歩兵はオーガを知る
遅くなりました。
ネチモは無手だ。小柄なオーガに向かったネチモは大きく地面を蹴ると、オーガの右腕をかわした。だが全力で放たれたはずの右腕は途中で止まり、いまだ中空にあるネチモを吹き飛ばすように横殴りに振るわれた。ネチモは寸前で両足をオーガの右足に向け、衝撃を吸収しながら森を吹き飛んでいく。先ほどからオーガが周囲の木々をなぎ倒していなければ、どこかの木に体をぶつけてそれで死んでいただろう。約二十メリトも吹き飛んだネチモは何事もなかったかのように着地すると、再びオーガに向けて走り出した。その超人的な動きに、フィムルは目を剥くことしかできない。
しかし、イルミナも負けてはいない。こちらは鬼のように降り注ぐオーガの攻撃を最低限の体捌きだけでかわしていた。左腕は使えないとしても、右腕と両足は健在である。丸太のように太い足から放たれる蹴りは、人間の体など容易に砕くだろう。一撃でも当たれば死、かすめるだけで致命傷。イルミナはそんな致死の一撃を、ただ純粋な体捌きだけでいなし、躱していく。
「すご、い……!」
フィムルは、ネチモとイルミナが第一歩兵隊の中でも精鋭に分類されることを知らなかった。純粋にその技術に感動するが、ネチモもイルミナも積極的に攻勢には出ない。オーガが一匹ならば行動力を封じて叩きのめせば殺せる自信があったが、二匹となると面倒だ。そのため、二人はより確実な手段を選んだのだ。その手段とは。
「待たせたな! ここからは俺に任せろ!」
「やれやれ、奇襲のチャンスが台無しですね」
第一歩兵隊が誇る、最強の二人。破壊力という点ではキリグをも上回るギリーと、力自慢でありながら技術も高いキリグ。二人は、オーガならば圧倒できるほどの力を持っていた。
「ギリーは小さい方な!」
「まあ、構いませんが。きちんと倒してくださいね」
「当然だ!」
キリグは大きく頷くと、戦斧を肩に担いで歩き出した。ゆったりと近づいた動きで大柄なオーガに近づくと、間発入れず戦斧を横薙ぎに振るう。筋肉の塊であるオーガでもその攻撃に恐怖を覚えたのか、当たる位置にあった右足を下げて躱した。
「ふんっ!」
オーガは即座に右手の棍棒を振り下ろすことで、目の前の男に応えた。人間にしては大柄で、先ほどのようにちょこまかと動き回ることもないだろうと考え、当てさえすれば絶対に殺す自信があった。それだけの力を自分は持っているし、先ほどからこの小さな生き物は避けるばかりで攻撃してこない。オーガは、負けることなど微塵も考えていなかった。
「試してみるか?」
重低音が周囲に響いた。木製の棍棒がキリグの持つ戦斧を殴りつけ、防がれたのだ。戦斧を持つキリグ自身は膝をつき、必死に耐えている様子だったが、そもそもオーガの振り下ろし攻撃を人の身で耐えることがおかしいのだ。
「ぐっ……ぉ、ぉぉおおおぉおおぉぉぉっ!!」
驚愕するオーガをよそに、キリグが雄叫びをあげる。全身の筋肉がギチギチと悲鳴をあげ、瞬間的に人の身では有り余る力を放出する。キリグが無意識に使用しているそれは、キリグが長年の戦いで編み出した一つの技術だ。魔力を用いて身体の強化を行う――理論こそ解明されていないものの、戦う者たちが経験的に知っている、技術。
瞬間的に増大した筋力で、棍棒を弾き飛ばす。オーガは先ほど以上の驚愕の表情を浮かべ、それが死に顔となった。跳ね上げた戦斧を、そのまま横に振るい、キリグはオーガを腰から切断したのだ。
「――はぁっ……!」
「相変わらず強引な戦い方ですね、隊長」
「ギリーのだって似たりよったりだろうが……」
フィムルが慌ててギリーが戦っていたオーガを見ると、そこにはオーガの上半身だけが転がっていた。苦悶の表情を浮かべているが、どうやら最後まで自分に何が起きたのかわかっていなかったようだ。ギリーの腰にはやや大振りのロングソードが吊り下げられているが、それが得物でないことはすぐにわかった。鞘に収められたままだからだ。
そして小柄なオーガの下半身は、いくら探しても見つからない。周囲には肉片と血が飛び散り――。
(まるで内側から弾け飛んだような……)
立ち込める血の匂いを嗅ぎながらも、フィムルは思考を続ける。そんなフィムルをよそに、気楽な様子でネチモがキリグに話しかけた。
「よぉ旦那。ヒッスとガインの野郎が先に逝っちまったぜ」
「……そうか。ご苦労、ネチモ。第一歩兵隊は全員の集合を待ってから再び探索に戻る。チームはあとで発表しよう。だがその前に、ギリー」
「はい。騎兵隊のもとに戻りオーガの出現を伝えてきます」
「よし、行け」
キリグが大きく頷くと、ギリーはあっという間に身を翻してすぐに姿が見えなくなった。それを満足げに見送ったキリグは、キョロキョロと周囲を見渡すように探すと、フィムルを呼んだ。
「な、なんでしょうか隊長」
「フィムル、この違和感はオーガが原因だと思うか?」
「……いえ、思いません」
言われて数秒考えるが、フィムルはそんなはずはないと断言した。オーガは確かに強力な魔物だし、この近辺では滅多に見ることができないレベルの魔物ではある。だがこの森の異様な静けさの説明にはならない。さらにフィムルは今気付いたことを理由に上乗せした。
「シニハンミョウが来ていないです」
「シニハンミョウ?」
「死体を漁る黒いちっちゃな虫のことです」
「ああ、“死肉漁り”か。確かにな……」
シニハンミョウ。肉食性の昆虫で、見た目は黒い小さな甲虫だ。こういった森を好んで地中に潜み、血の匂いを感じ取ると地表に現れ、死肉を食い荒らす森の掃除屋。どんな森にも住んでいる、普通の昆虫だ。奴らはずっと腹を空かせており、死体があれば即座に現れる。オーガの死体は今できたばかりだから来ていないのはまだわかるとしても――オーガに潰された兵士の死体に群がっていないのはおかしい。
「ヒッスとガインか……惜しい奴を亡くしたな。できれば持ち帰ってやりたいが」
遺体を持ち帰るような余裕はない。せめて遺品だけでも砦に持ち帰らねばならないし、オーガの討伐証明部位も必要だ。オーガの頭から生えている一本角を適当に二つとも折ったキリグは、もとの位置に戻ってきた。
「で、どう見る」
「どうとは……?」
「この森の違和感の原因だ。シニハンミョウやエリネイオンがいない理由、と言い換えてもいい」
それは、と呟いてフィムルが思考を開始する。エリネイオンの天敵は空の王者ワイバーンだが、全滅させるほど食べたりはしない。シニハンミョウに至っては天敵など存在しない。
ナニカを恐れて騒ぎ立てないと考えるのが普通――だが、エリネイオンはともかくシニハンミョウすらも本能的に恐れる存在とは一体何か。
「わかりません……でも、ろくなことじゃなさそうです」
「そうだな……」
フィムルは漠然とした不安を感じながら、キリグを見上げる。豊かなヒゲを蓄えた偉丈夫は、そのヒゲを弄りながら不敵に微笑んでいた。
† † † †
結局、偵察隊は帰投することになった。二人の死者、というのは長年平和だった砦に衝撃を与え、それが精鋭で謳われる第一歩兵隊の兵士であったことを、リテドルは重く見た。何らかの異変が森にあったとして、第一歩兵隊と第二騎兵隊をこんなところで失うわけにはいかない、という至極真っ当な判断であった。戦闘が少ないここでは熟練の兵士というのは得難い存在であり、やはり魔法兵をついて行かせるべきであったかとリテドルは悩む。
だが、熟練の兵士よりも圧倒的に魔法兵は貴重である。ワイバーンが砦を襲ってくる可能性がゼロではない以上、防空戦力として弓兵と魔法兵は砦に置いておく必要があったのだ。自分は最善を尽くした。突然現れたオーガ二匹を相手に、二人しか兵士を失わなかったのは、普通に考えれば誇らしいことだ。普通の歩兵隊なら一隊が全滅してもおかしくないほど、オーガという魔物は脅威なのだから。
「これも、キリグとギリーのおかげか……」
過剰戦力とも言える二人組。とある縁から紹介された二人は、戦闘力もセンスも申し分なかった。『規律』を重んじる軍隊において彼らの『強さ』を重要視する姿勢は浮いてこそいるものの、兵士から見ればこれほどわかりやすい目標もない。隊の隊長たるものただ強ければいいというわけではないが、キリグはその点、人望も申し分なかった。残念ながら副官であるギリーは人望はあまりない。代わりにギリーには目的を明確にし、やるべきことを間違えないという美点がある。
「しかし今回、違和感ばかりが残るな……トレーヤイに少し見解を聞いてみるか」
「お呼びしましたかな」
突然扉の前から聞こえてきた声に、リテドルはびくりと肩を震わせた。この砦ではリテドル自身が嫌いなところもあって、規律はそこまで厳しくはない。兵士には上官に逆らわないようにきっちりと教育を施しているものの、ある一定以上の地位になると割と自由に砦の中を歩き回れるし、顔パスも、まあ、ある。あまり良いことではないが、と内心ため息をつきながら彼に話しかける。
「今ちょうど話を聞きたいと思っていたところだ。入れ、トレーヤイ」
扉を開けて入ってきたのは不審者だった。
白い豊かなヒゲはともかく、全身を覆うボロ臭いローブが彼の体から放たれる魔力の力を台無しにしている。誰がどう見ても邪教徒の姿をした老人――それが、この砦一の魔法士、トレーヤイだ。
「リテドル閣下においてはご機嫌……」
「相変わらず辛気臭い格好だな、トレーヤイ……で、その格好でごまをするのはやめろ。完全に邪教徒にしか見えん」
「かかか、それもそうだ。で、なんの話かの」
ボロいローブを身につけているため勘違いされやすいが、トレーヤイの性格は闊達な老人そのものだ。この格好からトレーヤイを侮った魔法兵の新兵がボコボコにされるのはいつものことである。彼も好き好んでボロいローブを着ているわけではなく、このフードは【霊王のコート】という一品ものの魔具なのだ。着ていると着用者の魔力操作を補助し、いくつかの特定の魔法ならば威力を強化できるというスグレモノ。魔法士ならばいくら積んででも欲しい一品であり、砦にくる前の過去に何度か盗難されかけたのでトレーヤイは盗まれないように常に身につけているのだ。
「森の表層でオーガが出た。意見を聞きたい」
「――ほう」
のほほんとした表情から一転、トレーヤイの眼光が鋭くなる。三十人近い魔法兵を束ね、七十年近い歳月を生き続けてきた老人の眼光が、リテドルを射抜く。だがリテドルも貴族相手に腹芸を重ね、軍学校で鍛え上げた肝を持つ軍人である。威圧に怯まず、まっすぐトレーヤイを見返した。
「これは、確認だが。ワシをこの砦に迎え入れるための約定を覚えておるな?」
「ああ。一つ、最高の待遇で迎え入れ、後進を育てる環境を提供すること」
「二つ、決してつまらない男に成り下がらないこと」
「三つ、可能ならば、華々しく散らせること――最後はともかく前者二つは守っているぞ」
「どうだかな」
フン、と鼻を鳴らしたトレーヤイは、今度は質問するために口を開いた。
「オーガが出たといったな。被害は?」
「第一歩兵隊の二人が死亡、偵察隊は帰還させた」
「ふむ。オーガ一匹に二人か、まあまあだな。さすがは第一歩兵隊とでも言っておこうか」
「トレーヤイ、オーガは二匹出た」
「……なに? オーガが同じ場所に二匹だと……? ありえない話ではないが、珍しいこともあるものだ」
「過去にもあったのか?」
「この森ではないがな。その時は確か、縄張り争いで敗れた者同士が一緒にいたという結論になった」
「今回がそのケースだと……」
「ああ、はぐれ個体だな。だがそのオーガよりも強いオーガがいることになるから油断はできない」
トレーヤイは静かに目を閉じ、何事かを呟いた。その声はとても小さく、リテドルも聞き取ることはできなかったが、それだけで目の前の魔法士は何かを掴んだようだ。
「なるほどな」
「何かわかったのか?」
「いや――さっぱりわからない、ということがわかった」
きっぱりと自信満々に言い切ったトレーヤイを、リテドルが半眼で睨みつけた。
「【耳目の賢者】もこの程度か……」
「おい若造、お前がワシをその名前で呼ぶなら、ワシはお前のことを【王都に現れた野獣】と呼ばねばならんぞ」
「若気の至りです、ご自由にどうぞ」
「【女食いの獣】、確かにワシは何もわからなかった。だが【夜の獣】が言うとおり、ワシは【耳目の賢者】だ。この世界のあらゆる事象、特に魔物に関してはそこらの研究家より知識がある。そのワシが『耳目』を駆使してまで『わからない』と言ったことに意味があるということだ。あいにくと頭よりも下半身に血と栄養が集まっている【連続三十七人斬り】では理解できなかったようだが」
額に青筋を浮かべながらトレーヤイがつらつらと並べ立てた過去の自分のあだ名に、リテドルが無表情に頬を引きつらせた。噂を掴むという点において、目の前の老人よりも巧みな魔法士は存在しない。
「……休戦しましょう。今はそれどころではないはずです」
「いいだろうリテドル。二度とワシをその名前で呼ぶなよ」
「私は【連続三十七人斬り】なんて呼ばれてたことを今知りましたけどね……」
「【オークの生まれ変わり】なんていうのもあったぞ」
「罵詈雑言の類ですね」
「やめよう、不毛だ」
無意味な口論にエネルギーを使った二人は不毛にトラウマを抉る会話に疲れた顔を浮かべた。こんなアホらしい会話をしていても、かたやこの砦の最高責任者。かたや、この砦どころか国中の魔法士の中でも五本指に入るであろう腕を持つ、【耳目の賢者】――ありとあらゆる情報を集めるエキスパートの魔法士。
二人は、椅子に座って真面目な話を再開するのだった。




