1‐2 馬鹿は四月に卒業しない
「お待たせー」
赤い髪の長身の女が信号を渡りながら手を降り小走りで駆け寄ってきた。待ち合わせでどこにいても見つけられる赤毛と頬のそばかすは赤毛のアンを想像させるが本人曰くこれはジニー・ウィーズリーのリスペクトらしい。
静かなスマホをバッグの奥に滑りこませ、両手を膝に当て、体重を均等にかけながらゆっくりと立ち上がる。蒸発出来なかった汗が膝裏でワンピースの裾を掴み、名残惜しそうに足を離した。
友好のハグでベニヤ板に強く押し潰された豊満な胸があつきの横幅をさらに大きく見せる。
「バイト?」
普段二人で出掛けるときに着ているようなクラシカルコーデではなく今はTシャツにジーンズというシンプルなコーデでどんなに急に呼び出しても手を抜かない彼女がラフな格好でそれも呼び出すことは今までにほとんどない。
いつもは狭い歩幅も今日は長い足を存分に使ってずんずん歩いていく。
「ううん。大学。それより呟き見たよ。なんていうか質素だったね。抑えた感じだった。今日いもりくんのソロあるからもっと長い熱のこもった感じなのかと思ったけど」
二人はお互いにいもりのファンであるいうことしかしらない。会話の中心はいもりであり、それ以外の多くは語らない。ゆるはの中にあるあつき像とはSNSの饒舌でライブ終わりに熱っぽく語るオタクで、あつきの中にあるゆるは像とはクラシカルコーデを着こなすジニー・ウィーズリーなのだ。
「それがさあ、こないだ何個の自分の投稿に繋げて感想書いたじゃん? 文字数で言ったら二千字くらいかな。ライブ鑑賞レポ。あれに引用でいもりくんが『こんなに僕のこと見てくれてめっちゃ嬉しい』って返してて、ああ、ちゃんと届いてるんだと思ったらなんかさ、恥ずかしかったんだよね」
ライブハウスの中で握手会が終わってすぐ、受け取った感情が温かいうちに生の声をどかに吐き出しエゴサを出来るようにグループ専用のハッシュタグを付けて投稿したあと、電車で帰宅している途中にきた通知に低く驚きの声をあげ、まばらに集まる視線を咳払いで誤魔化した苦い記憶が蘇った。
「えー良かったじゃん。ちゃんと見てくれてるってことでしょ?」
「いやさあ、なんか本人が認知していないところで感情向けるのは楽しいんだけど、見てるよって言われるのはまた違うんだよ。分かる? 私は壁なの」
「ま、あつきは元々壁みたいなもんだけど」
ゆるはの骨ばった手が背中を叩き、あつきは曖昧に笑って見せた。
ファミレスという目的地に流れ着いた二人は照明に目を眩ませ、細い視界の中で近くにいた店員がバタバタと駆け寄ってくるのが見えた。
「いらっしゃいませー何名様ですか?」
「二人です」
「喫煙席と禁煙席どちらにされますか?」
「禁煙席で」
「ではご案内しますね」
まだ、ゴールデンタイムではないため、部活終わりの学生がまばらに席を埋めているだけだった。二人はトイレの近くにある奥の席に案内される。
そこは一名席であつきは太っているせいで相性が悪く、この空いてる店内でわざわざ狭い席に案内されたことに舌打ちをしそうになりながら、シートに腰を下ろした。空いている隙間にカバンを置くゆるはとは違いあつきは自分に広い太ももの上にバッグを置くしかなかった。
お冷とおしぼりを配る店員にゆるはが注文端末の説明を断り、店員は微笑みながら席を離れた。
「とりあえずドリンクバー頼んでいいよね。私はあとイカリング頼む。あつきは?」
右側に置かれたタブレットを充電器から取り外さないまま、サイドメニューの中からイカリングと単品メニューからドリンクバーを二つ注文カゴに入れて、送信する。
「あたしはお腹空いたからドリア食べたい。あと、この間美味しかったやつなんだっけ」
「カルパッチョ?」
「そうそれ」
「あー、ないかも」
「じゃあとりあえずドリアだけで」
ゆるははドリアを一つ選択して送信すると、飲み物を取りに行くために立ち上がった。
「コーラ?」「うん。ありがと」
すらりとした背中を見送りながら、あつきは背もたれに体重を預けて、おしぼりを取った。指先を丹念に拭き、畳んで机の端に置くと、お冷を一口飲む。綺麗に拭われた手をバッグの中に入れてスマホを出して畳んだおしぼりの上に背を向けて乗せた。その瞬間鈍くスマホが振動する。少し遅れて、画面がつき、通知のポップアップが表示される。通知されたものはこの世で一番あってはならないことだった。
「嘘、嘘嘘、やだ、やだなんで……」
口に当てた手が無意識のうちに頬に爪を立てる。痛みはなく、それよりも強いショックをそうすることで紛らわそうと必死だった。
ゆるはが両手にコップを持って帰ってきてあつきのパニックに目を見開き急いでコップを置くと心配そうに優しく尋ねた。
「どうしたの?」
この一瞬で起こったことに戸惑いながら、あつきの心に細心の注意を払って、いまだ爪を立てる腕を掴んで離させると、焦点の定まらないあつきに辛抱強く語り掛けた。
あつきは、ほんの少しだけ落ち着き、爪という外部刺激を失った手は大きく震え始め、その震える指でスマホの画面をゆるはに見せた。