夜に口笛を吹くと蛇が出る
自然に鼻歌が出てしまうくらい、いいお湯でした。部活動帰りで疲れた私には、風呂が最高に心地よかったのです。自慢ではありませんが、私は柔道部の主将を務めており、小さい大会の男子中学生の部で優勝するくらいの実力がありました。曲がりなりにも優勝するくらいですから、練習はきついものです。湯船の浸かることが、私にとって一番の疲労回復方法でした。窓から夜空を眺めながらの鼻歌。そのうち鼻歌は歌声になり、ついには伴奏部分で口笛になりました。
「何をやっている!」
祖父でした。普段は優しい祖父が、怒りの形相で服を着たまま風呂場に乱入し、私の横っ面を拳で殴りました。
「夜中に口笛なんぞ吹くものではない! 蛇が来るぞ!」
友人に愚痴を漏らした際は笑われましたが、祖父は真剣でした。部活でも滅多なことでは怪我をしなかった私の歯が折れるほど力をこめて殴った祖父を、これ以来私は軽蔑しました。
「じいちゃんはね、お前を心配したんだよ。万が一にも危険な目に合わせたくなかったんだよ」
祖母は私の手当てをしながら泣く泣くそう言って、祖父を庇いました。
よくもそんな嘘を、と私は祖母まで軽蔑しました。祖父が蛇を怖がるはずがありません。祖父の財布には蛇の皮が入っています。入れておくと金運が上がるという田舎のお呪いです。しかも祖父は酒が入るとよく自慢話をします。若い頃、隣の家の奥さんが「大きな蛇がとぐろをまいていて家に入れない」 と泣きついたから、鍬で応戦して殺してやった。まったく、B-29より蛇を怖がるとは女とは馬鹿な生き物だ、と女性への蔑視付きで。そんな祖父が蛇が来るから何だというのでしょうか。
反抗期と重なったその憎悪は私が社会人となってからも続きました。十年ほど、顔を見ることも口をきくこともない年月が流れ、やがて祖父が死亡したという知らせが届きました。祖父は結構な遺産を所持していました。遺言書には、私に多くを与えるとあったと弁護士の方が仰っていました。
「じいちゃんはね、お前を心配していたよ」
祖母の態度を、私は恩着せがましいと感じていました。軽く受け流し、私は折角まとまったお金が手に入ったのだ、丁度休みを取りたいと思っていたところだし、これで海外旅行とでも洒落込もうと考えました。
祖父の遺産を馬鹿なことに使って、一種の復讐がしたかったのでした。
そこは長いこと他国と交流のない国でした。江戸時代の日本の鎖国のように、ガラパゴスのように、近代文明の侵食していない貴重な地、とパンフレットにありました。
見るもの聞くもの全てが珍しく、高い金を出して来た甲斐があったと私は満足を感じていました。今日は海を見た。明日は丘の遺跡を訪ねよう。
そして、私が遺跡を見物している時にそれは起きました。
『地震だ! 大きいぞ!!』
立って居られぬほどの地震が数分続きました。ようやく収束した頃に、私はハッとして海を見ました。
「波が凄い勢いで引いている……」
津波が来ると察知し、私は余震の中をひたすら高いところに向かって逃げました。
その後、怪我もなく私は無事でした。しかし、避難所に向かった後、一人の老婆が現地語で何やら食ってかかります。聞き取れた単語だけで推測するに、「私の孫は行方不明なのに、よそ者のお前が生きてるなんて。出て行けここは現地人のための避難所だ。ツナミが来ると分かったら一人で逃げた臆病者。助けようとは思わなかったのか」
ほどなく、身内のものと思われる女性が老婆を取り押さえ、何度も謝罪しながら去っていきました。
しかし、内心はここにいる誰もがそう思っているのでしょう。口に出さないだけで。そう考えるとたまらなく居心地が悪いのでした。現地の村長らしき人が外には出ないようにと言いますが、私は自分の腕っ節に自信がありましたし、また自棄になっていたのでした。こっそり避難所を抜け出し、夜の闇に紛れます。一人になりたかったのです。
皮肉な事に、灯りのない夜は最高の夜空となったのでした。人気のない場所まで行き、その辺の瓦礫に腰を下ろし、夜空を見ながら考えます。
大使館からの連絡や救助は土砂崩れでいつになるか分からない。仕事に間に合うだろうか、家族は心配しているだろうか。携帯電話はいつになったら復旧するのか。食べ物は、トイレは……。鬱々とし始めたその時でした。
闇夜を切り裂くように口笛の音が響きました。こんな時に誰がと、私は辺りを確認すると、瓦礫の隙間から、中年の男と小さな女の子が見えました。口笛は、少女の手をしっかり握った男からでした。
おそらく親子なのでしょう。なんらかの事情で、私と同じように避難所に居づらくなり、ここまで来た。そして少しでも女の子を慰めようと、ああして口笛を吹いているのでしょう。
それにしても男の口笛は、訓練されたかのように巧みなものでした。思わず、私も割って入ってしまおうかと思いますが、やはりやめることにしました。祖父を思い出したからです。今日は何人もの人間の死に目に合ったのに、祖父には合わなかったというのが、運命の悪戯のようだと私を感傷に浸らせました。
やがて、親子はどこかに立ち去りました。私も気は向かないけれど、避難所に帰ることにしました。どっちにしろ、あそこにいなければ無事を伝える事も食べる事も出来ませんから。
日本に帰国した後は、祖母に盛大に泣きつかれました。両親も「お祖母ちゃんは耳が遠いから、こうして新聞を集めて読んで、毎日お前の安否を気にしていたんだよ」 と大量の新聞とその切抜きを見せられました。ずっと気にしていてくれたと思うと、私の胸は温かくなりました。祖母にはこうして無事に戻ってきたからには、もう心配はいらない、さあ、部屋を圧迫するこの新聞を捨てようと伝えました。隣近所から貰ったのか、すごい量です。ついでに家を綺麗にして親孝行を……と思っていた私の目に、ある記事が映りました。そしてそれを見た瞬間、私の心臓は凍りつきました。
思わず例の迷信を検索しました。そしてやはり、私の推測は当たっていたのです。
『夜に口笛を吹くと蛇が出る。この蛇とは、人買いの暗喩であると思われる』
続いてあの新聞記事へ。
『災害現場で治安悪化。人身売買横行か。口笛を合図に取引。六歳の少女なおも行方不明』




