弐 従者
翌朝、アクラブは落ち着かない様子で店に出た。
昨日のことはきっと夢だったと自分に言い聞かせ、食器を片づける。
今日は魚を仕入れに行こう。もしかすると林檎くらいなら安く買えるかもしれない。
ぼんやりと考えながら皿を棚に戻す。
「アクラブ」
「あら、アッシュ。まだ営業時間じゃないわよ」
「知ってるよ。けど、外を見てよ。凄いことになってる」
「え?」
アクラブは言われるまま外に出る。
「は?」
思わず声が出た。
大量の酒、果物、魚、肉……。今にも王族の宴を始められるのではないかと言うほど高価な食材が沢山ある。
「……凄い、初めて見た……」
新羅の蟹だ。
絵でしか見たことのないそれに驚く。
「この食料だけで家ひとつ買えるんじゃ……」
アッシュが呟く。
「確かに……」
誰の仕業なんて聞かなくたってわかる。国王ハイヤトゥンだ。
「本気なのかしら?」
「ええ、本気です」
突然の声に驚いたアクラブは振り返る。
「誰?」
「私、ハイヤトゥン様の奴隷ネルガルと申します」
男は深々と頭を下げる。
奴隷と言うには随分身なりが良い。
「奴隷とは聞こえが悪い。せめて召使程度にしておけ」
声がする。
アクラブが見上げればハイヤトゥンの姿があった。
「は、ハイヤトゥン様……何故屋根の上に?」
アクラブの脳は考えることを放棄し、口は勝手に言葉を発した。
「お前の顔を見たかった、正確にはお前が驚き呆れる顔が、だが」
ハイヤトゥンは笑う。
良く笑う男だと思った。
「国王陛下……こんなにも頻繁に出歩いてよろしいのですか?」
アッシュが遠慮がちに声を掛ける。
「構わん。俺の国だ。俺のやりたいようにやる」
ハイヤトゥンの言葉にアクラブは呆れた。
「まぁ、国王陛下がそのようなことを仰ってよろしいのですか?」
「なんだ? 散々私を褒め称えていたお前も呆れたか?」
「想像していたお方とは大分違うようで驚いております」
「ほぅ」
ハイヤトゥンは面白そうにアクラブを見る。
「やはり、私の目に狂いは無かった。見ろ、ネルガル、これが俺の妻になる娘だ」
「昨夜から耳に蛸が住み着くほど聞いています」
「蛸が住み着く? それはどんな状況だ」
ハイヤトゥンは呆れたように言う。
「まぁ、いい。美しかろう。王都一と評判の娘だ。話してみれば愛想も良い。それに、何より賢い娘だ」
「え?」
アクラブは驚いてハイヤトゥンを見た。
「好奇心が旺盛と言うべきだったか?」
「ハイヤトゥン様、仰りたいことが分かりませんわ」
「構わん。ただ、お前が私の妻になるということだけを理解してくれればそれでいい」
「何故私を?」
「私はお前に惚れた。それではいけないか? アクラブ」
まっすぐ見つめられ、アクラブは動けなくなった。
心臓がとくりと鳴る。逃げられない。捕食される。逃げなくては。
どこかで危機を叫んでいるのに、この絶対的支配から逃げられない。
「蝎の毒はじわじわ効く強烈な毒だ」
「あら、蛇毒だって強烈ですわ」
アクラブは笑って見せる。
そう、蛇の毒のよう。
咬まれたかと思うとじわじわ染み込む。
這って近づくその姿に気付かないうちに咬まれたような、そんな錯覚。
「お前は王都では蝎娘と呼ばれているそうだな」
「お恥ずかしい。どなたがそんなことを?」
「まぁ、情報源は秘密だ」
「そうですね、確かに、私は蝎の名を持ちますが、どうでしょう? 女というものは皆有毒でしょう?」
アクラブが笑えば、ハイヤトゥンは真っ直ぐ見る。
「綺麗な花には棘があると言うが、アクラブは棘どころか毒があるほど美しい」
「お戯れを」
笑うアクラブの横に、ハイヤトゥンが舞い降りる。
そう、飛び降りると言うよりは舞い降りる。それほど優雅な動きだった。