夢診断 :約7500文字 :SF
昼過ぎ。男は目の前にそびえ立つビルを見上げ、小さくため息をついた。曇り空を映した窓ガラスは鈍く白んでおり、陰がかかっているせいなのか建物全体が暗く沈んで見えた。その無機質な外観はどこか病院を思わせ、男は足を踏み入れる前から妙な居心地の悪さを覚えた。
だからだろうか。男は無意識に一歩後ずさりした。――が、その直後、隣にいた彼女がするりと腕を絡めてきた。男は反射的に背筋を伸ばし、ちらりと視線を向けた。
「ふふっ、行こっ」
彼女は男の顔を覗き込むように微笑んだ。その笑顔は無邪気そのものだったが、男は逃げ道を塞がれたような気分になった。「ああ……」と小さく返事をして、男は半ば引っ張られるような格好で自動ドアをくぐった。
『夢診断……?』
『そう! ぜひ受けてほしいの!』
数週間前のこと。自宅マンションで夕食を終えたあと、彼女は突然そんな話を切り出した。
『お父さんの知り合いの科学者の人が、今研究中なんだって! ねえ、いいでしょ?』
『それって占いみたいなやつ……?』
『違う、違う。なんか、眠っている人の夢をモニターで見られるんだって。MRIみたいな装置に入ってさ』
『へえ、すごいな。でも、自分の夢を他人に見られるのは、なんだか恥ずかしいな……』
『いいじゃない。お父さんもぜひ受けてほしいって言ってるしさ。むしろ受けないと……』
『結婚を許可しない、とか……?』
『ふふ、そこまでは言ってないけどね。でも断ったら、何か後ろめたいことがあるんじゃないかって思われるかもね』
『ええ……。そもそも夢診断って何? 分析なんてできるのかな? たまたま変な夢を見るかもしれないし』
『だから、その辺は向こうに行ってから説明を聞いてよ。はい、決まりねっ!』
結局、男はその勢いに押し切られてしまったのだった。
「――つまり、こちらの液体を服用していただくことで、脳の深層領域に眠る無意識が活性化され、より鮮明な夢として表出するのです」
【睡眠夢象研究所】と記された金属プレートが掲げられた部屋で、研究者の男はそう説明した。どこか爬虫類を思わせるような細長い顔立ちで、顔色が悪く、白衣を着ているものの健康的とは言い難い風貌だった。
「ほお……」
男は気の抜けた返事をしながら机の上の紙コップに視線を落とした。中には銀色の液体が入っている。水銀を薄めたような色合いで、蛍光灯の光を受けてどろりと鈍く輝いていた。
本当に飲んで大丈夫なのか――そんな疑念が頭に浮かび、男は眉をひそめた。
それから男は椅子に腰掛けたまま背筋を伸ばし、部屋を大きな窓に目を向けた。その向こう――隣室には奇妙な装置が据えられていた。検死台を思わせる無機質な台座の先端に、丸みを帯びた機械が取り付けられている。どうやら頭部だけを覆う構造になっているらしく、横から見ると巨大なスリッパのような形に見えた。まだ外装が取り付けられていないようで、剥き出しの配線や金属部品がところどころに覗いており、不気味さを漂わせていた。
どうやら、この窓から中の様子を観察できるらしい。男はどこか実験動物になったような気分になり、眉をひそめた。
……いや、実際にそうなのかもしれない。まだ開発段階であり、限られた人間しか体験できないとやたら特別感を出して説明していたが、実のところ単純に被験者不足で困っているだけなのではないのか。
男はそんな疑念を抱きながら、隣に立つ彼女をちらりと見上げた。彼女はにっこりと微笑み、「頑張って」と肩に手を置いた。
今さら断れる雰囲気ではない。まあ、どうせ大したことにはならないだろう。これも付き合いのうちだ。
男は気づかれないよう小さく息を吐くと、椅子から立ち上がった。
「それではリラックスしてください。薬の効果ですぐに眠くなると思いますので」
研究者はそう言いながら男の腕をぽんぽんと軽く叩き、隣の部屋へ戻っていった。窓越しに見ると、彼女がこちらへ向かって楽しそうに手を振っていた。
電流が迸るような派手な実験を想像しているんじゃないだろうな、と男は苦笑しながらゆっくりと体を横たえる。頭部を装置の中へ差し入れると、肩から上がすっぽりと覆われ、周囲の音がわずかに遠のいた。内部には基板やコード、スピーカーらしき部品がむき出しになっており、かすかな機械音が鳴っている。妙な圧迫感に、男は小さく咳払いした。
せめて台くらい柔らかい素材にしてくれよと、男は心の中で呟きつつ深く息を吐いて目を閉じた。
眠れっこない。そう思い、最初は意識して閉じていたものの、やがてまぶたは自然と重くなり始め、全身の感覚も次第に曖昧になっていった。
全身が重く沈んでいるようでもあり、逆にふわふわと浮き上がるような妙な感覚だった。
薬が効き始めたらしい。耳元で聞こえていた機械音は遠ざかり、男の意識はそのまま深い眠りの中へ落ちていった。
◇ ◇ ◇
「いやあああ!」
けたたましい悲鳴が響き渡った。
窓ガラス一枚隔てているにもかかわらず、その声は鼓膜を刺すように鋭く、男は反射的に跳び起きた。だが次の瞬間、額を装置の内側に思いきりぶつけ、男は呻き声を漏らしながら頭を戻した。
一瞬、自分がどこにいるのか分からなかった。だが鈍い痛みが広がるとともに、霞んでいた意識は急速に現実へ引き戻されていった。
そうだ、研究所だ――。
男は肘をつき、ずりずりと尻をずらして装置から出た。
台座に腰掛けたまま窓の向こうに目を向けると、二人がモニターに釘付けになっているのが見えた。彼女は目を大きく見開き、口元を手で覆っている。研究者は口を半開きにしていた。二人とも顔から血の気が引いているのがはっきりと見て取れた。
これはただごとではないぞ。そう直感した男は慌てて立ち上がり、ドアを開けて隣の部屋へ飛び込んだ。
「ど、どうし――」
「いやあ! 来ないで!」
「えっ」
「い、いったんそこで止まって! 止まってください!」
研究者は椅子を蹴るように立ち上がり、両手を突き出して必死な形相で男を制した。彼女は素早く鞄を抱え込み、そのまま逃げるように出口へ向かった。
「ま、待って!」
男が呼び止めると、彼女はびくりと肩を跳ねさせ、ゆっくりと振り返った。その顔は青ざめ、唇は小刻みに震えている。目には恐怖とも嫌悪ともつかない色が浮かんでいた。
「も、もう終わり……。二度と連絡してこないで」
「は、はあ?」
彼女はそれだけ言うと、乱暴にドアを開けて部屋を飛び出していった。廊下に靴音が響く。それはあっという間に遠ざかり、やがて完全に消えた。
男はしばらく半開きのドアを見つめたまま立ち尽くした。
何が起きたのかまるで理解できなかった。ついさっきまで結婚の話をしていたというのに、彼女はまるで化け物でも見るような目で見て去っていったのだ。
いったいなぜ……と男はゆっくり振り返った。すると研究者は「ひっ」と短く声を上げ、慌ててパソコンのキーボードを叩き始めた。
「あの……」
男は研究者にゆっくり歩み寄った。
研究者は顔を向けず、肩を張ってキーボードを叩き続けている。
「あの、何があったんですか……?」
「な、何も……。ええ、何もありませんでした」
研究者は視線を泳がせながら答えた。
「で、ですので、どうかお引き取りください」
「いや、そんなわけないだろう」
男は思わず語気を強めた。
「二人でそのモニターを見ていたじゃないですか。何か映っていたんでしょう? 僕にも――」
「何も見ていません! ……そういうことでよろしいですね?」
「いや、全然よくないですけど」
「映像はすでに削除しました。復元もできません」
研究者は男へ向き直り、額の汗を袖で拭った。
「やっぱり何か映ってたんじゃないですか。それを教え――」
「何も! 見ていません!」
研究者は声を張り上げた。その声は窓がびりりと震えるほど大きく、男は思わず慄いた。
「あなたが目を覚ます前に、彼女にも決して口外しないようお願いしてあります。ですから、このままお帰りください。そして、もう二度と! ここには来ないでいただきたい……!」
「そんな勝手な……」
「なにとぞ!」
半ばやけくそのような勢いで背中を押され、男はそのまま部屋の外へ追い出された。
いったいどうなっているんだ……。
男はビルの外に出ると立ち止まり、曇り空を映す窓ガラスを見上げて首を傾げた。背中にはまだ研究者の手の感触が残っている。あの怯えようは、とても演技には見えなかった。問い詰めても無駄だっただろう。警察を呼ばれかねない雰囲気だった。
男は小さく息を吐き、ポケットからスマートフォンを取り出した。
彼女に電話をかけよう――そう思ったが、発信ボタンに指が伸びない。しばらく画面を見つめた末、再びため息をつき、男はスマートフォンをポケットに戻した。
きっと無駄だろう。あの様子では電話に出るとは思えない。とりあえず今は時間を置くしかない。落ち着けば事情を話してくれるかもしれない。
しかし、なぜあんな態度になったのだろう。恐怖、それとも嫌悪――いや、あの表情にはその両方が混じっていた。研究者があれほど慌てて映像を消したことからしても、モニターには相当異常なものが映っていたに違いない。
男は眉間を指で揉みながら、夢の内容を思い出そうとした。
……だめだ。どんな夢だったのか、まったく思い出せない。
だが、映像を消したということは……エロ系か? 裸……。もしモニターに映ったのが彼女の裸だったのなら、研究者が慌てて消したのも頷ける。しかし、それでは彼女の反応が説明できない。恥ずかしがることはあっても、あそこまで怯えたりしないはずだ。
男はとりあえず駅に向かって歩き出した。
その間も腕を組み、思案に沈む。歩道の両端には街路樹が植えられており、白い石畳の上に影を落としていた。
やがて、前方から若い女の二人組が談笑しながら歩いてきた。甲高い笑い声がやや耳に障り、無意識のうちに男は顔を背けた。しかし、すれ違うと男は振り返り、その後ろ姿を目で追った。
では浮気か……。しかも一人ではない。複数の女と淫らに絡み合うような映像だったらどうだろう。
おれに浮気願望などないが、男ならそういう夢を見ることがあってもおかしくはない。それなら彼女が嫌な顔をするのも納得だ。だが、それだけでは足りない。あれは単なる嫌悪だけではなかった。そうだ、確かに心底怯えていた。
では……暴力か。裸の彼女に手を上げていたとか。
いや、それなら彼女はまずおれの顔面に一発見舞ってから出て行くだろう。「そんな願望があったなんて知らなかった!」。そう怒鳴る姿が目に浮かぶ。彼女はそういうタイプだ。
では、もっと過激なことか……。
殺人――。
彼女を殺す。それも残虐な方法で。それなら一応筋は通る。
とはいえ、その場合あの研究者が取りなしてくれそうなものだ。「所詮は夢ですから」とでも説明して場を収めようとするだろう。彼女だって、引きつりながらも笑みを浮かべて取り繕うはずだ。人前であんなに取り乱すとは思えない。
それが二人ともあの様子。では、彼女が対象ではないのか……?
男は低く唸った。そのときだった。
チチチチ、と地面を叩く小さな音が耳に届いた。男が視線を向けると、小型犬を連れた女が横を通り過ぎていった。犬は舌を出して楽しそうに尻尾を振り、飼い主を見上げながら短い足を忙しなく動かしていた。
男はふむ、と小さく呟いた。
では、動物虐待ならどうだ。彼女は動物が好きだ。結婚したら犬を飼いたいとも言っていた。おれが犬や猫を虐待していたとしたら、あそこまで嫌悪するのも頷ける。……いや、やはり殴られて終わりだろう。そしてもちろん、おれに動物虐待の願望などない。
やはり相手は人間なのか。殺人……それもただ人を殺すだけではなく、もっと醜悪で……許されない……絶対的な禁忌……まさか――。
「きゃはは!」
ふいに響いた甲高い笑い声に、男は我に返った。足を止めて視線を向けると、幼い子供とその母親らしき女が手を繋いで横を通り過ぎていった。
子供は弾むように歩き、母親は子供に目線を合わせて笑っていた。
男はしばらくその背中をじっと見つめた。やがて十分に距離が離れると、ようやく長く息を吐き出した。
幼い子供を殺す……それなら説明はつく。彼女と研究者が怯える理由も。
だが、おぞましい……吐き気がする。おれがそんな願望を持っているはずがない。しかし、想像はできた。自分が裸の子供を……いや、想像くらいは誰にでもできる。だが、それは願望ではない。断じて違う。
では、いったい相手は誰で、おれは何をしたのか……。
男は歩道の端に寄って立ち止まった。腕を組み、行き交う人々を目だけで追う。
会社員風の男か……上司ならどうだろう。あいつさえ消えれば、おれが昇進できる、と。いいや、そこまで出世欲は強くない。それに、むしろ彼女なら「向上心があっていいじゃない」と笑いそうだ。
老人か……彼女の父親はどうだ。殺して遺産を手に入れる……。それなりに資産があるらしいし、義父という存在は正直、鬱陶しいと思えなくもない。
だが、それなら彼女が咎めるだろう。それに、おれはそこまで金に執着していない。
男は通り過ぎる人々を横目に、さらに思案を重ねた。しかし、どれだけ考えても納得のいく答えは出てこない。
強盗、強姦、放火、窃盗、万引き、公然わいせつ――思いつく限りの犯罪を順に並べ、自分がそれを実行する場面を想像してみたが、どれもしっくり来なかった。
気になる……どうしても気になる。おれはいったいどんな願望を抱いているというんだ。
……だがもうお手上げだ。ここで考え続けても答えが出る気がしない。彼女から直接聞き出すしかないだろう。優しく尋ねれば話してくれるかもしれない。いや、場合によっては少し強めに出てもいい。あの怯えをむしろ利用してやるのだ。
そう考えた男はポケットからスマートフォンを取り出し、通話ボタンを押した。
呼び出し音が鳴る。
一回。二回。三回――。
出てくれ。
頼む。
出てくれ……。
出ろ……。
早く出ろ……!
繰り返される呼び出し音に、焦りと苛立ちが少しずつ膨らんでいく。足先が無意識に地面を叩き始めた――そのときだった。
スマートフォンのスピーカーから突如として耳をつんざくような異音が噴き出した。
「っ!」
男は反射的にスマートフォンを耳から引き離した。
キイイイィィィ――という金属を擦り合わせたような高音。容赦なく鼓膜を刺し、思わず全身が強張った。周囲を歩いていた通行人たちも異変に気づいたらしい。顔をしかめ、一斉に男のほうを振り向いた。
訝しむような視線が突き刺さり、男は慌てて通話を切った――が、異音は止まらなかった。今度は電源を落とそうとした。だが、画面はまったく反応しない。タッチしても何も起きず、彼女の名前が表示されたまま動かなかった。
音はさらに大きく鋭さを増して頭蓋骨の内側まで貫くように響いた。
男はたまらずスマートフォンをその場に放り投げ、両手で耳を塞いだ。
そして叫んだ――。
◇ ◇ ◇
「もう起きていただいて結構ですよ。あっ、頭をぶつけないようにお気をつけください」
「えっ……」
腕を軽く叩かれ、柔らかな声が頭上からかかった。男は戸惑いながらゆっくりと体を動かし、装置から頭を出した。ぼやけていた意識が徐々にはっきりしていく。
「ここは……あの部屋……ということは」
「ええ、夢ですよ」
研究者は穏やかに微笑んだ。その肩越し――窓の向こうでは、彼女がいつもどおりの明るい笑顔で手を振っていた。あの怯え切った表情は影も形もない。男は瞬きを繰り返した。
「え……じゃあ、あれが夢診断? 全部見ていたんですか? でもあんなに生々しいとは……」
「まあまあ。その辺りも含めて詳しい話はあちらでしましょう」
研究者に促されるまま、男は装置から降り、隣の部屋へ移動した。椅子に腰を下ろすと、彼女が後ろから肩に手を置き、軽く揉みながら「お疲れ様っ」と弾んだ声をかけてきた。男は曖昧な笑みで応じた。
研究者は咳払いを一つして、膝の上で指を組んだ。
「彼女さんにはすでに説明しましたが、改めてお話ししましょう。あなたは夢の中で、“自分が何かひどいことをする可能性”を次々と想定していましたね」
「え、ああ……そういえば……」
ぼんやりと記憶が蘇ってきた。浮気、暴力――そんな可能性を疑っていた。
「そして、そのたびに自ら否定していた。それこそが夢診断なのです」
研究者はゆっくりと頷き、指先で机をとんと叩いた。
「薬剤によって潜在意識へ深くアクセスし、あなたの内面に潜む願望や衝動を探っていたのです。夢の中では理性による制御が弱まり、本来なら表に出ない欲望も浮上しやすくなります。そして――」
研究者はずいと身を前に傾け、微笑んだ。
「その結果、あなたにはそれらの反社会的衝動が存在しないことが確認されました。潜在意識は一貫して拒絶反応を示していた。これは非常に健全な結果です」
「浮気願望もなさそうだし、安心したよ」
彼女が身を乗り出して笑いかけた。
「……まあ、出世願望くらいはもう少しあってもいいけどね」
「あ、ああ……ははは……」
男は彼女と顔を見合わせて、乾いた笑いを漏らした。
◇ ◇ ◇
ビルを出た二人は手を繋いで駅へ向かって歩き始めた。雲の切れ間から差し込む午後の陽光が街路樹の葉を照らし、その影が歩道の上でゆらゆら揺れている。
「ねえ、結婚したらすぐに犬を飼おうね。それから子供部屋も作らなきゃ」
「ああ……気が早いね」
「そんなことないよ。来週は報告も兼ねて、うちの両親とご飯に――いたっ」
ふいに男の手に力が入った。彼女は顔をしかめて、驚いたように男を見上げた。
「ああ、ごめん。まだちょっと頭がぼーっとしているみたいでさ……」
「もう、気をつけてよね。それでね――」
彼女はすぐにいつもの笑顔に戻り、何事もなかったかのように楽しげに話し続けた。
男はその横顔を見つめながら静かに微笑んだ。
穏やかな午後だった。
空を覆っていた分厚い雲はすっかり流れ去り、頭上には澄み切った青空が広がっている。降り注ぐ陽射しは眩いほどに白い石畳を照らしていた。
男は彼女の話に相槌を打ちながら、二人のこれからを思い描く。
――キイイィィィヤアァァ!
胸が昂り、また手にぐっと力がこもった。




