歩兵は戦場で叫ぶ
その日、フィムルは怒号と轟音で目を覚ました。フィムルにとって最悪の一日が、幕を開けたのだ。
――ワイバーンだ!
という悲鳴は、いったい誰の物だったか。おそらくは見張りについていた運の悪い兵士だろう。直後、凄まじいまでの絶叫が響き渡り、唐突にその声が途切れる。砦の中は騒然としていた。当然だろう。ワイバーンの襲撃など滅多にあるものではない……少なくとも、ここ二十年ほどでは見たことがない。だがこの砦には多くの人間と、少数ながら魔導士も所属している。ワイバーンといえども、その圧倒的な物量の前では生き残ることはできないはずだった。
相手もまた、物量で襲いかかってきていなければ。
「報告、します! ワイバーンの群れが……! 総数、およそ二十!」
「兵を全員叩き起こせ! 第一から第四の歩兵隊は編成が出来次第砦の外へ! 残りの歩兵隊は砦の上部で魔法兵と弓兵の援護! 騎兵隊は外で万が一の事態に備えよ!」
「了解!」
矢継ぎ早に指示がくだされる。何かが起こるだろう、と予測していたリテドルにも、これは予想の範囲外だった。二十頭のワイバーンの群れなど、生半可な街ならば落としかねない戦力だ。王都ならばまた話は別だが、この砦に守護結界などという上等な物はない。
だが、リテドルはまだ油断していた。ワイバーン二十頭ともなると、看過できないレベルでの被害は出るだろうが、この砦が落ちることはない、と。実際それは事実でもあった。魔法兵は強力で、ワイバーンを空中で殲滅することもできるし、殲滅せずとも叩き落としてしまえばあとは下にいる歩兵や騎兵の数の暴力でなんとでもなる。
「トレーヤイ! 防空の指揮を任せる!」
「了解っ! ほらさっさと行くぞ! グズグズするな!」
邪教徒のような格好をした老人が、まごついている若い魔法兵の尻を蹴飛ばした。蹴られた魔法兵は尻を抑えながらトレーヤイと一緒に砦の上部へ向かう。魔法兵には独自の連絡手段があるため、軍としての動きは半端ではない。短距離なら魔力による通話手段があるのだ。さすがに、長距離は通話はできないが。
『全員起きろ! ワイバーンの襲撃だ、砦上部に集合! 私は先に行く!』
馬鹿げた音量で放たれた通話魔法に、受け取った魔法兵は思わず頭を抑えた。ちなみに、この通話魔法はお互いに登録した人間にしか送れないので攻撃に転用することはできない。無差別に発信してしまうと例えば敵国と戦争中に作戦内容が筒抜けになってしまうので、ある意味当然の措置と言えるだろう。
それはともかく、魔法兵は空を飛ぶ生き物に対して、有効な攻撃手段を持つ数少ない人間である。魔法という神秘を駆使する彼らは、防空戦闘において弓兵よりも圧倒的な力を発揮する。
「ワイバーンの群れ……凄まじいな!」
砦の屋上部分に到着したトレーヤイは、視界に入ったその光景に目を疑った。知性を持たない亜竜種とはいえ、その体格は完全に竜のものだ。重々しく空を飛ぶ龍種とは違い、ワイバーンは軽々と空を飛ぶ。機動力に優れるワイバーンは、龍種に比べると防御が弱い。生半可な魔法や弓は、もちろん通さないが。
「『風よ』!」
こちらに襲いかかろうとしたワイバーンの体勢が崩れる。空を飛んでいるワイバーンに取って気流の変化は致命傷になりうる。
「『炎よ』!」
続けて、連れてこられた魔導士の若者から爆炎が放たれる。体勢を崩していたワイバーンはそれをよけられず、真っ赤な炎は頭に直撃して爆発した。その衝撃に頭を揺さぶられたワイバーンはきりもみしながら地面に落ちていく。勢いよく地面に墜落するワイバーンだったが、頑丈な鱗の恩恵で死に至るほどではなかった。しかし、地面にはキリグやギリーをはじめとする猛者がおり、落ちてきたワイバーンにとどめを刺す。
「まずは一匹!」
トレーヤイは使役魔たちと意思疎通を行い、現状何匹のワイバーンがいるのかを確認した。その数、二十二匹。一匹は仕留めたから二十一匹か、とトレーヤイが改めてその数の多さに驚嘆する。二十二匹のワイバーンの群れなど、見たことも聞いたこともなかった。
「ある意味、ここが最高の死に場所かもしれんな!」
無詠唱で魔法を起動させ、両手から豪風を放つ。制御が甘いため、片方は外してしまったが、精密な狙いをつけなくてもバランスを崩させるだけならばこれで十分と判断したのだ。その読みは的中し、二頭のワイバーンが体勢を崩すが、連れの魔法兵に二頭を狙い打つ技術はなかった。なんとか一頭に火球をぶつけて地面に落とす。今度は当たり所が悪かったのか、それでワイバーンは動かなくなった。
しかしトレーヤイと魔法兵がワイバーンを落としているあいだにも弓兵や見張りの歩兵は次々とワイバーンに殺されていく。むしろ、魔法を放つ時間を稼がせてもらっていると言った方がよかった。
「うわあああ!」
「ちっ!」
また一人、弓兵がワイバーンに噛み付かれる。空に連れて行かれてしまえば、死は免れない。ワイバーンに食われるか、地面に落ちて死ぬかの違いだけである。
「『凍てつく世界よ! 生命を拒絶する厳格なる者よ! 身命を賭して閉ざせ!』」
「『凍氷箱』!」
トレーヤイの舌打ちと同時、聞きなれた声での高速詠唱が聞こえてきた。発動場所は、砦の上部を覆う箱の形。詠唱の完了と同時、冷気が周囲を包み込む。イエリによる防御魔法が発動したのだ。三匹ほどは細かな調整ができずに内側へ一緒に閉じ込めてしまったが、いまや砦の上部は氷の壁がワイバーンを切り離している状況だ。さらに変温動物であるワイバーンは体を急激に冷やされ、動きが鈍くなった。今まで見たことがないほどの大規模な魔法行使に、兵士たちが歓声をあげる。
「おお、バカ弟子! 珍しくよくやった!」
「はっ……はぁっ……! 師匠は、相変わらず、口悪いですね!」
「『炎/穿て/回れ/貫け/風よ/分裂/飛翔/突き抜けろ』!」
突然周囲を氷で囲まれたワイバーンが混乱している隙に、イエリとともに来たエミルが更なる魔法を織り上げる。イエリは、大規模魔法に一気に魔力を持って行かれ、すぐには魔法の使用ができない。エミルがここに来るまでにイメージした通りの魔法が、周囲に浮かび上がる。
エミルの周りに、九つの火球が浮かんだ。
「『炎弾』っ!」
球体の炎が、矢のように細く絞られる。それがそれぞれ三発ずつワイバーンに向かい、さらにそこから二つに分かれる。風の後押しを受けて、さらに回転することで貫通力を増した炎の弾丸がワイバーンの体を貫通する。鎧となる鱗も筋肉も炎が溶かして喰い破り、体内を焼き尽くして突き抜けた。
エミルはそれを確認すると、氷の箱にぶつからないように魔力を散らして魔法を解除する。魔法の中途解除も、高等技術の一つだ。それをたやすくやって見せた少女に、イエリとトレーヤイは驚嘆の目を向ける。今放たれた魔法も相当に高度な想像力が必要になる魔法だ。ここに来るまでに何度も想像を繰り返していたからこそ即座に発動できたのだろう。
「凄まじい才能、というわけ……っ!?」
静かに感嘆していたトレーヤイの耳に、かすかな声が届いた。それは砦の外で情報収集に当たらせている使役魔の一体からの緊急連絡だった。トレーヤイは目を閉じると、その一体と視界を同調させた。現状氷の壁が砦の上部を覆っている以上、外の状況を知るにはそうするしかない。
「なにはともあれ師匠。凍氷箱で時間を稼いで――」
「イエリ! 私が合図したら氷の壁を解除しろ! 魔法兵! 全員最も得意な範囲魔法を準備しろ!」
「えっ」
驚きの声を漏らすイエリを尻目に、トレーヤイは精神集中に入る。階段から続々と現れる魔法兵たちも、混乱しながらも敬愛するトレーヤイの指示に従う。
「いいか、お前ら。目標は荒野を渡ってくる大量の魔物だ。ビビるなよ!」
トレーヤイのもう一つの視界には、地を覆い尽くさんとばかりに迫ってくる、魔物の大群が映っていた。ワイバーンの群れに、これだけの量の魔物。伝説を思い出すような状況に、トレーヤイは不敵に微笑む。
――今日こそ、私は死ぬことができるかもしれない。
密かな決意を胸に、トレーヤイは鋭く氷の壁の向こう側を見据えた。
† † † †
第一歩兵隊にも、その異常は感じ取れた。いきなり砦の上部が氷の壁で覆われた時は驚いたが、空を飛んでいたワイバーンはしばらくその場で羽ばたいていたかと思うと、砦の反対側に回って次々と地面に降りていった。そちら側には騎兵隊が急行している。この砦を無視して近隣の街に行かれると非常に迷惑だったが、幸いそうはなっていないようだ。キリグは冷静に戦況を分析する。
魔法兵が集いつつある以上、ワイバーンに勝ち目はない。なんの目的があって砦の向こう側に降りたのかはわからないが、騎兵隊が向かった以上心配しても仕方がない。
「とりあえず、前か」
ワイバーンが反対側に向かったことで歩兵隊はやることがなくなってしまった。あの氷の箱の内側では魔法兵たちが準備をしているのだろうが、落ちてきたワイバーンには全て止めを刺した。なにも問題はない――はずだが、悪寒を抑えられない。
キリグはその悪寒につられるように、『シュトウルの森』の方角を見据えた。はるか遠くにあるはずの森から凄まじいまでのプレッシャーを感じる。歩兵たちも不穏な空気を感じ取ってるのか、どことなく浮き足立っている。ワイバーンの群れの襲撃という一大事から一転、やることがなくなってしまったのだからある意味当然と言えるだろう。
「キリグ隊長……」
「む、フィムルか。どうした?」
怯えたように森の方角を見る少年に、キリグは気軽に声をかけた。キリグにとって悪寒は歓迎すべきものだ。その感覚が強ければ強いほど、地獄のような戦場が待っている可能性が高い。だが、まだ修羅場を経験したことなどないであろう少年に、その心構えを持てというのは少々以上に酷な話である。ゆえにキリグは、フィムルの耳元に口を寄せて何事かを囁く。それを聞いたフィムルは驚いたように目を見開いたあと、恥ずかしがって下を向いた。キリグにとってはそれで十分だった。
それで十分、戦える。
「第一歩兵隊、戦闘準備!!」
気付いた。荒野を進行してくる魔物の軍勢に。『耳目の賢者』はとっくに気づいていたのだろう。透き通るような破砕音とともにに氷の壁が砕け散る。日の光を浴びて光を跳ね返す氷のかけらたちを焼き尽くすように、魔法の嵐が放たれた。数こそ少ないものの、それは人間ならば確実に死に至るであろう殺意の塊だ。
炎の球が飛ぶ。氷の槍が飛ぶ。風の刃が飛ぶ。
ひときわ巨大な炎が飛んでいき、破壊と熱を周囲にばらまいた。考えるまでもなくトレーヤイの魔法だろう。それによって魔物の軍勢は少しひるんだようだが、相変わらずこちらに進撃してくる。ここで、キリグはワイバーンの意図に気付いた。
(誰かは知らねぇが、舐めてるみたいだな!)
包囲殲滅。逃げ出す敵を確実に仕留めるために、ワイバーンは砦の背後に回ったのだろう。だが甘い、そちらには騎兵隊が向かった。所詮魔物の考えること、とキリグは思考を切った。今はそれよりも目の前に迫った魔物の軍勢をどうするか、考えなければならなかった。
「総員戦闘準備! 第一歩兵隊は遊撃! キリグ、自由に動け!」
魔導具によって拡張された声が戦場に響き渡る。この砦の最高権力者でもあるリテドルが前線に出てきているのだ。士気は高い。キリグが見る限り、魔物の軍勢はおよそ三百。オーガとトロルが数体、オークやキュリエが大部分を占めている。
勝率は低い。この魔物を全員殺しきるのは不可能に近いだろう。そして、キリグとギリーがやることは決まっていた。
「オーガ、トロルを優先して潰しましょうや!」
「おう、最初からそのつもりだ! 野郎ども! 戦場だ! 俺たちは――俺たちの生きる場所に、帰って来たぞ!」
ネチモの言葉に大きく頷くと、キリグが大声を張り上げた。勝率は十分とは言えない、むしろ低いだろう。隣で青い顔をしているフィムルは、そのことがよくわかっている。だが、そんなことを考えていても仕方がないのだ。戦って、戦って、戦い抜く。キリグはそれしか、生き残る術を知らなかった。
そして、第一歩兵隊はそんなキリグが選抜したメンバーだ。死に場所を探し、その才能と能力を燻らせていた者達。砦の兵士から引き抜きされた者もいれば、キリグの人脈でかき集めた者まで。だが、彼らは完全にキリグを信頼していた。
地面を揺るがす魔物の足音に負けないほどに、第一歩兵隊から鬨の声があがった。絶望的な戦力差。こちらの方が人数が少ない上に、相手は魔物。キュリエだって無視していい魔物ではない。あいつらに飛びかかられてバランスを崩せば、それこそ致命的だろう。
キリグは何か見落としがないか、と迫りくる魔物の群れを見る。だがそこに期待したものも絶望するようなものもなく、魔物たちはゆっくりとこちらに迫ってきていた。
不安げにこちらを見上げたフィムルに、キリグは不敵に微笑んで見せた。




