歩兵は戦場で惑う
フィムルは怯えていた。それはもう、今すぐこの場から逃げ出したいほどに。だが逃げ出すのは許されない。敵前逃亡は重罪であるというのはわかっているし――なにより、ここで逃げ出してもフィムルにはどうすることもできない。
今日は、一人の兵士の悲鳴で目覚めた。ワイバーンだ、という叫びでフィムルは何が起きたかを理解した。魔物の襲撃だ。その直後に聞こえた兵士の断末魔は、今でも耳にこびりついて離れそうもない。周囲の流れに流されるままに革鎧を着込み、緊急用に保管されている剣を取り、部屋にある荷物全てを持って(といっても大した量ではないが)砦の外に整列した。
実戦だ。
久しぶり、というほどではない。この前の偵察任務だって立派な実戦だったし、そもそも自分は戦うためにここに来た。それなのに、体は震える。
武者震いか。否、フィムルにはわかっていた。それが恐怖と怯えから来るものであることを。普通の兵士ならば考えることはない戦況、というものを冷静にフィムルは予想してしまっていた。すなわち、かなり絶望的であると。いかにキリグやギリーが尋常でない戦士だったとしても、戦争は基本的に数で決まる。数で劣る魔物を十数人で囲って殺すのが人間の、人類のやり方だ。
だが、その数の利が覆されたら? 例えば、そう、目の前の魔物のように魔物が隊列を組んで数を当ててきたら――。
フィムルは、現状を誰よりも正確に把握していた。
二十匹以上からなるワイバーンの群れに、トロルやオークなどの混成部隊。それが、約二百。地面を埋め尽くすほどのキュリエなど初めて見た。勝てるとは思えない。
「俺たちは――俺たちの生きる場所に、帰って来たぞ!」
ここは、地獄だ。不安げにキリグを見上げたフィムルだったが、キリグは不敵な笑みを浮かべるのみ。そこに敗北を確信させるような絶望的な要素はなかったが、勝利を確信できるような要素もまた、存在しなかった。キリグの圧倒的なまでの人望と指揮能力でも、フィムルの不安を晴らすことはできなかったのだ。
「行くぞ! 第一歩兵隊の力を見せろ! 突撃!」
瞬間、周囲の熱狂的な空気が前に進み、フィムルはそれに押されるように前に進んだ。
「フィムル、コム、離れるなよ」
「……え」
キリグの呟きと同時、魔物側からも咆哮が響いた。あれも鬨の声ということなのだろう。それにかき消されないようにキリグは、丁寧に声に響きを持たせてフィムルとコムに語りかけた。
「いいか、コム。あの魔物の軍勢は異様だ。なんとしても王都に伝えねばならん。だから、負けそうになったら全力で逃げろ。フィムルは俺がなんとしても守る」
「フィムルも一緒に王都に……」
「ダメだ。お前一人ならワイバーンを抜けられるが、フィムルではな。おそらくあのワイバーンは一人も人間を逃がさないつもりで背後に回ったんだろう」
「キリグ隊長とギリー副官は……?」
「指揮官を探してぶっ潰す。フィムル、お前の観察眼で怪しいところを探し出せ。これだけの魔物を統制してるんだ、どこかに魔導士がいるはずだ。人間じゃないかもしれないがな」
キリグは人間ではないことを確信しているかのように、自信に満ちた表情で告げた。確かにこれだけの数の魔物を操るのは、人間では不可能だ。それに特にメリットもない。
「指揮官さえ潰せば、同士討ちを始める可能性が高いかと。なにせトロルもオークも仲が悪いですからね」
肩をすくめて告げたギリー。すでに砦の方では魔法兵と弓兵によるワイバーンの迎撃が行われており、ちょうど巨大な氷塊が砦上部に出現したところだった。それを見て湧き上がる歓声に、鼓膜を揺さぶられながらフィムルは必死に己の役割を認識した。
あの魔物の群れのなかから指揮官を見つけ出す。道中の魔物と戦いながら。
それは、不可能と言ってもいい難易度だった。
「この数じゃ、正攻法じゃどうやったって負ける。指揮官を叩くしかないんだ、フィムル」
その言葉が、反駁しようとしたフィムルの口を塞いだ。
「信じてるぜ、フィムル! 途中の魔物は任せろ!」
「やって見せてください。期待していますよ」
「それまでは俺たちが守る。見つけたらすぐに教えろ、四人で叩き潰してやる」
親指を立てて、満面の笑みでコムが言い。ギリーが眼鏡を持ち上げ、『期待している』の部分は小声で。ギリーは豪快に、だがその表情の裏に焦りと不安を滲ませ、告げた。
「やって、みます。……やります!」
フィムルの覚悟は決まった。
(指揮官がいる場所なら、強い魔物がいたり密度が濃かったりするはず……)
そう考えたフィムルは全体を注意深く眺めてみるが、魔物の群れは一定の動きで動き続けていて、特に分厚い部分や精鋭そうな部分は見つからない。数体いるオーガやトロルも決して固まらずバラバラに配置されているのだ。それは集中運用するのとバラバラに動かすのがどちらがいいか、というのはかなり意見が分かれるところではあるが。固まっていればそこに指揮官がいると予想することもできるが、そういうわけでもないようだ。
「第一歩兵隊以外の歩兵隊は前衛で敵を食い止めろ! 騎兵隊及び第一歩兵隊は敵の脆い部分に突貫し、敵を崩せ!」
リテドルの指示に従い、兵士たちが動き出した。月に二回しかない全体訓練でやったとおりに、各歩兵隊の隊長が彼らに指示を出す。
「どこ……どこだ……」
フィムルは首から下げたキリグの私物である双眼鏡を覗き込み、それで敵軍を観察する。この双眼鏡は一種の魔法道具であり、ピントを自動で調節して拡大表示してくれるスグレモノである。好事家に売れば相当な高値がつくことは間違いないのだが、生死がかかっているフィムルはそんなことに気を遣っている余裕はなかった。
「……隠れてるのか」
やがてフィムルは一つの結論に達した。あの魔物の軍勢の指揮官は賢い。何も指示を出さずとも魔物を使役する方法があるのなら――自分は一兵卒の振りをすればいいだけだ。だがそれでも自分の戦闘能力に自信がなければ、軍勢の後背に構えるはず。さらにフィムルは軍勢の中で体が大きい個体を探してみるが、特にそういった魔物は発見できなかった。
(突然変異種は、体色が違ったり体格が大きくなるって、あの巻物には書いてあったけど……)
シュトウルの森に関する情報を集めたあの巻物には、魔物の生態の多くが書いてあった。魔物の多くが通常の生物から生まれた突然変異種であると予想されること。その中でも種として定着したものに種族名をつけること。なかにはエルフやドワーフなどといった亜人族並に文明を築く種類も存在すること。
そしてごくまれにそういった群れを作る魔物の中から、突出した力を持つ個体が生まれること――。
その情報をもとに体格の大きい魔物を探してみたのだが、そう上手くはいかないようだ。どれもこれも似たりよったりの体格をしている。あの魔物の群れの中で最も大きいのはオーガだが、一番大きいオーガでも四メルトほど。ミューテイションなら六メルトを超える魔物になるはずだ。
「キリグ隊長。申し訳ありませんが、指揮官を見つけることはできませんでした」
「おう。それで?」
「一回ぶつかってください。それで相手が崩れたら、立て直すために指示が出るはずです。そうしたら、その発信源を突き止めます」
やるべきことを見つけたフィムルの思考が冴えていく。恐怖と怯えに覆われていた思考回路が、砦最高の三人の戦士の保護を認識して晴れ渡っていく。
(定石で考えるならば指揮官は一番後ろ。ならば背後に回って……というのも難しいか。連携を取りにくくなっては意味がない。それに背後にはおそらく騎兵隊が回るだろう。なら、機動力で劣るこの隊が取る行動は……)
「キリグ隊長、騎兵隊が突っ込んだあとに、ワンテンポ遅らせて突っ込んでください」
「どういうことだ?」
「あのキュリエの群れ、おそらくキュリエルもいるはずです。そうなれば騎兵隊は深くは切り込めません、馬がダメになりますから。その点、溶解液も回避できるこの隊の人間なら、少々遅れてでも混乱しているところに入って混乱を広げるべきです」
「おう! よくわからんが、わかった!」
力強く拳を合わせるキリグには目もくれず、フィムルは必死に敵陣営の動きを観察し続ける。
ドスドスと歩いてくるトロル。
醜悪な顔をしたオーク。
張り詰めた筋肉を解放したがっているオーガ。
今でも、奴らに勝てる気はしない。だが、もう気にする必要はないのだ。
倒すのは、一人でいいのだから。指揮官さえ倒せばあとはなんとでもなる。先ほどまでは冷静さを失って気づきもしなかったが、本来トロルやオーガがともに行動することはないのだ。この異常な事態の元凶さえなんとかしてしまえば、トロルとオーガ、オークは餌をめぐって争い出すだろう。弱ったところを叩けばいい。オーガも何十体ものオークを一度に相手できるわけはないのだから。
「絶対に見つけてやる……!」
無意識に魔力を使用し、視力を強化するフィムル。会敵まで、あと約一時間。
† † † †
(くそっ……!)
見つからない。あっという間に一時間は過ぎ、気づけばすでに魔物の軍勢は目と鼻の先だった。歩兵隊が砦への道を塞ぎ、交戦し、左右から騎兵隊と第一歩兵隊が切り崩すため、第一歩兵隊は軍の右、右翼に配置されていた。さらにその外側には第二騎兵隊が待機している。
魔物の足音が聞こえてくる。この距離になったというのに、魔物の怒声や吠え声は聞こえてこない。不気味なほど静かな魔物の軍勢は、自然と見る者に畏怖を抱かせた。そして、フィムルに指揮官の存在を確信させた。
「ありえない。魔物が自主的に軍を作るなんてことは、絶対にありえない……だから、どこかに指揮官がいる……」
静かに呟き、目を凝らすのをやめる。よっぽど上手く偽装しているのか、いくら探しても隊列に乱れや分厚いところは見つからない。というよりも隊列もなにもなく、ひとかたまりになって進んでいるだけだ。ただ黙って黙々と砦を目指す魔物の軍勢。
このまま探っていても見つけるのは難しいと判断したフィムルは、集中力を温存させておくことに決めた。違和感を探すのではなく、ただぼんやりと魔物の群れを眺めて観察する。それだけでも相当楽になった。
「中央付近にトロルやオーガ……トロルのほうが前方よりか。周囲を囲んでるキュリエとキュリエルが厄介かな……」
ぼそぼそと呟きながら相手の配置の意味を考える。再生力に優れるトロルで相手を消耗させ、決定力のあるオーガを温存するつもりだろう。その点あふれるほどいるキュリエとキュリエルも消耗させる役割か、もしくは数合わせだろう。それだけでも十分に厄介ではあるが。
「全軍停止! 陣を組めぇ!」
リテドルによる通達が全軍に行き届き、事前に隊長格が知らされていたとおりに半円状の陣を作る。右翼と左翼が若干前に出ており、このまま直進するようならば中央の歩兵隊が進撃を止め、左右の翼が中央に切れ込む形だ。
「キュリエ程度なら問題ないと思うけど……トロルが来たら厳しそうだな……」
それが、正直なフィムルの予想だった。トロルが四体ほど……いや、三体も来れば中央の歩兵隊は瓦解するだろう。だからこそ、第一歩兵隊と騎兵隊は中央に切り込み、危険な魔物を倒さねばならない。そしてその『軍としての仕事』に追加して、この戦争に勝利するための『勝利への行動』を行わなければならない。端的に言って、難易度はけた違いだ。
だがやらねばならない。
(エミル……)
フィムルはちらりと後ろを振り返った。かなり遠くなってしまった砦の上空は、今は静かである。先ほどまで飛んでいたワイバーンも、今は砦の背後で距離をとっているらしい。
「やるしか、ない」
フィムルは改めて目の前の魔物の軍勢に目をやる。互いの軍の先頭に開いた距離は、約三百メリト。無いに等しい。
「頼んだぞ、フィムル」
魔物から視線を離さず、キリグが告げる。
「やります。必ず、見つけます」
やるべきことを見つけたフィムルの視線は、鋭く魔物の軍勢を見据えていた。




