歩兵は少女と語る
翌日、フィムルとコムはウーノの口からその偵察任務の詳しい内容と第一歩兵隊への異動命令を聞いた。開始は六日後の早朝。期間は三日。三日の間森の中に野宿し、異変を突き止める--ひどく曖昧で抽象的な命令である。
「フィムル、了解しました!」
「同じくコム、了解しました!」
「健闘をお祈りしています。開始二日前から訓練調練の全てを免除しますので、体を休めて万全の状態で臨んでください」
「「ありがとうございます!」」
敬礼する二人に、ウーノは鷹揚に頷くと踵を返した。カツ、コツ、という足音が聞こえなくなってからようやく、二人は敬礼していた体勢を崩した。そしてお互いに顔を見合わせると--ガッツポーズをした。
「よっしゃああああああ! 昇格だああああ!」
「い、いや、落ち着けよコム。まだ俺らは歩兵だし、一時的に異動になっただけだろ」
「ニヤついてるぞフィムル」
同じくコムもニヤニヤしながら告げる。フィムルはコムの指摘に慌てて自分の顔をペタペタと触ってみるが、確かに頬の筋肉が緩んでいたようだ。紛れもなくニヤついていると確信しながら、それでもしょうがないという思いが胸中を占める。今までやってきたことは無駄ではなかった。同期の誰よりも早く、フィムルとコムは最も実戦経験のある第一歩兵隊に組み込まれたのだ。そこで実力を示せば他の隊の副官や隊長になるのは夢ではない。一気に現実味を帯びた『昇進』にフィムルは拳を握り締めた。
「よし、そうと決まれば早速キリグ隊長のところに行こうぜ!」
「そうだね……行こうか」
フィムルは思う。今日はすでに調練も掃除も終わり、他にやることもない。なにより、この喜びを抑えきれる気がしない。自分で抑えられないのならば、他の人に押さえ込んでもらおう、といつも調練場にいるキリグ隊長と話すため調練場に向かう二人だったが。その前に、一人の少女が立ちふさがった。
あ、という声はどちらが漏らしたものだったか。あるいは、フィムルと少女の両方だったのかもしれない--素早く厄介事の匂いを感じ取ったコムは慌てたようにフィムルに告げる。
「お、フィムル知り合いか! 俺は先に行ってるからな!」
「ちょ、待てコム--」
フィムルが伸ばした右腕は虚しく空を切り、コムは素早く駆けていき、廊下には少女とフィムルのみが残された。少女、エミルはローブの奥に覗く真紅の瞳を強くフィムルに向ける。睨まれていると感じたフィムルはひたすら縮こまる。冗談ではない、魔法などという高等技術を扱う兵士に逆らう気など起きない。
「な、何か御用でしょうか」
図らずも初遭遇の時と同じように声をかけてしまったフィムルは内心舌打ちするが、放たれてしまった言葉はもうどうしようもないし、訂正する気もない。そもそも訂正するようなおかしい言葉を行った記憶もないのだ、このまま押し切る。
「……別に。ただ、聞きたいことがあるの」
「なんでしょうか」
別にじゃねえだろ用事があるじゃねえかと内心罵倒しながら、フィムルはエミルの言葉を待つ。自分でもびっくりするほどの精神力を発揮して、なんとか顔面の真顔を維持するが、エミルは気にもしていないように無表情だ。そしてその口が開かれる。
「なんで頑張るの?」
「--は?」
エミルの言葉はフィムルの予想の斜め上を行くものだった。
「頑張らなくても給金はもらえる。食事も出る。危険もない。なのに、どうして--上に行こうとするの?」
心底疑問である、とエミルはフィムルに尋ねた。キリグに目をつけられなければ、危険もある偵察任務などに参加することもなかった。フィムルが偵察任務に行くことをエミルが知っているはずもないが、それでも--強くなるためにキリグに挑みかかるフィムルを一度見て、エミルは疑問だった。
頑張らなくても生きていける。
それが、エミルの出した結論だった。ただ日々を漫然と過ごしていても誰も苦しまない。
「ああ--そういうことか」
エミルの表情を見て、フィムルは察した。そして敬語をやめる。この少女は--エミルという貴族の少女は、今まで苦労したことがないのだ。貴族から兵士に落とされてする苦労は、エミルにとってたいしたことではなかったのだろう。
だが、フィムルはそれを否定する。この世界は何もせずに生きていけるほど、優しくはないのだ。
「魔物に襲われて、戦う力がなかったらどうするんだ?」
「逃げる」
「どうやって?」
「魔法--あ」
「俺は魔法を使えない。だから鍛えてるんだよ。じゃあこのあともキリグ隊長との訓練あっから」
相手をするのもアホらしくなったフィムルはさっさと会話を切り上げて、その横を通り抜けようとする。エミルの右を通り過ぎて、そのまま--
「待ちなさい」
止められた。左手首をエミルの右手に掴まれて。フィムルはそれを咄嗟に振りほどこうとするが、手首に感じる指の細さに思わず止めた。こいつ、何歳なんだ? 女性だから小柄なのは分かるが、身長も声も年若い女性だ。ともすれば子供のような--
「なに?」
「私が--悪かったわ。だから、もう一つだけ聞かせて」
エミルの目から放射されていたプレッシャーはもう、鳴りを潜めていた。ただおびえているような気配をエミルから感じたフィムルは、エミルの質問にわずかに目を細め、自分の思っていることを告げた。エミルは静かに頷くと、その答えに満足したように口元を緩めた。
「ありがとう。時間を取らせて、悪かったわね」
「いや、まあいい。じゃあ、またな」
「ええ、また」
フィムルはキリグのもとに向かうため、歩き始める。その背中を見送ることもなく、エミルも自分の用事のために歩き出した。フィムルとエミルはお互いに感じていた。きっと、いつかまた会うことになるーーそれは、そう遠くない未来だろう。
「私とは正反対だけど……でも、面白かった」
ギィ、と錆び付いた扉を開けながらエミルは呟いた。昨日より胸の中を支配していたモヤモヤは全て溶けるように消え去り。ただ晴れ渡るような、清々しさだけがあった。
「師匠」
「ん、来たかエミル。……何か良いことでもあったか?」
「いえ……」
否。
「はい」
修行用の小部屋で待っていたイエリに、はっきりと返事を返す。良いことがあったのだ、自分の気持ちに向き合う。彼は自分とは正反対であるが、そういう生き方もできるのだ--という、証明になるだろう。エミルは本能的にそのことを感じ取っていた。
「ほう、それは良かった。エミルの良いことは私にとっても嬉しいことだな。何があったのか話してもらっても?」
「話したく、ないです」
「--ふむ。まあそういうこともある、か。エミルもそろそろ十四歳だものな。だが師匠、ちょっと寂しいよ」
「そんなことより師匠」
「師匠の気持ちをそんなことって……まあいい、なんだい、言ってごらん」
「アレ、挑戦させてください」
「アレ、かい? 確かに、今の君の精神状態ならば--」
イエリは顎に手を当てて考え始める。今まで一度たりとも成功したことのない魔法。だが、魔法の成否はその術者の精神状態に強く影響する。ひたすらに清々しい今ならば、どんな魔法も紡いでみせると、エミルは確信していた。
「やらせてください」
「ほかならぬ愛弟子の頼みだ、やらせてあげよう。では調練場に向かうとするか」
「えっ」
「おいおい、あんな魔法、ここで使う気だったのかい? 大変なことになるだろう……」
まだまだ周囲が見えてないな、とため息をつくイエリに頭を下げるエミル。浮かれすぎていた。今まで考えたこともなかったが、魔法は落ち着きがなくても失敗する。ただひたすらテンションを上げればいいというものでもないのだ。
「すみません、師匠。落ち着きます」
「いや、気づけたならいい。では調練場に向かうとするか」
「はい! ……あっ」
「ん? どうかしたか?」
「い、いえ! なんでもないです!」
キリグ隊長とやらに稽古をつけてもらっているあの二人、なら今はどこにいる? 当然調練場だろう。もしかしたらまた彼の戦いが見れるかもしれない、と魔法以外のことで胸を高鳴らせながらエミルはイエリについて部屋を出た。そのわかりやすい浮かれように、イエリはこっそりと苦笑した。
(恋、かな……? いや、自覚はしてないな。目標を見つけたというのが正しいか……?)
だがそれも、調練場に向かえばわかるだろう。伊達や酔狂でエミルの二倍の年月を過ごしてきたわけではないのだ。ここの第一魔法隊副官になってからというもの、才能ある人間を見出し、育ててきた。その中でもエミルは別格だ。十三歳という若さで、全く揺らがない炎の球を長時間生み出せる--空恐ろしいほどの魔法の才。
最近あえて考えないようにしてたことを、改めて思考に乗せる。今まで様々な魔法士を見てきたが、その誰よりも魔法の才能を秘めた少女--エミル。なぜここまでの魔法の才能が現れたのか、そこに何者かの作為を感じずにはいられない。本当に偶然だろうか?
ここまでの魔法の才能を持つ貴族の少女が、外見的な理由で兵士にまで落とされ、その配属先が現在唯一と言っていい最前線であるということが、果たして偶然で片付けていいものなのか? まるで戦闘させて殺そうとしているような感覚すらある。イエリは貴族間の政争がどうなっているのかなど知りたくもないし、知る必要もなかった。だが、なぜこのエミルという少女を兵士にしたのか、という疑問だけが頭の中を回り続けている。
「気にしても仕方のないこと、なんだろうが……」
「師匠?」
「ん、なんでもない」
本人に聞くのが最も手っ取り早いのだろうが、聞いてしまえば貴族の政争に巻き込まれる可能性もある。なにより、もしかしたら彼女の心の傷になっているかもしれないのだ――迂闊な事は聞けなかった。
調練場へ向かいながら、イエリは思考を切り替えた。今考えるべきは彼女のことではなく、彼女が使おうとしている魔法のことのはず。
「確認するよ。発動させて、制御する自信があるんだね――《爆炎》を」
「……はい。絶対に使いこなしてみせます」
イエリの問いに、小さく、だが力を込めて答えるエミル。今までどこか冷めた目で魔法を使い、一度たりとも炎球を揺らがせたことのなかった少女が炎球を揺らがせ、翌日に浮かれた様子で次の魔法を、とせがむ――感じたことのない奇妙な予感のようなものを感じ、イエリの背中を一筋の汗が伝った。
何かはわからないが、何かが起きそうな気配がする。少し、気を引き締めておこうとイエリは密かに覚悟するのだった。
そのままフィムルのあとを追うように歩き続けた二人は、やがて調練場についた。調練場には誰もいない、彼ら四人を除いては。幸い、まだ四人の訓練は始まっていないらしく、イエリは面識のある二人に声をかけた。
(さっきのエミルの動揺はこれを知ってたからかな……? まさかこの二人が原因ってことはないだろう)
「おお、キリグ隊長。ギリー副官もお久しぶりです」
「ん? イエリ副官か。もしかして、訓練に使うか?」
「ええ。しかし……」
チラリ、と自分の愛弟子の様子を確認してイエリは苦笑する。それなりの付き合いになる自分にしかわからない程度に、エミルの感情が揺らいでいるのを感じ取った。覚悟などはぐらついていないようだが、端的に言うと浮かれているように見える。
「私たちの訓練に明かりは必要ないので、どうかお先に。見学させてもらうとしましょう」
「ふむ。魔法兵が見ても楽しいものではないと思うが……まあいいか」
キリグが頷き、イエリとエミルの二人は邪魔にならないように調練場の端に移動する。イエリは気づかれないようにエミルの様子を観察するが、残念ながらどちらの少年がお目当てなのかはわからない。先ほどの確認を感づかれたようで、今はもう感情を鉄面皮の下にしまいこんだようだ。全く、可愛げのない愛弟子である。
「あの少年たちの名前知ってる?」
「あっちがフィムル……で、あっちがコム」
「なるほど……コムという少年の名前はチラッと聞いたことがあるような、ないような」
「……師匠、ボケたの?」
「失敬な。これでもまだ三十手前……む、始まるようだぞ」
イエリの言葉に、改めて四人を見つめるエミル。戦いの一瞬たりとも見逃すまいと、真剣な眼差しで見つめる。その、何かに熱中する様子にイエリは再び意外そうな表情を浮かべるが、水を指すことなく自分もまた意識を集中させる。四人の訓練が始まろうとしていた。




