第19話 「芥川龍之介」
聞き捨てならないことを言っているのは、どうやら客のようだ。
ぼさぼさ頭に馬面の神経質そうなおっさんだった。
「いいかい?珈琲あってこそのカフェーだ。なのに、ここの珈琲の味はどうだ?まるでドブ水じゃあないか」
痛い所を突かれている。
効率性と価格のことを考えて、コーヒーはやかんで煮出したものを作り置きしている。
いわば疑似コーヒーだ。
コーヒー通ならば、そう思う者もいるだろう。
(こっちも後ろめたいから、最近はお客様にミルクの方を勧めているんだよね)
「厨房を見てみたら、サイフォンもミルもあるじゃないか。なぜ、あれを使わないのかね?道具がありながら使わないのであれば、それは怠慢以外のなにものでもない」
使い方がわからない、のだ。
誰も何も言えないでいる。
一番つらそうなのは、コーヒーを管理する久美だ。
一歩前に出る。
「私が早く使い方を覚えていれば。忙しさにかまけて後回しにしたから、こんなことに…まことに、申し訳ございません!」
久美には他に、手洗いの洗濯や裁縫の仕事もある。
大正時代の衣服の生地はあまり丈夫ではなく、しょっちゅう修繕しなければならない。
(違う。久美ちゃんのせいじゃない)
今度は凛音が、久美をかばうように前に出る。
「あのう。お客様!」
馬面が凛音を見る。
「クレ…苦情でしたら、店長の私に。それに、こういうのはカスハラって言って…」
「おーほっほっほ。わたくしの出番ですわね」
いつの間にか、店内によしこが入ってきている。
「こら、ド天然。勝手に入る……」
「お見かけしたところ、そちらの紳士は芥川龍之介さまでいらっしゃいますわね?」
店内がどよめく。
(あ、ホントだ。国語の教科書で見た顔だ)
このときの芥川は既に「羅生門」「蜘蛛の糸」「杜子春」などを発表していて、押しも押されぬ文豪だった。
彼のコーヒー好きは有名で、ふだんは「カフェー・パウリスタ」をはじめとする銀座のカフェ巡りをするのが日課だった。
そのため銀座をぶらぶらする「銀ブラ」ということばは、芥川が発祥だという説もある。
「私が誰であれ、関係はない。今はこのカフェーの話をしている。新聞には『新橋に登場した新たなカフェー』と書いてあったから来てみたのだが、がっかりだ」
本城が書いた帝都新聞の記事だ。
「やっぱり…ですわ。くす」
「む。何がおかしいのかね?」
「芥川先生。その記事は間違いですわ。ここはカフェーではございません。カフェ、でございますわよ」
(ん?どこが違うの?天然。それは無理があるって)
「ふだん先生が行かれる『パウリスタ』などはカフェーです。カフェーは珈琲を飲みながら他のお客様や女給たちと歓談をされる、欧州のサロンのようなもの。だから、フランス語で『カフェー』」
(あ、そうなんだ。カフェーはノンアルのキャバクラか)*キャバクラではない
「しかるにここは、アメリカ風の『カフェ』です。パウリスタのように知識人の方が会話を楽しむ場所ではなく、下々…大衆の方々にしばしの間、お食事と飲み物を提供するお店ですわ。時間のかかるサイフォン抽出などしていては、むしろお客様にご迷惑をおかけするのです。そうですわよね?店長」
「え?あ、はい。仰せの通りでございますわ」
芥川が腕組みを解く。
「なるほど。この店は初めてだったので、私はすっかり勘違いをしたようだ。これはとんだ無礼なことを言ってしまった。あいすまぬ。この通り」
文豪が頭を下げる。
全員が恐縮する。
「ただ…やはり大衆もいずれは、珈琲本来の味を知りたくなると思うがね」
「ご心配はご無用ですわ。バリスタなら、ここにおりましてよ」
よしこがつかつかと厨房に向かう。
コーヒー豆を掴んで、数人分をミルの中に入れる。
豆を挽き始めた。
「先程頭を下げていた召使いの方、早くお湯をお沸かしなさいな」
「あ。は、はい」
久美が走って行く。
「芥川さま。お時間はありまして?ああまでおっしゃった以上、わたくしの至高の珈琲を飲んでいただかなければ、大正乙女の気が済みませんことよ」
文豪が苦笑いする。
「ああ。こうなれば、意地でも飲んでみたいね。店長。ここの店の名をもう一度教えてくれないか」
「カフェ清流、です」
万年筆を取り出してメモ帳に書き留めた。
「今度は文壇の連中も連れてくるよ。無論、女給の接待は不要だ。食事と彼女の珈琲だけで構わない。あの赤いライスオムレットも絶品だったからね」
にっこりと微笑む。
気を悪くしている様子はない。
どうやら、文豪はよしことのやり取りが楽しかったようだ。
(あれ?なんか、一件落着してんぞ。おそるべし。高飛車悪役令嬢)
店内にコーヒー豆の香りが漂ってくる。
(新橋も悪くないな。銀ブラならぬ新ブラのことも書いてみるか)
ゆきが、レコード盤に針を落とした。
モーツァルトのピアノソナタが流れ始めた。
この場に合った、心和む選曲だった。
つづく




