歩兵は戦場を見据える
奇妙な、一瞬の間があった。それは魔物側も同じだったようで、不思議な沈黙が両軍の間に訪れた。人間側の軍勢は隊列を整え、なにも考えずに突き進んでくる魔物の軍を待ち構えているだけだ。魔物も、なにも思うところなく突っ込んでくるのかと思ったが、一瞬止まる。
まさか、来ないのか?
そんな疑問がフィムルの脳内に浮かんだが、そんなはずはなかった。奇妙な沈黙が過ぎ去った瞬間、膨大な声量の咆哮が、魔物の軍勢から放たれる。足が竦む兵も少なくはなかった。獲物が近くにいると認識した魔物たちが、突進してくる。目の前に存在する歩兵たちを食い破らんと、足音高く進撃する。
「絶対に通すな! 食い止めろ!」
キュリエルから放たれる溶解液が、木の盾によって阻まれた。その隙に別の兵士が槍で串刺しにする。それが戦争の始まりだった。
フィムルはそういった光景から意図して視線を外した。個々の戦場を見るのではなく、魔物の全体の動きを捉え、指揮官の居場所を暴こうとする。だが、まだ動きはない。
「騎兵隊、突撃!」
大声で叫んだ騎兵隊の隊長は、勢いよく魔物の群れに突き進む。キュリエやキュリエルを踏み潰し、オークに剣や槍が突き刺さる。弓兵がいれば接敵前にある程度数を減らすこともできたのだが、弓兵は今は砦でワイバーンと戦っているため、魔物は無傷そのものだ。
「行くぞ、てめーら!」
剣戟と悲鳴が飛び交う戦場で、キリグの声は大きく響いた。兵士、というよりも傭兵然とした彼らは、それに雄叫びを以て応えた。
「おらおらぁ! 死にたい奴からかかってこいやぁ!」
「消えろ消えろ消えろぉ!」
「キュリエ程度が道を塞がないでくださいな!」
「おい、誰があのトロルを倒すか賭けようぜ! 俺は俺に全賭け!」
「あってめぇ待て! 俺も俺に全部賭けるぜ!」
規律もなにもあったものではない。多くが冒険者あがりである彼らは個性も強く。そして、その実力は文句なしに歩兵の中では最強だった。逃げようとしたオークの背に、矢が突き刺さる。飛びかかろうとしたキュリエを、剣が切り裂く。殴りかかろうとしたトロルを、鎖鎌が引きずり倒す。
一人一人の武が高い。魔物を相手に戦うことに慣れているのだ。それを視界の端に収めながらフィムルは必死に敵の指揮官を探す。周囲を見渡しても、第一歩兵隊が大きく敵に切り込んでいることは間違いない。ここまで崩せば、立て直すために指揮することが必要なはずだ。
そう判断したフィムルは、近くにいたキリグに告げる。
「一回退いてみてください」
「おう……わかったぜ!」
近くに寄ってきたオークを右手で殴り飛ばしながら、キリグが息を吸い込む。その隙に近づいてきた数匹のキュリエルを、コムとギリーが一瞬でバラバラにした。
「戻れっお前ら! 一度退くぞぉ!」
その指示は雑音が多い戦場でも、第一歩兵隊の兵士に聞こえたようだ。各々自分が戦っている敵を数秒で片付けると、その場で身を翻した。一瞬あっけにとられた魔物たちだったが、目の前の敵が逃げようとしていることに気づいて、怒りの声を上げて追いすがってくる。どうやら、犠牲も出さずに逃げ切ることはできないようだ。そう判断したキリグは、指示を出す。
「ムーディル」
「よっこいせ、っと」
キリグの隣を走っていた優男風の青年が、右手に数本の矢を持って打ち放つ。放射状に飛んでいった矢は、一匹のオークと数匹のキュリエルにあたり、その場で命を刈り取った。
「いやぁあんだけいると狙わなくていいですねー」
言いながら、次々と矢を放つ。間断なく飛んでくる矢に、オークたちの足が鈍る。そして、ムーディルと呼ばれた青年は、走るのをやめる。第一歩兵隊の大部分が後ろを走っていくのを感じ取りながら、目の前の膨大な魔物の群れに向き直る。
「ここが死に場所、いいじゃないですか。最高にかっこいい死に方ですよ!」
次に取り出す矢は一本。残り本数は二十四本。一本ずつ丁寧に撃ち込んで、削れるだけ削る。隊長に任されたのは、足止めと敵の数を減らすこと。
絶望的な戦場に身を置きながら、ムーディルは凄絶に笑んだ。
「さぁて、何匹道連れに死んでくれる?」
襲いかかってきたオークの槍を避け、眉間に矢を突き刺す。脇を抜けようとしたオークの背中に、新たに放った矢が飛ぶ。神速と言っても過言ではない、高速の射撃。
やがて、彼の姿は魔物の群れに呑まれた。
「フィムル。見つけられるんだな」
「……はい。絶対に、見つけてみせます」
部下を死地に行かせたキリグが硬い声で訊ね、彼が魔物の群れに呑まれるのを最後まで見ていたフィムルは、顔を蒼白にしながら頷いた。ムーディルの犠牲を使って稼いだ距離を、さらに離すべく走り続ける第一歩兵隊の兵士たち。キリグに担がれた状態のフィムルは、戦場で起きる僅かな動きも見逃すまい、と魔物の群れを見据え続ける。第一歩兵隊に大きく押し込まれた魔物の群れは、いまだに混乱の坩堝にある。そしてバラバラに動く彼らは騎兵隊のいい的だった。次々と剣や槍によって葬られていく魔物たち。だが、馬上にいる彼らの剣は低い位置にいるキュリエやキュリエルには届かない。溶解液を浴びた馬が悲鳴を上げて倒れる。
(来い……このまま放っておけば、ここから戦線が瓦解するぞ……)
第一歩兵隊はそれでも追いすがってくる魔物たちと交戦中だ。キリグにおろしてもらい、フィムルは魔物の本隊の方向を見据える。キリグもギリーもコムも周囲の魔物と戦い、着実にその息の根を止めていった。魔物たちはもはや部隊としては動いていないので、囲まれる心配もなく、実力で勝る第一歩兵隊の兵士がジリジリと片付けていく。その向こうでは騎兵隊が犠牲を出しながらも、第一歩兵隊がこじ開けた穴を広げている。
指示がないため、魔物は混乱しっぱなしだ。誰かが立て直さないと――
観察するフィムルの瞳が、魔力の胎動を捉えた。フィムルは多くの魔力を持たないが、極限まで集中することで、魔力を使って視力を強化していたため、その魔力の流れを捉えることができたのだ。
はるか遠方より飛来した魔力が、ほとんど崩しかけていた魔物の集団に着弾する。フィムル以外の人間は気づかなかっただろうが、その魔力が当たった瞬間、魔物たちが何かに気づいたかのように退き始める。引きずり出して分断、殲滅していたのに、第一歩兵隊から離れ、騎兵隊に背後から襲いかかり合流を図る魔物たち。
(まずい……その可能性は、考えてなかった……!)
「キリグ隊長!」
「なんだ、フィムル!」
「敵の指揮官を見つけました……! ですが、奴は森の中です!」
フィムルの視線は、かなり遠くにある未踏破の森――シュトウルの森に向けられていた。
† † † †
「ちっ、なんなんだあいつらは」
十数体のオークを蹴散らしたあの部隊は、危険だ。手元にいる魔物を向かわせるかどうか迷うが、それはやめる。ここで待機している魔物は手懐けた魔物のなかでも最強であり、万が一今の『指揮』で気づかれた場合の保険として残しておく必要がある。自分から見てもオーガとトロルが肩を並べて戦っている光景は異常だ。指揮官がいることに気づくのはさほど難しいことではないだろう。
「だが……もう遅い。そろそろ、決壊するころだ。行け!」
逃走用に残していたワイバーンのうち、ニ体をけしかける。念のため三体残しておいたが、一体もいれば大丈夫だろう。先程から確認する限り、弓兵と魔法兵は前線に出てきていない。砦に縛り付けるためにほとんどのワイバーンを砦に向かわせたが、それでもこちらを優先して魔法兵を出してくる可能性はあった。だが現状、魔法兵も弓兵も全てを砦に置いてきたようだ。それならば、ワイバーンを複数取っておく必要はない。
小さく鳴いたワイバーンが、連れ立って戦場に飛んでいく。歩兵と騎兵しかいないあそこでは、ワイバーンに対する有効手段はない。降りてきたところを攻撃するくらいだが、そんなことをできる人間は多くはない。
「つまり、これで終わりってことだ」
森の端で、人影が嗤う。その脇には、ワイバーンともう一つの人影があった。
† † † †
森を注視していたフィムルは、背筋が冷えるのを感じた。さきほど魔力が飛んできたあたりから、さらにニ体のワイバーンが現れたのだ。
「キリグ隊長、あれを!」
「あん?」
キリグもそれを確認し、絶句する。かなりのスピードでこちらに飛んでくる二つの影。ただでさえかなり押されている現状で、ニ体ものワイバーンが戦線に加われば、こちらの戦線は瓦解するだろう。瓦解させないためには、第一歩兵隊が戦線維持に回るしかないが、そうすれば指揮官を倒すことができずにジリ貧は確定。
砦への道を塞いでいる戦線を援護するか。
それとも、この事態を引き起こしているであろう指揮官の下に向かうか。
キリグが数秒迷う。それは、直感を信じるキリグには珍しいことだった。理性では指揮官を倒しに行くべきだと言っているが、直感がそれを否定する。今までは直感を信じればよかったが、直感でも指揮官を倒さねば事態は解決しないと告げている。
直感の意見が食い違う。こんなことは初めてだった。
「キリグ。やりたいほうにしなさい」
「……ギリー」
「あなたが行く道に着いていきます。だからほら、迷うなんて頭を使う作業はやめてください。正直似合いません」
「……はっはっは! いいな、それ! よし! ネチモ、イルミナ!」
「なんだ、隊長!」
「なんでしょうか!」
「指揮を任せる! トロルを食い止めろ!」
「隊長達はどうするんで!?」
叫ぶように返した鎖鎌の男に、キリグは迷いを振り払った凄絶な笑みを浮かべた。
「ちょおっと、敵の大将潰してくる!」
「……ご達者で!」
ネチモは何かを聞きたいような顔をしたが、状況をを重く見たのか、質問はしなかった。先程から周囲で戦っている第一歩兵隊の兵士を集めると、隊列を組む。キリグの大声はかなり響いたので、第一歩兵隊の動きに淀みはない。
彼らは知っているのだ。戦場という場所で、油断は死に直結することを。だからこそ、知恵を、武器を、戦術を磨く。集団戦闘において、人間を上回る種族はこの大陸には存在しない。
「んじゃま、あそこ突っ切って戦線に乱入後三人ひと組で散開、各々トロールを食い止めろ。できれば殺せ」
「了解!」
「細かい指示は私が出しますわ。存分に力を振るいましょう!」
頷きをかわした第一歩兵隊の兵士たちは四人を残して戦場に舞い戻った。彼らはこれから、終わりの見えない厳しい戦場を生きることになる。だが、それは誰もが同じだ。
おそらく、指揮官を倒しに行く彼らも。
「コム。あのワイバーン、殺せますか?」
こちらに飛んでくるワイバーンを見据えて、ギリーが問う。
コムは携えたショートソードに手を添えて、不敵に笑った。
「――やれますよ」
「よし。じゃあ、一頭は任せます」
頷いたギリーは足元にある石をいくつか拾い、握り締める。ドクン、と脈動する自分の魔力を石が砕け飛ぶ限界まで注ぎ込む。その隣でショートソードを構えたコムは、タイミングを図るように目を細め、魔力を練り上げながら魔法言語を紡いでいた。
「行かせるわけにはいきません。コム、倒せなくても絶対に飛行能力は奪いなさい」
「殺せるって言ったぜ、俺は! 『世界を旅する風よ 我が声に応え、集え、渦巻け』!」
息を止めてその様子を見つめるフィムルでも、何が起きたか一瞬わからなかった。目で追えないほどの速度で振り下ろされたギリーの右手から、凄まじい勢いで石が放たれる。魔力を注ぎ込まれて硬度を増した石の弾丸は、正確に一頭のワイバーンの翼を撃ち抜いた。飛行能力を失ったワイバーンは、耳障りな鳴き声を上げながら墜落していく。低空を飛行していたため死ぬことはないだろうが、これで一方的に空から攻撃されることはなくなった。
「『風よ! その力強き流れで我が体を運べ』!」
続いて、コムの魔法が完成する。コムに、この場で新しく魔法を編むような才能はない。よって、彼が行使した魔法はかつて使ったことのある魔法。
足元で風の塊を暴発させ、自身の体を上空に吹き飛ばす魔法だ。本来、狙った場所に魔法を飛ばすにはかなり慎重に軌道を計算しなければならないのだが、根っからの感覚派であるコムは、それを感覚で完成させた。
風の魔法による人間砲弾。
「っらああああああああああああああああ!!」
声は尾を引き、剣を前方に構えたコムが、まっすぐに残ったワイバーンに突っ込んでいく。寸前でワイバーンも気付いたが、急には方向を変えられない。自分の体に突っ込んでくる小さな生き物を驚愕の瞳で見つめることしかできなかった。
斜め下から飛来したコムは、ワイバーンの脇腹にそのショートソードを突き刺した。反動で右手首に激痛が走るが、無視する。恐ろしいことに巨体であるワイバーンの体はコムの勢いに押され、僅かに浮いた。その隙にコムは深々と刺さった剣を諦め、手を離す。魔力を足に巡らせ、墜落しつつあるワイバーンを蹴って大きく跳んだ。ワイバーンの絶命の絶叫を心地よく聞きながら、コムは更に魔力を編んで魔法の準備をする。このままだと自分も墜落死する。風の魔法で着地の衝撃を和らげ、コムはキリグたちより森に近い地面に着地した。それを強化した視力で見ていたフィムルの誘導によって、三人と合流する。
「なっ、殺せるって言ったろ?」
「……正直、自分の弟子が人間なのかわからなくなりましたよ」
並の神経ではない、とギリーは目の前で呑気に笑う弟子にため息を浴びせた。そんな二人のあまりの異常な戦力に苦笑するキリグとフィムルだったが、すぐに真面目な表情で森を見据える。なんとかワイバーンを止めることはできたが、それは結局応急処置に過ぎない。根本を絶たねばならないのだ。
四人の不安を煽るように、森の梢が風でざわめいた。




