんな時、またその家には遊び歩いている娘がいたんです。顔は大変整っていて、美しいと評判なのですが、あまり働くことはしません。働いてもすぐ辞めてしまいます。しょうがないので母親が家事を少しずつ教えて行くという形で家に居座っているのです。
さてそうでした。家を飛び出した息子は行く宛もなく放浪するのですが、さる場所でひもじい思いをしていたときにある人に出会うんです。息子を一休みと言うことで家にあげた心優しい紳士がいたのです。その紳士の家に行くと、そこはアトリエをなっていました。そこで紳士から頂いたお茶を飲みながら話をしていました。息子は周りにある絵に気を取られてしまいました。それに気がついた紳士は謙虚な姿勢を保ちつつも、自分が描いた絵と言うことを告白するのです。少年はその絵たちに心を奪われました。少年はすぐさま家に帰り、身支度を整えると住み込みの働き口を探しながら、独自に絵の勉強を始めるのです。
心配になった母親が息子の勤め先を尋ねると、自分は今絵の勉強をしているので医者になれないと告白します。母親は気を失いそうになりながらもそれに耐えて、父親にその詳細を話すのです。
するとどうでしょう。その父親は激怒するでもなく、癇癪を起こすでもなく、ただ一言だけ『そうか』と言って息子のことを諦めるのです。これを聞いた家族のみんなは驚きながらも、心の中では認めていないのだなと思っていました。
その知らせを受けた息子は、早くも画家として大成するように勉強を始め、絵を完成させて売り込みに行くのです。しかし現実はそんな甘いものではなかったのです。ただのお遊びだと道行く人に切り捨てられ、息子は失意のどん底に落ちていくのです。そんな状況を風の噂で聞いて、父親以外の家族全員が息子を尋ねて行くんです。
息子は家族の心配とする気持ちがどうしても同情としか映らなかった。息子は憤怒して自分が心血込めて描いた作品を川に投げ入れるのです。そうして息子は捨て台詞を吐いて、家族に帰るように促すのです。息子の作品は川に流されるままに進んで行ってしまいます。息子は唾を飲み込みながらその絵の行く末を見るのです。
しかしそんな時でした。本当に誰もが口を開くのをためらわれるようなそんな時。急に川に何かが落ちる音がしたんです。この時の状況を正確に言い表すのであれば、飛び込んだ音ですか。これでなんとなくお分かりになったでしょう。父親が息子の絵を追うために川に飛び込んだのです。
家族全員が驚きました。この驚きに息子はもちろん入っているんですよ。まさか、あそこまで自分を医者にしようとしていたあの父親が。家族に対していつも厳格な父親が、息子の絵のために川に飛び込んだのです。その川は工場の近くということもあり、ひどく汚染されていました。絵は腐臭にまみれ、触るなど誰ができましょう。ましてや、川に飛び込むのもためらわれます。それでもその父親はその絵を掴み取ったのです。父親は息子にこう言いました。
『お前は私の夢を踏みにじり自分のために生きることに決めた。私にとってお前が診療所継いでもらうのが何よりの夢だった。それをお前は踏みにじったんだ。だがなんだ、今のお前の有様は? お前がやりたかったことは、お前が家まで飛び出してやりたかったことは、こんなにも簡単に捨ててしまえるものだったのか。なら本当に辞めてしまえ! そして家に帰ってくるんだ! そうして私の言うとおり医者を目指すんだ。そうするなら俺は何年たっても待ってやる!』と。
父親はそこで初めて自分のことを話したのです。そうしてそれが父親の胸の内であり、心の弱さでもあったわけです。父親は愚かな生き物です。自分の夢の続きを、自分が血を分けた肉親に継がせたいという気持ちがあり、それを押し付けようとするのですから。そうして息子はなんと答えたでしょう?」
私はにこやかに少年の顔を見て、しきりに頷いた。少年は口を開けたまま、あっけらかんとした表情をしていました。
「さて、ここから父親の娘の話になります。先ほどの息子は助けてくれた紳士に弟子入りするのです。そうして家にも帰ってきました。しかしこの娘というのもどうも手に負えません。父親とは娘に甘い生き物ですからね。どうも真剣に怒ることができないんですね。
しかしそんな娘もやっとのこと就職口を見つけることができたのです。しかし、その就職先というのがとんでもない会社でして。最初に大金で社員に買わせた券などを、他の人に売りつけるという会社だったんです。やはりノルマを達成しなければ自分の赤字になってしまいます。しかもそれを進めてきたのが、その娘の友達ときたものです。娘は困惑しながらもその会社で頑張ることに決めました。でもその会社すぐに倒産。どうやら不正がバレたのですね。娘は借金だけを抱えながら、このことをどう父親に切り出そうか迷っていました。しかも家の金を勝手に盗んで買った券が、自分の部屋にあふれかえっているのです。娘はこの状況を打破するために立ち上がるわけです。まずはその友達を探しました。自分をこんな状況に陥れた友達に直談判しようと考えたわけです。
すぐに娘は友達を見つけることができました。しかしその友達も困っていたのです。終いには私のせいではないとヒステリーを起こして逃げようとするのです。娘はその友達を懸命に追いかけました。ここで友達を逃せば今の自分の生活は元には戻らない。それは必死に追いかけました。
そんな友達を走ってるとき、友達が急に地べたに倒れ始めました。娘は最初のうちはしめたと思い友達にのしかかるのですが、どうもその友達の様子が変なことに気がついたのです。娘は友達の呼吸の状態を見ると途切れとぎれに息がもれているような状態だったのです。娘はすぐさま父親のもとに連絡をとりました。すると父親は仕事中にも関わらず娘のところに走っていくのです。父親はその場に着くとすぐに応急処置を開始して、その友達は一命をとりとめたのです。
あなたは今の一連の話の流れが全く関係ないとお思いでしょう。まあ、その場で思い出した話なのであまり脈絡のない話だとは思うのですが。ここから娘は父親のその姿を見て、思うのです。『私は医者になりたい。お父さんみたいに人を助けるような医者になりたい』と。ああ、この父親はなんという幸福者でしょう。一時は諦めかけていた夢を娘が果たしてくれようとしているのです。
そうです。この二人の子供には発想の転機というものが起こったのです。しかも唐突に、自分の人生を変える出来事が。なんと言いましても、娘はそれまで短大に行きながらもろくに勉強しなかった人間です。そんな人物が医者になりたいと言い出したのです。これは私の興味を大きく揺らしました。その父親も大いに驚いたことでしょう。
その家族が後にどうなったのか私にはわかりません。もしかしたら、息子は画家として大成しなかったかもしれません。娘はどれだけ勉強しても医者にはなれなかったかもしれません。もしかしたら、勉強が面倒くさいと言って、途中で投げ出してしまうかもしれません。
そんな彼らの姿を見て、父親は何と言うでしょう。『ほら、言わんこっちゃない』と鼻でせせら笑うでしょうか? それとも? きっと父親は何も言わないでしょう。バカにもしませんし、励ましもしません。きっと父親という存在ほど子供を信じている人間はいないのかもしれませんね」
「父親はどうして怒らなかったのですか? 普通なら子供が間違った方向に行っているとわかれば叱ってでも止めるでしょう?」
少年は興味深そうに質問を投げかけてきた。本当に父親は怒らないのだろうか? 本当に自分を許してくれるのだろうか? そんな不安に胸が押しつぶされそうな気持ちになっているのだろう。
「私も実は上手く説明はできません。もしかしたら、あなたが父親になればわかるかもしれませんね。そうして、自分はどうして父親に反抗していたのか。どうしてそれを父親は黙って見ていたのか。そして本当に大事なことになると、なぜか口を出してくる。今はそんなことは全然気にしないかもしれません。それでも、もしかしたら大人になるとふと気づくかもしれません。そうなることを私はあなたに祈っています」
「先ほどの親子の話なんですけど、一体何が正しかったんでしょう? 父親ですか? 息子ですか? 娘ですか?」
少年は語気を強めて問いただすように話しかけてきた。どこか熱っぽくて、浮かれ気味である。私との議論を始めようとする気のように思われた。
「いいえ。私の今の話には正しさなどなかったのです。間違いもありません。この物語にそんなことは何も書かれていないのですから。本来人が歩む道に、人生に正しさを求める必要があるのでしょうか。だれか間違った生き方をしている人がいるのでしょうか。倫理に反した行いをしたから正しくない? 論理が矛盾だらけで確立していないから正しくない? お金がたくさん儲からなかったから正しくない? きっとそう思う人は沢山いると思います。現にあなたもそう物事を順序づけようとしているのですから。
ですが考えて見てください。あなたは私の話に興味を持ってくれていますが、それは私が正しい人間だからでしょうか? それとも間違っているからでしょうか?」
私は熱っぽさを帯びて少年に問いかけた。これはこの少年にとって本当に切実な問題だと思ったからだ。そして私自身にも自分の人生を見つめ直す機会でもあった。
「わかりません。何が間違ったのか。何が正しいのか。俺にはわかりません」
「あなたの目の前に座ってるこの老人は、今はもう仕事などしておりません。お金は生きていく程度にはもらっています。それでも普通のサラリーマンと比べるとお金など全くないと言っていいでしょう。あなたがこの電車に乗り込むまで一体どれだけの人に会いましたか? 仕事帰りのサラリーマンや買い物をしている主婦。あなたと同じく学校に通っていて、その帰り道にあった人もいるでしょう。学校で教育をしている教師やあなたのご両親、友達。その人たちと私は一体どちらが間違っていて、どちらが正しいのでしょうか?」
「……何も間違っていなくて、 何も正しくはないのでしょう?」
「そのとおり!」
私は身振り手振りを大きくして、自分の話を誇張した。
「実際先ほどの親子の話で息子が画家を目指すことに反対しなかった父親がいます。そうして娘が医者になりたいと言い出した。これは結局のところ二人とも自分で決めたことなんです。
本来人間とはこの世に生まれ出てた時から、自分の命運は自分が握っています。誰かに頼りながらも自分の思考を確立していくのです。そうして最終的に自分で自分の生きる道を決めていきます。どれだけ親が子供に無理強いしても、子供は親の言うとおりにすることはできないでしょう。例え医者にならなかったら食べ物をあげないと言われても、子供は親に逆らうことができますからね。だからこそ、この父親は子供に自分の思想を最後には押し付けることはなかった。ある意味父親は二人の子供に救われたと言ってもいいでしょう。それがこの世の親子の交わりだと思うのです。
さてこんな長い話をしたからには何か考えがあるんだろう、とでもいう顔をしてますね。すみませんが今の私にこれ以上話を続けることはできないでしょう。むしろ私は今までの話で私が言えることをすべて話したとも言えましょう。要は自分次第。親が自分に協力してくれるかそうでないかは、自分の気持ち一つで決まるものなんですよ。親はどうあっても子供を見捨てることが出来ないのですから」
「……」
私の視線が少年の視線にぶつかると、少年は口を固く閉ざした。私はその少年の姿を見て、自分の心が大きく揺れ動いた感覚に囚われた。
「あなたは何かやりたいものがあると言っていましたよね? あなたがしたいことはなんですか? あなたがご両親に対立してまで、思いつめてまでやりたいことはなんですか?」
私はこの質問をしたとき、先ほどの子供の顔が思い浮かんだ。一日に二度も将来に着いて尋ねるとは自分でも焼きが回ったとしか言えなかった。それでも私がこんなにも清々しい気持ちになったのなぜだろう。
少年は私の微笑みにどことなく呆れた顔をしていた。それはもしかしたら少年が自分自身に向けたことだというのは、少年の話を聞いて確信した。
「実は俺にやりたいことなんてものはないんです」
「なんですと?」
私は少々素っ頓狂な声を出してしまった。自分でも思いがけない声だったので恥ずかしくなった。
「すいません! すいません! すいません!」
「まあ、まあ、落ち着いてください。別に私に謝ることは全くないんですから。ならどうしてです。どうして工場を継ぎたいとお思いにならない?」
「俺は、やりたいことを見つけたいんです。だから大学に行きながら、やりたいことを見つけようと思って」
「見つからないかもしれませんね」
「なんですって?」
私はひどく冷たい言葉を少年に放った。それを聞いた少年はかなり動揺した表情をしながら私のこと睨んできた。私には彼が急いでいるように見えた。答えを探そうと躍起になっているように。
「先ほど私が話したことを覚えていますか。確かに大学に行くことで良い経験になるでしょう。この世で一番楽しかったのは大学だという人もむしろ多い。でもやりたいことが見つかったか、その夢に向かって自分は進む決意が出来たかと言われれば、ほとんどいないことでしょう。でも結局何かを見つけられるか、何を見つめることができるか。それは自分次第なんです。
あなたは今焦っていますね。そうでしょう? 家に帰ればまた進路のことでひと悶着あるに決まっていますからね。だからあなたはどうにかして私から真実の答えを聞きたいと思っている。かなり性急に。あなたは私の話を聞いて自分の意見と照らし合わせて、答えを模索しているのです。しかしやはり私に答えを出すのは無理でしょう。別にあなたを惑わそうと思ってこんなことを言っているのではないのですよ。ただあなたは面倒な選択をしたと思っているだけなのです。確固たる夢がないにも関わらず、あなたは模索する道を選んだ。親に敷かれたレールを歩くことはなく、自分が敷いたレールを歩くことに決めたのです」
「面倒……ですかね?」
少年は自分がしようとした行動に羞恥心を覚えてしまったのかもしれない。うつむいて顔を上げることはなかった。私はあえて答えることはしなかった。私が話し終えたと同時に窓の景色が山ばかりになってきた。辺り一面を紅葉がこの電車までも多い、アーチを作っているようだ。すると少年は立ち上がり何か神妙な面持ちのまま私の顔を見ると一礼して電車から出て行った。
「考えることは罪ではない!」
私は少年にそう投げかけると、ホッと一息して電車の中の隅々まで見渡していた。私はさしずめこの電車の主人で、そのドアから入ってくる人間をまるで自分の来客とでも言うかのように待ち構えていたのだ。どうも今日は面白出会いが尽きることはなく、私の心は踊っていた。
すると今度は口元を綻ばせた陽気な青年が入ってきた。身にはしっかりとスーツを着込んでいるが、その外見とは裏腹に顔はだらしなく笑みを浮かべていた。どうやら、私の年の功とも言える知識はこの青年には不要なようだった。
私はホッとしたような残念なような感情に揺られながら、読みかけの本を読むことにした。すると、私の足元にハガキのようなものがひらりと滑るように落ちてきた。私はそのハガキを見て青年のほうに視線を移した。青年は私の視線に気がつくと、自分の手元にあったものがなくなっていることに気が付き、私の方に歩み寄って来た。私はそのハガキを拾うと、その青年に差し出した。
「ありがとうございます。助かりました」
「いえいえ。何かいいことでもあったのですか? とても嬉しそうな顔をしていますよ」
私がそう聞くと、青年は目を輝かせて応えた。どうやらこの青年は自分の話を誰かに話したくてうずうずしていたようだ。
「はい! 実は、近いうちに結婚することになったんです。それで、すべてのことが私に祝福してくれているような気持ちになってくるんです。そうですね、式場はこの祝福にちなんで教会とかがいいですかね。今から考えただけでもウキウキワクワクが止まらないんですよ」
「そうですか、それはおめでとうございます。あなたにとっては今が一番幸せで大事な時期なんですね。そうするとさっき落としたのは、結婚式の招待状というやつですね。いや、申し訳ない。先ほどチラッと中身が見えてしまいまして。決してのぞき見をしようとしたわけじゃないんですよ」
「いいえ、いいえ。全く気にしてませんよ、おじいさん。私はあなたが私の話を聞いてくれるだけで、どれだけ私を幸せにしてくれるか。私はこの話を誰かに自慢したかったんです。自慢といってもそう言う嫌味な意味ではなくてですね。ちょっとした嬉しい出来事をほかの人にも共感してもらいたいというわけですよ」
熱のこもった青年の話に私は多少興味を持った。別に聞き流してもよかったのだ。先ほどの二人との出会いで私の体力は少しだけまいっていたからだ。だが今回は聞く立場ということもあり、私は楽な気持ちで彼の話を聞き始めた。
「実は昨日も上さんと一晩中話をして、結婚式の招待状をどうしようかって迷っていたところなんですよ。あ、もう上さんなんて恥ずかしいですね。それであれこれと話してるだけで幸せな気持ちになるんですよ。入場の曲はどうしようかとか、間にどんなことをしようかとか。俺の友達や、上さんの友達も何かと手伝ってくれまして。どうにか順調にことを運べそうなんですよ。
でもみんなで集まると、ああ俺はこの女性をこの世で一番大事にして生きていくんだなって思うわけですよ。もう、友達とバカ騒ぎしてハメを外すことも出来ないわけですよ。別にそれが嫌ってわけじゃないんですよ。でもふと寂しい気持ちに襲われるわけです。こんな青春時代がいつまでも続けばいいなとか、馬鹿なことを言っていい年はもうとっくに過ぎてるっていうのに。でも、ふと思うわけです。あの頃に戻りたい。その頃の無邪気な自分に戻りたいって。そうしたら、うちの上さんをなんの偽りもなく愛せるっていうのに。はあ。
まあ、そんな暗い話はなしとして、俺と上さんの出会いの話を聞いてくださいよ。どうもこうも、高校時代の俺はやんちゃしてまして。親父ともひと悶着とかありましてね。それは壮絶なバトルになったわけですよ。まあ、そのときは俺も若いなりに色々考えることがありまして。大学の進路なんてそれはもう大騒ぎだったわけですよ。まあ、親父との話はいいですよ。
そんな時ですよ。彼女に会ったのは。上さんのことですよ。上さんは一言で言えば気の強い女性でした。でもいろんな子の面倒とかよく見てて、それはお節介やきだったわけです。明るく快活な元気な女の子でした。特に欠点というのも見られるところはなく、気取ったところもありませんでした。人からよく頼られるクラスの中心人物でしたが、それとは反対に人から疎まれたりもしていました。
俺はある日、学校に残らされて帰るのが遅くなったんです。その帰る途中に教室に忘れ物をしたことを思い出して、教室に行ったんです。ドアを開ける直前、教室のなかから誰かが話してる声が聞こえたんです。俺は聞き耳をたてて聞いてみたんですがね。それは今のうちの上さんの悪口だったわけです。俺はどうしたらいいか困惑してまして。それでもなかに入らなきゃ忘れ物もとれないってわけです。俺はしょうがないので何も聞いてない振りしてなかに入ったんです。
するとなかには数人の女生徒がいて、教室の隅の方でぺちゃくちゃ話していたんです。俺はその数人の女子と目が合いました。まあ、忘れ物がなんとかとか言いながら言い訳じみたことを言って入って行きました。それほど女の子と接点もなかった俺は速やかにその場から立ち去ろうとしたわけです。でもそこで、少しだけ呼び止められたんです。その女生徒たちは自分たちが話していたことの意見を俺に求めてきたわけです。その内容はある意味同意を求める言葉でした。それはうちの上さんがムカつくとか、そんな下劣な言葉でした。でも俺はすぐに否定はできませんでした。何といっても今時の女は怖いと言いますか、それで俺は言葉を出しあぐねていたんです。
でもその時俺はその教室の中で俺たち以外の個体と言いますか、グループとでも言いましょうか。それに対してもう一つそのグループとでもいう人の気配を感じたんです。こんな話をすると幽霊だと勘違いされてしまうかもしれませんが、そう言った意味ではないのです。確かに生き物がいたということでしょう。でもそのことに気がついているのは私だけときたものです。私は早くこの場から立ち去りたくなり、ついつい思っていたことを言ってしまったわけです。
『あいつはいい奴だ。お節介なところはあるけど、それがあいつのいいところだ』と。今考えるだけでも、顔から火が出てしまうくらい恥ずかしいセリフですね。まあ、それよりも恐ろしいことは俺の言葉を聞いて、その女生徒たちがどう思ったかってことです。俺は恐る恐る彼女たちの顔を見ると、つまらなそうな顔をしながら帰っていくわけです。俺はホッとして先ほどの妙な違和感など消し飛んでしまっていました。だから俺はすぐにその場から立ち去ろうとは思いませんでした。むしろ今すぐに教室から出て行けば、先ほどの女生徒たちと鉢合わせすることを恐れたのです。俺は少しだけ待つことにしました。
すると教壇がいきなり宙に浮くわけですよ。おれは一体何事かと思ったわけです。柄にもなくポルターガイストか、とか思いまして。その頃超能力とかが流行でして、どうもそっちの方に頭がいってしまったんですね。でもね、違ったんです。その教壇の上さんがいたんです。勢いよく教団から飛び出そうとしたんでしょうかね。頭を痛みで押さえているような感じでしたから、きっとそうでしょう。でも、そんな上さんのおかしな場面をその場で笑えないほど俺は心臓が飛び跳ねるかともいましたよ。本当にぶったまげました。
そこで俺はまたしてもふと思ったんです。今度は妙な違和感に気がついたわけじゃないですよ。先ほどの恥ずかしい、青臭いセリフを上さんは一部始終聞いていたことに気がついたんです。まあ、彼女は自分の悪口も全部聞いていたということになるのですが。
俺はどう声をかけたらいいかわかりませんでした。先ほども言ったとおり俺はあまり女生徒と接点を持ったことがありませんでしたので。さてどうしようかとか思ってた矢先、上さんが話しかけてきました。上さんは人付き合いも別に不慣れではないですし、男女問わず世話を焼くのでそんなことは造作もないことだったのです。
でも彼女は表情はどうやらそうではなかったのですね。いつも天真爛漫な笑顔やちょっと怒るときにする拗ねた顔ではなくて、ムッツリとした不機嫌そうな顔をしてくるのでした。そのくせ、顔は赤く息を切らしかのように息づかいが荒かったのです。その上さんが『ありがとう』と言ってきたのです。上さんは普段からそう言う常識的な言葉を絶えずどんな相手にも使うのですが、今の上さんから放たれた言葉は、今までの上さんからはどこか違って見えたのです。
どういたしましてと言おうとした瞬間、上さんは逃げるように教室から出て行っちゃいましてね。俺は一人取り残されてどうしようか考えていたんですよ。まあ、その時はやることもなかったので帰りましたけど。
でもそのときから上さんの態度が変わったんです。態度というか雰囲気が。女生徒たちに悪口を言われて落ち込んでると思いきや、どこか慎ましく穏やかな感じになってたんです。まあ、お節介やきなのは変わらないんですがね。それでも一歩引いた感じなんです。それから上さんの評判が前以上になりましてね。女生徒からの悪口はまあなくなったわけじゃないですけど。でも男にも女にもモテまくりなんです。この男っていうのが厄介なんですよ。全く可愛い子を見るとすぐこれだからダメですよ。でも上さんはなぜか誰とも付き合わなかったんですよ」
「でも、あなたは特に不思議そうな顔はしていないようですね」
私はさすがに疲れて来た。まあ、なんとも興味の惹かれる話ではあるが、本当に長い。しかもほとんどがノロケ話なのだ。本当にただ聞いて欲しいだけなのだと私は改めて確認させられたのだ。
「さすが、おじいさん。分かりましたか。なんと上さんは俺に惚れてたんですよ。在学中に妙に俺の進路相談に乗ってくれたから少しだけそうかなとは思ってたんです。でも本当にね。ああ、そうそう。告白は卒業式の時だったんですと。まだ桜のつぼみがつき始めたころですね。妙に寒かったんですけど、上さんの前に来ると気持ちが温かくなるんです。もう、どうしたんだろうというくらいにね。俺はもちろんオーケーしました。いつしか俺も上さんは欠かせない存在になってたんですね。それで今に至るってわけです」
「そうですか、それは実にいいことです。めでたい。あなたはこれからきっと幸せになるでしょう。進路も自分がやりたいことを見つけられた訳ですよね?」
「え、ええ。……まあ」
「そうですか。そうですか。どうか幸せになってください。式は教会でやるといい。神様も祝福してくださるでしょう」
私がそう言うと、青年は困ったような顔をした。今まで幸せに満ちていた顔が急に苦痛でも感じたようにゆがんだのだ。私はその表情を読み取って「どうかしましたか?」と尋ねた。私がそうしたのは多分その時の自然の流れだったのだろう。どうしてここでこの青年の言うことを聞き流すことができようか。私はまるでこの青年が主人公としたドキュメンタリーとも言える物語を、傍観者として眺めているようなきがするのだ。だからついつい聞いてしまった。その言葉に私はなんの重みも感じていなかったからだ。
「聞いてください。実は、最近上さんが元気がないんです。俺との結婚が嫌になったとかと思うと、本当に夜も眠れません。上さんが隣で寝ていのに俺だけは寝れないのです。この浮ついた心が何か上さんの心を見失っているような気がするのです。私はどうしたらいいでしょうか?」
「マリッジブルーという言葉があるでしょう。私はそれなんじゃないかと考えますけどね」
「ええ、ええ。俺もそれは幾度となく感じていたんです。きっとそうじゃないかと考えるようにしてただけかもしれませんけどね。でも、彼女に結婚の話を振るととてもにこやかに、嬉しそうにそのことを話すのです。彼女は幸せなんだと私はその時いつもホッとした気持ちになるのですが。ふと彼女の顔を覗いてみると彼女は苦しみにゆがんだ顔をするんです。俺はもうどうしたらいいかわかりません。
俺は心配でならないんですよ。だってそうでしょう? 最初はお互いのことなんてただの他人だった。すれ違っても挨拶も交わさない仲だったんです。でも人は変わるもので、その人のことがいつかかけがえのないほど好きになってしまうんですから。時間を一緒に過ごしたとき、ふと感じるんです。かけがえのない人が自分のそばにいるってことを。でも逆に考えてください。それはふとした瞬間他人のことが嫌いになってしまうんじゃないでしょうか? こいつなんかもういいやと思われてしまうかもしれません。もしかしたら俺が上さんのことを思ってしまうかも。それが何よりも怖いんです。俺は上さんを嫌いになることが何よりも怖いんです」
「……あなたは木がどれだけの時間をかけて育つかご存知でしょうか?」
青年は私が全く違う話を始めたので、戸惑ったような顔をしながらも、黙って聞いてくれた。
「百年、二百年。長いものは千年ほどかけるものもあるでしょう。それでも寿命がきたり、人に切り倒されてしまうと、一瞬で木は倒れてしまいます。そう、それは本当に一瞬の出来事なのです。これはある種の教訓とも言えましょう。どれだけ時間をかけて築き上げたものでも、壊すことは簡単です。一瞬で十分事足りるのですから。でも」
私はそこで一瞬の間を置いた。青年の顔が驚いたように私の顔をじっと見つめている。私はそこでふと微笑んだ。
「ですが、そこに残るものが確かにあるんです。建物なら瓦礫や、そこに住んでいた住人。そしてその人たちの思い。木なら倒れた木や、それを育ててくれた人。もしかしたら、精霊なども住んでいるかもしれませんね。そして倒れた木からこぼれ落ちた小さな芽などがあるかもしれません。それはいつかは忘れ去られてしまうかもしれませんが、すぐに消えてしまうものではないでしょう。あなたは何か見落としていませんか? 繋がれたものを自分から切り離そうとはしていませんか?」
「……俺は妻を信じています。きっとそれが唯一俺を救うであろう術なのでしょう。きっとそうです」
「私もそう思いますよ。……ちょっと待ってください。苦しみに顔を歪めたりしてるんですよね。奥さんは吐き気など催してたりはしませんでしたか? 他にも何か偏ったものを食べたくなるような、偏食になったりは?」
「ちょっと待ってください。なぜあなたがそんなことを。確かにそうです。俺の上さんは最近食事に偏った傾向が見られるんですよ」
「そうですか、そうですか。それはおめでたい」
「一体何がです!」
「こういうことですよ。もしかしたら結婚式の翌日にはもう一人家族が増えてるかもしれませんね」
「なんだって! それは本当ですか?」
「ええ、確かにその兆しがあります。あなたももっと喜びなさい。新婚旅行よりも素晴らしいものが次々とあなたの元に舞い降りてくるでしょう。あなたは本当に全てのものから祝福されているのです」
私は少々宣教師とでも言うかのように神の名を語ったりはしたが、別に神様にそれほど詳しいわけではない。昔習ったことを、もやがかかったようにうっすらと覚えているのだ。私は何かうれしいことがあった人に口癖のように神の名を語るのだ。それが相手にとって一番最高の祝福の言葉とでも言うように。
当然青年は私の神という言葉にただ頷くだけで、そこまで深くは考えてはいないようだった。
「これでも俺はちゃんと喜んでるんですよ。本当にそうだったらいいですね。ああ、そうなのか。早く上さんに会って話がしたいな。どんな名前にするかも考えなきゃ」
「はっはっは。先ほどのは少し言い過ぎましがね。きっと近いうちでしょう。それよりもやはり結婚式を成功させることに力を注いだほうがいいと思いますよ。なんせ一生の思い出になることでしょう」
「やっぱりそうですよね。でも、ああ、なんて幸せなんだろう。おじいさんはまるで聖人様のようですね。俺のこのどうでもいいような話を一心に聞いてくださるんですから。あなたとここで会えたことに感謝です」
「いいえ。私はあなたの幸福な言葉に耳を傾けただけの老人に過ぎません。あなたに幸福が訪れるといいですね。……少し聞きたいことがあるのですがよろしいですか。いやなに、特にどうでもいいことなんですがね。あなたの教育理念について少し訊ねてみたいと思ったんですよ」
「いやー、まだ子供も生まれてないのに気が早いですよ、おじいさん」
「ええ、確かに。でもあなたはあっという間にその決断に立たされることになるんですよ。そう遠くない未来にね。それは子供の成長があっという間ということでもあるんですがね」
青年は茶化すように私の言葉を流そうとしたが、私の真剣な眼差しを見てそのことを改めた。
「そうですね。経験者の方にお話を聞いておくのも大切ですよね」
私は最初からこの青年にしたかったわけではない。先ほどの少年との話を思い出してしまったのだ。父親が本当はどんな存在か。久しく私も忘れかけているのだから。
「あなたにも経験があると思います。父親への反抗期が。それはあなたの息子さんか娘さんにも同じことが起こると思います。それは依然仕方がないことなのです。だからこそ、あなたは耐えなくてはならない。試されているのです」
「ええ、確かに。俺はそんなときくじけそうになるでしょう。でもそれを回避することができるかもしれないということはないでしょうか」
私は静かに首を振った。そして穏やかに青年の顔を見た。
「きっと誰もそんな方法を見つけることはできないでしょう。……では、あなたに子供が生まれ大人になったとしましょう。あなたは自分の子供にこうなって欲しいという願望が生まれるかもしれません。おっと、今というわけではないですよ。多分今でしたらあなたは子供が生まれて来ただけで心の底から満足するはずですから。話を戻しましょうか。
あなたの子供はあなたの願望とは違う別の場所に向かいました。あなたはそれがどうしても納得できないのです。あなたはその子供にどんな言葉がかけられるでしょう。励ましの言葉ですか? それとも怒りの言葉、無言を押し通すことだってできるでしょう。でも考えてください。子供というのはある意味あなたのものでいて、実はそうでないという曖昧な存在です。子供はあなたの分身でもない、全く違う別の生き物なのです。子供はやはり頭の髪の毛一本つま先まで爪まで、やはり子供のものだからです。
あなたはそんな子供になんと声をかけてあげられますか?」
「……俺は、きっと子供のやりたいことをやってもらいたいと思います。もちろん犯罪などに手を染めさせはしません。大人になるまでしっかりとした分別をつけさせます。そして自分なりに知恵がついて、社会のことが分かり始めたとき、俺は子供に決めさせるのです。
『お前のやりたいことはなんだ? 俺はお前に自分のすべてをぶつけてきた。そんなお前は今までの人生で何を見て何を感じ、どう生きたいのか。お前にはそれを決める覚悟と権利がある』って。子供に言うんです」
「それは子供自身に選択を委ねるということですか?」
「はい。やっぱり思うんです。子供は子供のもの。子供の人生は子供のものだと。だから子供の辛いことも悲しいことも、楽しいことも嬉しいことも子供自身に決めさせればいいんです。親としては少し無責任だとは思います。本当は山があったら頂上まで手をさしのべて手を引いていかなければいけないんでしょう。でも、俺は子供を信じることにしました。それが俺の教育における理念だと思うんです」
私はそれを聞いて心底嬉しかった。こんな若者がここまでものを考える時代になったのかと思うと、私は嬉しくて仕方がなかった。まるで自分自身の成長のように喜ぶことができた。
「そうですか。あなたのお子さんはきっと素晴らしい人間になってくれるでしょう」
そんな話をしていると電車が次の駅に着いた。青年は駅名と時計を交互に見やるとすっと立ち上がった。
「俺はここで降ります。お話聞いていただいてありがとうございます」
「いいや、大したことはしてませんので。奥さんを大切になさいね。それから生まれてくる子供も」
「はい、よい旅を」
「よい旅を」
私はとっさにこの言葉を返したが、青年は私が旅していることをどうやって知ったのだろうか? 私が返した言葉は、きっと良き人生の旅を、と受け取ってくれたはずです。
私は青年を見送ると辺りがもう暗くなっていることに気がついた。日は暮れ、外の景色がまったく見えないと思いきや、ポツポツと家の灯りがついていた。ほんのりと心のうちを溶かすようなおめでたい気分に私は浸っていた。列車はそのまま流れるよう走り出した。
するといつの間にか車両に入ってきたのか男が私の前に座った。年は四〇代中頃。きっちり整った髪だがスーツの着こなしが雑である。ネクタイはよれよれになっていて、ワイシャツから地肌がはだけていた。そして頬と鼻がほんのり赤くなっているのだ。座っているのに身体の重心はいつも動いている。どうにも酔っ払っているようだ。私はなるべく絡まれないように視線を下に下げた。私はその時手に持っている本のことを思い出して手に持って読み始めた。
しかし私はどうも前にいる男が気になった。先ほどの色々な人生について話してきた人たち。彼らとの出来事があり、私はこの中年男性にも何かしらの縁のようなものを感じていた。私はその赤みのかかった顔を見ると中年男性の顔は私に似たものを感じた。中年は私がそこにいないかのように振舞っていた。酔っていて私のことなど気にも止めていないのだろう。いきなり中年は喚き散らしたてた。
「どうしてこうなるんだ! 俺の何がいけなかった! あいつの何がこの世界にふさわしくなかったってんだ! どいつもこいつも馬鹿にしやがって! 俺たちは同情されるために生きてきたんじゃねえ! 生きてきたんじゃねえんだよ!」
中年の暴言に私は身がすくむような思いをした。痛切だった。何も知らない私にもわかるくらい悲しみに満ちていることがわかった。そして恐怖した。中年は本当に怒っていた。この社会の理不尽さにか。上司に腹を立てているのか。私にはわからなかった。しかし知ろうとしてしまった。この震えるような魂の叫びに私の魂が呼応してしまったのだ。
またかと笑わないで欲しい。私はただの馬鹿な偽善者に見えるかもしれない。しかし共感できるのだ。この中年のこともそうだ。先ほどの青年も少年も私には痛いくらいわかってしまうのだ。しかしそのことに私も少しだけ違和感を覚えているがそんなことはどうでもいい。私はこの中年の話が聞きたいのだ。
私は意を決したかのように少しばかり距離を離れた男に話しかけた。今まで感じなかったが向かい側の席とこちらの席はかなり距離がある。今までそれを感じなかったのはトンネルのせいで電車の音がよく響き、中年の声が聞き取りづらいせいだろう。電車の外は暗闇がいっそう濃く続いていた。
私が話しかけたのはいいものの、私の声が小さすぎて中年にとどかなかった。しかし彼は勝手に話を続けているのだ。私は黙って中年の話に耳を傾けた。
「畜生! 俺の娘はまだ高校二年なんだぜ。一番人生で花開くときでもあるんだぜ。なのにどうして死んじまいやがるんだよー。わけわかんねよ。どうして俺はこんなことになってるんだ。ド畜生! ど畜生が!」
ひとしきり中年は話し終えると、酔いが不意に覚めたかのように私の方に気がついた。しかし彼はきょとんとした顔をすると私の方にニッコリと笑いかけてきた。私はつられて笑い返した。中年はそのまま立ち上がって私の隣に座った。隣と言っても人一人分くらいの距離はある。しかし中年と私の距離は極端に縮まった。
「悪いな、じいさん。大声あげちまってよ。だがちょうどいい。こんな誰もいないと思っていた無人列車に人が乗ってるときたもんだ。なあ、じいさん。少しばかり俺の話に付き合っちゃくれねえか?」
中年はしきりに私の顔を観察すると、言葉を放ってうつむいてしまった。
「いいですよ。私でよければ話し相手になりましょう。今ちょうど暇を持て余していたところです」
「すまねえな、じいさん。……俺はよ、大切な一人娘を亡くしちまった。本当に唐突にだ。俺が病院にたどり着いたときはもう息すらしてなかったよ。綺麗な顔になっちまいやがってた! ああ、俺はたった一人の娘の死に目にも会うことさえできなかった。連絡を聞いた直後にな、会社なんてほったらかして俺は娘のところに向かった。そこんところは俺は父親として合格だよ。誇ってもいい。俺は娘を心の底からだ、心底愛してたんだよ。無償の愛ってやつだよ。じいさん、あんたにもわかるだろう。そんな経験してきたはずだ。父親なら当たり前だ。
でもな、俺は生きているあいつに何かしてやったのかって聞かれると、何もしてやれてねえんだよ! 最近なんてろくに口も聞いてなかった。全く、俺は娘に言っちまったんだ。女は学歴なんてつけても仕方ないってな。そしたらあいつ怒り始めた。そりゃあそうだ。現にあいつは頭がよかった。俺なんかよりずっと頭が良くて将来弁護士や医者にでもなれたんじゃねえかって思うんだよ。それなのに俺はそんなことを言っちまった。仕方ねえ。だって娘が死んじまった今でも、そう思ってるんだからな! 俺は女が学歴なんて必要ねえと思ってるんだから。
なあ、じいさん。俺は昔考えたことがあるんだよ。なんで考えたんだろうな。覚えてねえや。それでもな、考えちまったんだ。親にとって子供っていうのはなんなんだろうなってな。よく自分の分身とか言うじゃねえか。自分の血を分けた実の子供。でもそこで俺はふと思うわけだ。人に優しくできるのは本当は他人にだけなんじゃねえかってな。だってそうだろう? 俺は他人なんかに女は学歴なんてことは言わない。別に言えないって訳じゃねえぜ。部下にもっとひどいことも言う時もあるかもしれないが、もしかしたらって思うんだ。もしかしたら俺は他人に対しての方が優しくできるんじゃねえかってな」
「それは違いますよ。あなたはきっと悲しみで物事の認識をはき違えてるだけです。ひとはそこまで万能に作られてない」
「確かにな! 確かに人はそんな万能に生きちゃいねえよ。でもな、俺の優しさってのはそんなことじゃねえんだよ。俺はそんな大層な人間じゃないってことは知ってんだ。俺は正気だよ。子供が死んでから妙に頭の中がスッキリしてやがる。これはなんなんだ? 俺は実の娘が死んでよかったなんて感じてるわけじゃねえだろうな!」
「ほらほら、少し落ち着いてください。あなたはそんな冷たい人じゃない。今日初めて会った私が言うのだから間違いありません。本当の他人とは先入観を持たずその人のことを見れるということです。確かに外見に左右されてしまうこともありますが、それは人の内面を見るのにはどうでもいい事柄なのですよ」
「そうら、見ろ。じいさん、あんただって初めて会ったばかりの俺に優しくしてるんじゃねえか。どうしてだ? どうしてそんなに優しくできる? 俺だけじゃねえ。人間てのは、他人を大事にする生き物なんじゃねえかって、思って仕方がねえんだ」
中年は座席に思い切り拳をぶつけて怒鳴り散らした。私がその視線をまっすぐ見つめると中年は黙り込んだ。
「それは実に簡単なことです。それは他人だからです。他人だからこそ、なけなしの同情を人に与えることができます。でもそれはあくまで同情の域を脱してはいません。他人にとって他人は、それ以下でもそれ以上でもないからです。
いいですか、私は他人に同情はします。でも好んで金を貸したりはしません。死にそうになってたら肩を貸すことはせず、すぐに救急車を呼びます。何も知識のない自分がやるよりはるかに効果的ですしね。それに私がやって変に容体が悪化したら大変なことになります。これでわかったでしょう。他人は他人に責任なんて持てないんです。持つことさえおこがましい。一体誰が上で誰が下なんですか。誰が人に優位と劣位を示したんです。そんなものは人間が勝手に決めたおままごとでしかないんです! 私はあなたの上に立てると思っていない。下につくこともないでしょう。結局他人は他人であって、遠くに並んでいるだけなんですから。気味の悪いくらいに一直線にね。
もし、友情や愛情を抜きにして人と付き合うとき、何を持って人と付き合えばいいでしょう。私はこう思います。好奇心と興味、そして猜疑心と罪悪感だとね。きっと私たちは他人対してこんなことを思っているんでしょう。本当に会ったばかりの他人に対してはね。
人は人に同情の優しさを振りまくことができると同時に、憎しみも同じくらい振りまくことができるんですよ」
「わかった、わかったからじいさん。少しは落ち着いてくれ」
中年の顔に少しだけ赤みがさしてるだけで目が完全に覚めていることに気がついた。中年は私の話に少々の不安と興味が出ているのが見て取れた。
「そうか、じいさんも色々考えてるんだな。確かに他人が他人にしてやれることなんてたかが知れてるな。でもどういうわけだ? なら、俺が家族に、血を分けた実の娘に優しくできないのはどうしてなんだ? 俺はそれが一番気がかりで仕方がないんだ」
「大丈夫です。あなたは家族を本当に大事にしておりますよ。間違いありません。あなたはただ勘違いをしているだけなのです」
「勘違い? それはどう言う意味だ?」
中年は私の話を真剣に聞こうと一回座り直して私の目を見据えた。私はそれを確認すると私の意見を述べた。
「あなたは勘違いしていると言いましたが、あなたは娘さんと仲良くしようと心がけていたはずです。でも、その娘さんは自分の意にそわない行動を取るので、あなたはひどく苛立ちを募らせたはずです。そうでしょう? 実はあなたは、自分でも思ってるほど、あなたの人生にあなたの娘さんの存在が左右されていることに。あなたの娘さんもあなたに人生を左右されると言ってもいいほど、娘さんに影響力を持っているのです。考えて見てください。いいですか。自分以外の人間が自分にかなりの影響力を持っているとき、あなたはどんな気分になるでしょう。あなたはその人にどんな感情を抱くことができるでしょう。あなたは必ずその人に気に入られたいと思うはずです。あなたはその人が少なからず嫌いではないからです。相手の見方を入念に観察して、行動を起こすはずです。しかし気心の知れた相手に対しては、また違ってきますがね。
これはあなたの娘さんにも言えることですよ。あなたの娘さんは例えあなたが親らしいことを何一つできなくても、あなたのことが嫌いにはなれなかったでしょう。いや、嫌っていたとしても憎むことはできなかったはずです。親は子にとって高みにいるものと思いながらも、本当はいつも子供のことを背中に背負っているんです。もしかしたらあなたと和解がしたかったかもしれません。それでも素直になれなかった自分がいるわけです。それの完成型というのが、もしかしたらあなたたち親子だったのかもしれません」
「ほう、面白いことを言うじいさんだ。それならこの俺が子供ごときに手を煩わせれたっていうのか。俺はある意味子供のことを怖がっていたとでも。笑わせる、笑わせるぜ、じいさん」
そう言いながら中年は泣いていた。私は中年の顔を見ないように瞳を閉じた。中年はそして笑い声を上げた。そしてしきりに自分の拳を膝に叩きつけるのだ。何かやるせないことがあるかのように。自分が何か大切なことをやり遂げることが出来ず、悲しみに明け暮れるように。
「俺は親としての役割を果たすことができたのだろうか? 親として俺は娘に大切なことを教えることができたのだろうか? 俺はやり遂げることができたのだろうか」
「それは神も知らないことです。知っているのは娘さんだけでしょう。娘さんがあなたをどう呼んでいたかで簡単に判断ができるはずです」
「ああ、ああ。俺は罪深い男だ。どうしてこんな簡単なことに気づくことができなかったんだろう。俺は自分が自分を許せそうにはないようだ」
「……そうですか。それもひとつの答えと呼んでもいいでしょう。それがあなたの答えなのでしょうから」
私は穏やかな声で中年に声をかけ、肩に手を置いた。私は軽く肩を叩いてやるのだ。それが慰めになるのだから。
ひとしきり中年は涙を流し終えると、私の手を優しく掴んで自分の肩から引き離した。
「じいさん。ありがとな。上さんにも逃げられてかなり参ってたところなんだよ。あの時は一緒に悲しみを分かち合ったってのに、俺が酒に溺れるとすぐに居なくなっちまいやがった。これでも上さんとの付き合いは高校時代からだってのに。神様に永遠を誓っても人当然のようにそれを破っちまいやがる。俺たちはなんのために誓を立てたんだろうな。全く訳がわからねえ」
私は中年の言葉に微笑んでしまった。それを見た中年はムッとした顔をして私を睨んだ。
「申し訳ない。あなたがあまりにも私の知人のそれとよく似ていたものだから。あなたは誓を立てたとき、本当に永遠を信じていたのですか。本当にそれが永遠に続くものだと信じていたのですか?
別に馬鹿にしているわけじゃありません。でも永遠というのは人間が信じていいものなのでしょうか。喜怒哀楽という感情に左右される私たちが、感情を一定の状態で維持できない私たちが、そんなものを成し遂げられるわけがない。それでも信じているのはただの願望でしょう。ただそうあって欲しいと願っているんです」
「確かにそうだ! 俺たちに永遠ってのが与えられてるとしたら、そりゃああの世に行ってからだろうさ! 天国に行けば永遠に喜びに浸っていらえるがな、地獄に行った奴ってのは、ずっと地獄の業火に焼かれなきゃならねえ。もう悲しみを通り越して、神に憎しみしかわきゃしねえんだ!
だがな、じいさん。言わせてもらうぞ! 俺はあの時、確かに永遠てのがあるって確信したんだよ! こいつとなら一緒に歩いていけるって、子供を一緒に守って行けるって俺は心のなかで純粋に信じてたんだ。あの時の俺に、いや俺たちに偽りなんてものは一切なかったんだ!」
「……私は思うんですよ。なぜ在りもしないことを信じなきゃいけないんだろうって。永遠なんてものは在りもしないのになぜ私たちは永遠を望むんです。昔、どんな時でも権力者というのは、不老不死を望みました。この栄光を誰にも譲りはしないと。自分の権力が脅かされるそうになった時は、我が子まで殺そうとしてましたしね。そうまでして私たちは永遠を望むのかとね。
だから私は有限を望みます。この世のすべてが有限だからこそ私たちは生きていけるのだと。あなたの娘さんの命も有限でした。決して死んだことが良いとは言いません。ただあなたの娘さんは何よりもあなたに覚えていてもらえるのです。いつかは尽きる命だからこそ、それを私たちは大事にできるのです。
私はこうも思います。人の感情はコロコロ変わります。本当にコロコロと。私たちはそんなかで人付き合いをしてるんです。本当になんて世界で私たちは生活してると思いませんか。考え方も変わり、好みも変わります。どうしてこんなかで私たちは永遠を望むのか。このことは先ほども言いましたがけどね。あえて繰り返させてもらいました。思うんです。私たちの感情の移り変わりは永遠を誓った時よりも、人の不確かな絆を完全とは言わないまでも確かにあるんじゃないかとね。
今は私は誰かのことが好きだったとしましょう。それでも明日にはその気持ちが変わってしまうかもしれません。あなたが奥さんに対しての気持ちが、確かに永遠を誓い合った時と比べて衰えてはしませんでしたか? きっとなったと思います。でも私がそれを美しいと感じたんです。明日は娘さんへの感情がしぼんでしまわないとも限りません。だからいいんです。
どうか私のことを頭のおかしな老人だと思わないでください。今だけで聞いてください。そう! 私は今いいことを言いました。今だからです。明日になったらあなたは私のことを忘れるでしょう。ただそんな気がするだけすが。
私思うんです。今誰かのことが好き。明日も誰かのことが好き。きっとその感情はいつか色あせてしまうでしょう。忘れ去られる。ここで使わせてもらいますが、本当にそれは永遠に忘れることになるかもしれません。でもその好きでいられる瞬間がたまらなく私は好きなんです。それが一日でも続いて欲しい。私はきっとそう考えながら、願いながら生きてきたような気がします。永遠を手に入れるためじゃなく、永遠を続けるために。あたりまえの永遠よりもよっぽど幸福だと思いませんか?」
私は今晴れやかな気分で笑えているだろう。本当にスッキリした顔をしている。私は今の言葉を目の前にいる中年にではなく私に言った。どうにもできないこの胸いっぱいな満足感はそこからきているのだ。私はたどり着くことができたのだろうか。
「じいさん。そりゃあ、全人類に対しての冒涜になるんじゃねえのかい? いやもう神にと言ってもいい。俺にはじいさんの気持ちがなぜだかわかるんだ。でもそれに賛同したくはねえ」
中年はいきなり私の胸ぐらを掴んで持ち上げた。私は苦しくてたまらなかったが、中年の言っていることが自然と耳に入ってきた。
「なぜって? そりゃあ、俺がまだ生きることに諦めてねえからだ! 俺はじいさんのように悟りを開くことができねえ。しかしな、自分の自論を意味付けることくらいはできる。そうじゃなかったら……。じゃあ、何か? 俺たちは、今あんたが言っていたような喜劇の中で生きてるって訳か? 永遠に続くことがないのにまるで神に祈るようにして、膝まづくようにして祈らなきゃいけねえのか! 冗談じゃねえ! 俺は、俺は諦めたくねえ。この年になって言いたかねえがな。俺は強くなりてえんだ! 悟りを開いて人に説くことなんてしなくていい。俺は自分の大切なものを守る力が欲しいんだ。そうだ、俺の願いはそれだけだったんだよ。小さいときの娘に約束したんだよ。何があっても守るって。だってそれは嘘じゃねえ。だって俺はあいつを守ることができるんだ。できたはずなんだったんだ!」
中年は私を座席に叩きつけると電車が停まった。駅に着いたのだろう。今私はそのことを確認するだけ余力が残っていない。私は立ち去る中年の足跡を聞いて、ぎこちない動くで頭を上げた。そして中年の最後の声を聞いたのだ。「俺は、子供のままでいたかった!」と。
次に気がついた時、私は座席の上で寝ていた。外は相変わらずトンネルが続いていた。真っ暗で何も見えはしない。私は永遠と暗闇のなかを走っているのだ。もちろん電車のなかに明かりがある。でもそういうわけではない。
私はズボンの辺りに違和感を感じて、取り出して見ると読みかけの本が入っていた。私は気分直しのつもりで本を開いた。しかし先ほどの中年の言葉が鮮明に蘇ってくるのだ。
どうしていいのかわからず、酔いつぶれる中年。私にも確かに似た時代があった。どれだけもがいても手に入らないものは入らない。失くしてしまったものならなおさらだ。私はそれを諦めたのだ。前の生活に戻ることを幸せになることを諦めたのだ。いや……そうだっただろうか。
いや、違う! 私は模索したのだ。なぜ人間が存在してるのか? 人間は何のために生まれたのか。地球を渇望させ、他の生き物を死に絶えさせる人間の存在とはなんなのか。欲望にまみれ人は他人を傷つける。それは何のためなのか。
人はどうして感情を持ったのか。それならどうして悲しみなど人を死に至らしめるような感情を私たちのなかに宿したのか。生物学的なことではなく、歴史学的ことでもなく、ただ倫理的に道徳的に、そして神秘的に。私はなぜこの世に生まれいでて、神秘的な生命の連鎖を続けるのか、私はそれを探していたのだ。
いや、それもまた違う気がした。私はそのように世界の視線から物を見ることで、私個人という存在を抹消したのだ。そうすることで、自分について深く考えることをやめてしまった。あたかも私の考察は世界のためとでも言うように、持ち合わせた知識を人に振りまいていたに過ぎない。
そうだ。結局私には何一つわかっていなかったのだ。わからなくなってしまった。
そして私は考えることをやめて、世界に溶け込んでしまったのだ。そこで私は気がついてしまったのかもしれない。世界に私個人という個体は必要とされてない。必要されているのは、ただの歯車としての私だと。そうして私はちんけな哲学から解き放たれて、それ以上の考察をやめてしまった。
私はもうあの頃に気づいていたのかもしれない。
すると、私の目の前に明かりが差し込んだ。目に突き刺さるようなまぶしい光だ。目を開けることは難しいが、私は今まで見たことのないような景色を目にしたのだ。どこかで見たことがある。しかしそれを本当に見たかと言われれば私はすぐに頷くことはできない。
電車は少しずつ徐行して、停車した。すると私は日が沈みかけているのか、上がりかけているのかわからないが、確かに傾いていることが視認できた。しかし夕日のように赤みを帯びているわけではなかった。
そうして一人の乗車客が電車に乗り込んできた。私と同じ老人だった。渋色のしましまのワイシャツを着て、私の目の前に座った。穏やかな笑みを浮かべた老人だった。だが私はこの老人を異様に警戒してしまった。先ほどの中年のせいだろうか? それともう一つ、この老人に既視感を覚えたのだ。私はこの老人をどこかで知っているのだ。だが私はそれを思い出すことができなかった。思い出す前に老人から私に話しかけてきたのだ。
「おはようございます。今日は少し冷えますね」
「え、ええ。おはようございます」
私は戸惑いながら応えた。自分が戸惑っている理由はわからなかった。もしかしたら、今まで自分よりも若い人達と話をしてきたから、どう対応していいかわからないのかもしれない。私はその老人のことを観察していた。
すると、今まで車内を見回していた老人が、不意に私の目をしっかり見るのだ。私はそのまま固まってしまった。すると柔らかく微笑み口を開いた。
「何やら、呆けた顔をしていますね? お疲れですか?」
「い、いえ。そういうわけではないのですが」
どうやら今回は私が心配されてしまったようだ。失礼な人ではあるが、悪い人ではなさそうだ。歳が年配ということもあり、お節介な人なのかもしれない。
「そうですか。疲れた顔をしていたようなので、つい。それにしても、今日はいい天気だ。快晴になりそうですね」
「ええ、本当に。気持ちのいい日になりそうですね」
私がそう言うと、会話はそこで途切れてしまった。私はどこか落ち着かなくて、目の前の老人のことが気になってしまった。
「何か悩み事がありそうですね?」
老人は私の青い顔が気になったのか、心配して尋ねて来た。だが私には大きなお世話だった。私は世界に打ちのめされてしまったのだから。昔の自分が蘇ってくる。だから今更、人間の言葉などあっても何の役にも立たないだろう。だから私は投げやりに応えた。もうどうとにでもなれと言うふうに。
「もう全てがわかりません。自分のエゴで、私に説教された人はたまったものじゃないでしょう。今、そのことを謝りたいと思ったりして。……まあ要するに、私は自分のエゴを人に押しつけてしまったんです」
それと同時に自分の言葉は薄っぺらいなと痛感してしまった。
「それは確かに大変ですね。あなたがそんなことを言っているとわかったら、あなたを信頼した人から反感が飛ぶのはごもっともです」
「……どう言う意味でしょう?」
「逆に言えば、あなたが毅然とした態度をとっていれば、誰もあなたを咎める人はいないということです。まあ、あなた以外はということですがね」
私はどうにもこの老人が好きになれそうにはなかった。言葉の端々に私を攻撃するような意味合いが取れるからである。
「ということは、あなたはごまかすなら最後まで突き通せと言っているみたいだ。確かにそのほうが、お互い何の争いの種がなくて良さそうではありますけどね。でもだからといって嘘もまたよくないでしょう」
「ほう? これは面白い。要するにあなたは正義を全うできるなら、戦争が起こることは仕方がないということでしょう。まるで偽善者だ。まあ、そんなことはどうでもいいんですがね。でも分かりましたよ。あなたが何に悩んでいるのか。
あなたは自分のこれまでの行いに悔いがあるのでしょう。あなたはこれまで出会ってきた人間に、謝りたいと思っている。自分が歩んで来た道は、必ず間違っていると言わんばかりに。でもその半面、あなたは否定して欲しいんだ。自分に会って救われた人がいるんじゃないかと。確かにとんでもないエゴイストだ。
だからといってあなたはその罪を全部かぶる勇気も、気位もない。あなたは臆病者だ、ということでいいんでしょうかね」
「……好き勝手言ってくれますね。そもそも、私はそれほどの悔いを残してきたつもりはありませんよ」
「そうじゃないでしょう。あなたはそれだけのことを犯しても、自分に責任がないと本気で思っている。人は人に責任を持つことができない。そんなことができるのは神だけだとね。まあ私は、神などいるかわからない存在を信じたりはしまんせがね。でもね仮にいたとしたら、私たち全員は罪を犯したことになるんですから、困ったものです」
「私は信じてはいませんよ。神など……バカバカしい」
私は怒りに任せて喋っていた。何が自分にそうさせたのかわからない。だが、この老人が言ったことが、私が最も言われたくないことだった。そうして、なぜこの老人が私の心をさも覗いたかのように話す。私はそれが不愉快で仕方がなかった。まるで自分と会話してるようだ。
「まあ、そう悲観しなくても、あなたは間違ってないと私は思ってるんですから。考えたことはありませんか。なぜ自分だけと。どうしてか自分だけが神に嫌われているのか、そんな感覚に陥る時が」
私は老人の顔を驚いた表情で眺めたあと、深く頷いてしまった。まあ、確かに思ったことはあった。
「そうでしょう。誰が大罪人で、誰が救世主なのか、実のところわかっていないというのに。誰に押し付けられたわからない罪を、私たちは知らないところで押し付けられているということです。これは多分神のせいでしょう。
おっと、あなたは私が神のことを信じていないと聞いて、今矛盾していると思ったでしょう。実はね、私は神というのを多少なりとも信じてるんですよ。そう、信じていないのは神のつくった制度というものでしょう。少しばかり話が飛躍してしまいましたね。あなたも不思議に思ったでしょう、神の制度とはなんなのかと。ここで話すことは、あくまで例え話なんですがね。
私がいう神の制度誤りというのは、人間に自由を与えたことなんですよ」
「ちょっと待ってください」
私は無意識の中で老人の話を遮ってしまった。なぜだかわからないが、それ以上喋らせてはいけないと思ってしまったのだ。
「あなたがこれから何を言おうと勝手ですがね。別に神なんてものはいてもいなくてもいい。それでも前時代を生きてやっと手に入れた自由をけなされたら、私だって怒りたくなる。あなたは自分の存在も否定しようとしているのですか?」
「ええ、もちろん。自分の存在を否定してこそ、神の存在を否定することができるのですよ。神が私たちを作ったことが間違いだった。ならそれを作った存在は、間違った存在なのではないかとね。私はね、神の存在を信じてる反面、神の存在意義を否定したいのですよ。そうしてすべての罪を神の責任にするのです。そうすることで神の存在意義を消しさることができると思ってるんですよ」
「あなたの言っていることは面白い。でもその反面、すべてのことに、ものに存在する意味がないと言っているんですよ。あなたはこの世界を無にでもしたいんですか。そんなものは修行僧の頭の中で十分です。あなたは人に優しくする反面、人間の本質というのを忘れてはいるように見えるのですがね」
「一体人間の本質に何の意味があるというのです? 私たちが感じたことも物も、すべて影響を持つことができないと言うのに。なぜって? 世界から見たら私たちはちっぽけで、はみ出していたら虫けらのように排除されてしまうからですよ。でも、私はこう考える。私が間違っているのではない。世界すべてが間違っているのですよ。この世に正しいことがそうそうないのは、そのためではないのですか。人は正しさに気付けないのはそのためではないですか。世界が本当の正しさを隠してしまったからじゃないんですか」
話が飛躍しすぎて付いていけないと私は感じた。でもその反面、共感できてしまうのだから不思議である。だからこそ、私はこの老人に一種の興味が湧いてしまった。だから、老人ついて尋ねてしまった。
「……単刀直入に言うと、あなたは神が嫌いなのですか? 人が嫌いなのですか? それとも自分が?」
私のその言葉が、老人の饒舌な語りを鈍らせたことに気がついた。老人は今口にしたことを一旦喉の奥で詰まらせたのだ。それ何故だか私にはわからなかった。老人は生き生きしていた顔を途端に伏せた。
「あなたに分かるものですか。私の苦しみが。……はは、最初はあなたの悩みを聞いてあげる立場だったのに、いつの間にか逆になってしまいましたね。そうです、私はこの世界がただ憎いんです。神が、人間が。そんな単純な個体に憎しみを抱いているわけじゃありません。ええ、そうですとも。私はこの自分の存在も含めた世界が憎い。あなたにわかりますか。自分が間違っていたと、そんなことで嘆くあなたに私の気持ちが」
「ええ、わかりません。でもあなたが少しでも話してくれるのであれば、私はあなたのことがわかるようになるかもしれません」
「どうだか。まあ、いいでしょう。お話します。この老人がこんな歳にまでなって生について考えることを諦めていないわけが、あなたにも少しはわかるでしょう。
私は極めて崇高な人間という訳ではありません。差し障りのない当たり前の教育と、当たり前の風習のなかで暮らしてきました。そんな当たり前の私が、どうしてそこまで世界を憎むことになったのか。ですが、私には目を覚ますきっかけにもなったんですよ。私の大切なものが根こそぎなくなってしまったときです。それは私が付いていけないほど、あっという間のことでした。どうしていいか分からなくなったとき、私はある境地に達したんです。この世は間違っていると。
私は大切なものを失った瞬間、すべてを捨てました。まあ、売った物がほとんどでしょうけど。そうして私は、思い出というものを一切自分の目の片隅にも映らなくしたんです。そうして私は晴れて自由になった。なにものにも縛られず、私はある遊びをすることにしたんです。
それがこの世にある、金があれば何でも出来るという遊びですよ。女、酒、ギャンブルなど。私は一通りやったんです。あれは楽しかった。金があれば寂しくないというのは、最もな意見だと私は経験で感じ取ってしまったんです。私はそれからしばらく欲に溺れて過ごしてきました。
そうして金がなくなった瞬間、気がついたんです。まあ、私はギャンブルがあまり得意ではなかったせいか、お金がなくなってしまったんですがね。これは置いときましょう。私はお金がなくなって、今までの自分を思い返してみました。すると、どうでしょう。私の心の中は欲に溺れる前と、何ら変わっていなかったんです。要するに、私は何も満たされていなかった。
これはどういうことか、あなたも不思議に思ったでしょう。後悔先に立たずという言葉があしますよね。私はそれを身を持って体験してしまったわけです。こんなことはあまりないので、ここで自慢しておきましょう。なにせ、本当に空っぽだったわけです。そうしてみるみるうちに、私の空っぽだった頭の中に、隙間を埋めるようにして過去の記憶が蘇ってきたんです。私の辛い過去が、私の心を蝕んで、一歩も動けなくなり、身体も蝕んでしまったと気がついたんです。
私はそれから、二週間ほど入院しました。その時はもう会社もやめていて、誰も見舞いにくるものがいなかったです。私は孤独でした。私の今までの人生はなんだったんだろうと、もう絶望を通り越して呆れてしまいましたよ。そうして私は思ったんです。このまま死んでもいいなと。このまま死んでも、私は世界を振り向かせることが何一つ出来ないと、感じ取ってしまったんです。
そうして私は世界を恨みました。無関心な人間も、無関心な存在の私も。人間を憎みました。そうして一番自分を憎んでしまいました。だからと言って、私は自分に自分の憎しみをぶつけるのは何か間違っているような気がしたんです。だから私は世界が間違ってると言ったんです。運命が間違ってると言ったんです。そして、神が間違ってると言ったんです。
そうそう、さっき言った神の制度という話をしましたかね。あなたに遮られてしまったんですが。この話に戻らしてもらいますよ」
老人は自分の饒舌ぶりを取り戻したのか、いくらか上機嫌に見えた。しかし言ってることは、私たちにとって薄暗いことは確かだ。この老人はおかしい。自分の存在を否定する言葉を楽しく語っているのだから。これが探究心というものか。それとも別の欲か。私にはわからない。でも不思議と共感できるものがあるのだ。違うな。共感しているのではない。私と全く反対のことを考えているのだ。私はその考えを幾度となく挙げて、そして否定してきたのだ。
そして私は先ほど中年に言われた言葉を思い出す。私は神に対して、冒涜したと思われてしまった。しかし、私の中では神も人もなく、ただこうありたいと望んだことなのだ。
私がそう考えているうちに、老人は神の制度のことを話し始めた。
「あなたは生きてるなかで不自由を感じたことはありますか。ああ、そういえば先ほどもこんな話をしたんでしたね。でもこれがなければ私の話は続かないので、どうかそのまま聞いていてください。まあそのなかで、それは神のせいだと私は言ったんでした。まあ、あなたはそう思ってないようですがね。私はこう思ってるんですよ。私たちは今でもなお、神に縛られていると。
まあ、そんな呆れた顔をしないで聞いてください。いいですか。私たちは今こうして自由に生活しています。昔みたいに特権階級などないし、……まあ、あると言えばあるのですが。等しく努力すれば金持ちになれるでしょう。弁護士や医者などね。でもそこで考えて欲しいんです。一体誰がこんなことをしたのかとね。ここであなたは私の話を中断したわけですが。これからが重要な話なんですよ。どうして私が自由を与えたことが間違っていると思ったか。
私は自分の存在を否定していると言いましたがね。だからこそ言えることなんですよ。人に差をつけるべきだとね。私は別に差別されても仕方がないでしょう。もし、下級の身分の家に生まれたとしたら。だって横を見れば私と同じ人間がたくさんいるんですから。確かに当時の私だったら、反乱の一つでも考えていたかもしれません。でもね、今の私は違うんですよ。私はこの世の中に生きていると、嫉妬を覚えるんですよ。平凡だった人間が私以上に何かの功績を成し遂げる。そのことに自分の心をどん底まで落とすんです。嫉妬と諦めで人は生きることをやめてしまう。もし過去に住んでいたら、私たちは生まれたときから階級がついている。だからこそ、少しの幸せで私たちは、幸福になれたんです。
しかし今は、相手を蹴り落として自分の力だけで登っていかなければいけない。支配者がおらず、誰にすがることもできない。しかし争いをしてはいけないと言う。ではそんな制度を作り出したのは誰か? 神よ、あなたのだ、とね。
これは神がいたらという前提で話すんですがね。どうして、神は人間を作ることにしたんだろうと、不意に思ってしまうんです。神は我々人間を作って何がしたかったんだろう。 そもそもですがね。ああ、これは前もって言っておきますが,
私は神を信じていますが、決してそれに対して片膝をつこうなどとは全くもって考えてないんですよ。もしかしたら私はあなた以上の無神論者なのかもしれませんからね。
神は私たちに対して自由を与えてくださりました。ですが私たちは、農作物が育たないと神に頼ろうとしてきた。感染病が蔓延したとき、神に生贄を捧げようとしてきた。これは今ではなく昔の話ですがね。結局私たちは人間のなかで自由になれただけで、結局のところ、神に縛られているのではないかということです。神は私たちに自由を与えながら自由の檻に縛られているのです。
そして私たちは、人間のなかで神の作った檻に縛られることになるのです。私たちはある時代まであった職業選択の不自由という制度がありました。ですがそんものを撤廃した今の時代はどうでしょう? 私たちはまるで神に押し付けられたかのように自分の人生を決めなければなりません。今の若者が自分のやりたいことがない。何にも興味が持てないという状態はまさしくそういうことなのではないでしょうか? 私たちは今度は自由という名に縛られてしまったのです。全く嘆かわしい人間社会ではありませんか。そして神の制度という檻に私たちは縛られているのですよ。私たちは神のお遊戯として作られたというわけではないですよね。もしそうだとしたら、私は反逆者になってもいいでしょう。
そういえば、あなたは人間が神に模されて作られたという逸話をご存知でしょうか。永遠の命を与えられたアダムとイブが知恵の林檎を食べてしまって、人間界に落とされたという話もありましたね。あれは人の堕落した心を書いたものらしいですね。まあ本当かどうかは知りませんがね。そして人間は生まれたときから神と同じ知恵を身につけ、罪を持っていると。なんとバカバカしい! 全くもって!
何故バカバカしいかって? だってそうでしょう。私たち大人に罪を押し付けるのは構わない。私たちは大人になるために色々な罪をかぶってきたでしょう。しかし子供にまで罪を押し付けていいものでしょうか? 何も知らない子供に私たちは罪を押し付けなければいけないのでしょうか? 神は一体何を考えている? まあ、大人になるには罪をかぶらなきゃいけないのも皮肉な話ですがね。私はね、実はこう考えたのですよ。神は私たちを自分たちの敵として作り上げたのではないかとね。反逆者として最初から作り上げる。
確かに私も気がつくのに時間がかかりました。もし、人間を食べる巨人がいたとしましょう。私たちは当然巨人を嫌悪し倒すための敵だとみなすでしょう。そしてその巨人たちが増殖するのを防ぎたいと思うはずです。だからこそ、生まれたばかりの巨人でも私たちはその子供忌み嫌うのです。
全くこの悪循環というか、嫌悪循環とでも言いましょうか。理にかなってると思いませんか? ああ、神は私たちを反逆者にしたかったのだ。なら、なぜ神は人間を作ったのか。それはもしかしたら我々の考え方と同じかもしれません。だってそうでしょう? 私たちは神を想像すると同時に悪魔も想像してしまったのですから。自分たちが恐れるものを、あえて自分たちが作り出したのですよ? 不思議だと思いませんか? よく思い出してください。悪魔の姿を。長い槍を持って二本足で立っている。顔は牛の顔をして角も生えていますが、普通牛は二本足で立つでしょうか。そう、人間に似せて作られたからです。そしてなぜ人間がこんなものを作ったか? それは恐れるものが欲しかったからでしょう。未知の何かに出くわし、手に負えなくなったとき、私たちは何かにつけてその存在に名前を付ける。まあ、悪魔は人間が堕ちた姿とも言われることがあるんです。そうです、もとは人間だったんです。そうすると、人間はもとは神だったという説も立てることができますがね。まあ、要するに私は考えたのです。人間は神が堕落した姿だとね。神から見たら私たちはなんと滑稽に見えるでしょうね。そう思いませんか? そう、神はこう成りたくないという思いから、人を作ったのです。
それとこんな考え方もあるんですよ。子供が父親に対して抱く感情というものがあるでしょう。反抗期というやつですよ。どうして子供は父親に反抗してしまうのか。それは同属嫌悪というやつですよ。自分に似ていてどういう訳か嫌になるという考え方ですね。全く父親の方が先に生まれたのだから、嫌悪されるのは自分なのにね。でも、私にもわかる気がするんですよ。自分はほかの誰でもない、自分なんだ。と主張したくなったりするんですよ。子供じみていると笑われてしまうかもしれませんがね。もしかしたら私たちは、本当は神を嫌わなくてはいけないのではないかと考えたわけです。
どうです。この世の中がおかしいと思い始めて来たでしょう。間違ってませんよ。この世の中は間違ってるんですよ。神を作り出した私たちもですがね」
ここで老人の言葉は途切れた。息が途切れて、次の言葉が出てこないのかはわからない。老人は突然うつむいてしまったのだ。私はどうしようかと思った。何故なら、この老人と論争を重ねることが、私には疲れてしまったのだ。このまま、老人が電車を降りてくれれば、私にとっては嬉しいことだった。しかし、老人はうつむいていた顔を起こして、私の目をじっと見つめているのだ。私は涼しげな眼差しで、その視線をかわしていたが、とうとう落ち着かなくなって老人に話しかけた。しかし私から発せられた言葉は、自分自身にとっても意外な言葉だった。
「嘘はよくないですよ」
「……どう言う意味ですか?」
「あなたがどうして、世の中を憎んでいるかは分かりました。偶然と私も同じ経験をしたことがあるんですよ。全く同じ経験と考えを。じゃあ今度は私が話しましょう。私が出会ってきた人たちの話を。……私自身の話を」
私は緊張で肺が詰まったような、息苦しい気持ちになった。それと同時に高揚した気持ちにもなっていた。それはこれから話す内容が、私にとって一番大切な出来事であるからだ。
「私は小さい頃から、わりと大事に育てられました。それはごく当たり前の家庭で。小さい頃の私は希望に満ち溢れていた。何にでもなれると思っていたし、どこにでも行けると思っていました。私は夢を胸に抱いていつも広い世界を見上げていました。
でも歳をとるにつれて、自分の限界がわかってしまった。違いますね。諦めてしまったんです。この広い世の中で私は気後れしながら、将来のことを考えていました。どうしていいか途方にくれたこともあります。その辛さの中で出会ったものは、私にとってなにものにも負けない輝きを放っていました。一番は人との出会いでした。初めて好きな人が出来ました。心からその人と一緒にいたいと思いました。心から幸せを信じて疑わなかった。それがその時の私の全てだったから。先のことを心配しても仕方がないと言いますけど、それは本当だったと私は思ってるんですよ。だって、そうでしょう。楽しいときに楽しまないと、人はあっという間に幸せを逃してしまうんですから。
あなたは世の中が不公平だと言ったでしょう? 確かにその通りです。でも私たちの世界に本当は幸せなことなんて、たくさんあるわけではないんです。どんなに幸せであっても、人はそれに対して飽きてしまうから。どんなに幸せが近くにあっても、人はそれに気づくことが難しいから。だから自分にあるものに目を向けず、人が持っているものを追いかけようとしてしまう。
でも、それでも幸せは確かにあったんです。初めて何かをすることは、きっと期待で胸が膨らんだと思います。昔を懐かしんで、思い出のなかで幸せになることだって出来るんです。どれだけ不幸なことがあっても、その中に些細でも、確かな幸せがあったと思うんです。でもそれは人が忘れてしまう感情なんでしょう。だって人は自分にとって辛いことしか覚えていられないんだから。
私はふと子供時代に戻りたいと思ったことがありました。それは本当に辛い時期です。大切なものを失くした時です。私の周りはただの空気が流れているだけで、温かさを感じる人のぬくもりがなかったからです。そうして、私はやけくそに生きることにしました」
老人の瞳がわずかに開いた。老人の手が自身の腕を強く握っていることがわかった。
「でもそこで諦めず、ここまで来れたのはどうしてか? やる気も、生きる気力もなくなって、歳を重ねるごとに辛いことが増えるのはどうしてだろう。周りを見れば、子や孫に囲まれるような歳なのに。自分ばかり不幸だと、何度考えたことだろう。でも、やっぱり生きることを諦めることはできなかった。娘を失くして、妻に逃げられたとき、私は誓った。生きることだけは諦めないで行こうと。頑張って行こうと。決して報われることがなくても、たとえ世界を恨んでいようと、世界に憎まれていようと、生きていこう。例え、欲に溺れて、虚しさで心と身体を縛りつけられることがあっても、生きていこう。生きていこうと。私は心のなかで葛藤を続けました。
そうして私は生きていきました。例え性格がひねくれていても、生きることはやめなかった。だって、どれだけ憎もうとも、この世界は私に幸せをくれたんですから。いや、本当は怖かったんです。自分のたった一生の時間だけで、世の中を見ていいのかと。捉えきれてないのではないかと。そうやって何かと理由をつけて生きてきただけかもしれませんが。それでも、生きてきてよかったなと、思ってるんです。目に見えないくらい些細なことだったしても、確かに私に幸せを、大切な目的を、大切な人をくれたのですから。
私は、今は神の存在を信じているわけではありません。でも、もしいたとしたら、私たちに寄り添ってくれる存在なのでしょう。辛い時も、悲しい時も、目に見えなくても一緒にいてくれるのでしょう。
あなたが言っていた反抗期の子供の話をしてみましょう。あなたは子供が辛い時、そばにいることはできても、本当に何かしてあげるられるわけではありません。多分子供の行動を見守って上げることしかできないでしょう。だって自分の話をしても聞く耳持たないと言うふうな態度をとるからです。それでもどうでしょう? あなたは、子供を見放すことができますか。一時の気の迷いと、堪忍袋が切れてしまったとしたら、その時だけは思ってしまうかもしれません。それでも、私たちは立ちきれない絆で結ばれているんです。見捨てることができないんです。
それでも守ってあげることもできないとき、それはすべての事象が、私たちの手に終えるものではないからです。だから、私たちはすべてを委ねて、信頼し子供の好きなようにやらせてあげればいいんです。
きっと神もそうだったのではないでしょうか。私たちが神を感じることさえできたなら、きっと一人ではないと思えたかもしれません。それでも気がつかなかったら、私は一人ではなかったと、思い出して見てください。どれだけ、今が孤独でも私達に何かをくれた運命を憎まないでください。
いいえ、辛い時はやはり憎んでもいいのです。何かに当たりたかったら、当たってもいいのです。あなたの言うとおり、世界は間違っていて、自分は正しいと思ってもいいのです。それであなたの心が晴れるのであれば、そうするべきなのです。でも、決して自分だけは否定しないで欲しい。神が間違っていても、世界が間違っていても、自分だけは否定しないでください。あなたがそれを否定してしまったら、あなたを肯定してくれるものがいなくなってしまうからです。人はそんなに強くない。これからずっと先、未来にあなたを覚えている者はいないでしょう。だからあなただけは自分のことを覚えていてください。そうしたら、誰かが見ていてくれるかもしれませんから」
老人の顔は涙で汚れていた。整った顔立ちが台無しになっていた。それでも老人は泣くことをやめなかった。そうしてかすれた声で私に問いかけてきた。
「どれだけ不幸でもですか?」
「そうです」
「どれだけ、世界に憎まれていてもですか?」
「はい」
「どれだけ、神に憎まれていてもですか」
「そうです。人間は自分というものを認識して、それを理解したとき、本当に生きていると感じることができるのでしょう。初めて自分がどうして生きているんだろうと感じて、私たちはとてつもない喪失感を感じてしまいます。それでもそこから考えましょう。きっと人の数ほど私たちには答えがあるのですから」
私がそう言った瞬間、電車が停車した。すると同時に、老人の姿はもうなかった。
それでも私の心に驚きはなかった。すべてあったことなのだと、心のなかで覚えているのだから。
「でもね、私は人の数ほどの答えの前に生きること、それ自体に意味があることだと、本気でそう思っているんですよ。だから私の人生は幸せだった……」
人生は光の海のように広く輝いていて、花の蕾のなかを見るように未知なるものを見せくれた。私にかけがえのない幸福をくれるとき、私たちは祝福されて来たのだと、感じることができた。だから私たちは生きていいのだ。誰にもやましいことなどない。辛いときほど笑っていよう。笑いたいときは笑って、愛する人を愛そうと。そう私は生きてきたのだ。