第一章 或る寒い朝の出来事
一
それは新しい年になってからしばらく経った、或る寒い朝のことだった。
場末の匂い漂う繁華街の傍を流れる川に、一人の女の死体が浮いた。
第一発見者は近所に住む六十代の男性。
定年を過ぎてから早朝のジョギングを毎日の日課としていた男性は、いつものように川べりを走っていた。
彼は毎朝ほぼ同じ時刻、ほぼ同じルートをいつもと同じように走る。それが彼の日課だった。
しかしこの日、彼は川にいつもと違うものを見つけた。
お世辞にも綺麗とは言えない、ゴミや魚の死骸が浮かぶ川。
その中に通常そこにあるはずのない、あってはならないものを見つけてしまった……。
その後通報を受けた警察により、女の死体はすぐに引き上げられる。
引き上げられた女の身体にはゴミが付着、そして何より川の泥水にまみれたことにより、その身体からは鼻が曲がるような異臭がした。
警察が衣服等を調べている際、上着のポケットから女の物と思われる財布を発見。中にはとある短大の学生証らしきカードが入っており、そこに女の顔写真と「リン・エイミ」という名前が記されていた。
警察は身元確認のため短大へと連絡し、リンという女性が台湾からの留学生であることが判明した。
最後に死因について……、
事故? 事件? 自殺?
それについて警察が悩むことはなかった。
何故ならリンの左胸には鋭利な刃物で一突きされた、大きくそして残酷な傷があったのだから。
「……あ」
まだ夜も完全に空けきらぬ早朝、真っ暗な部屋で一人の男が目を覚ました。
男は目を覚ましてからしばらくの間そのままの状態。それは二度寝というよりも、今自分がどういう状況なのか、自分が目を閉じる以前の状況を必死に整理し思い出そうとしているようだった。
そして男は起き上がる。
男は周りを見渡して、そこが自分の部屋であることを理解する。
「……!」
男は二日酔いのように頭をブンブンと振り、こめかみを手の平で二度叩く。
「……」
最後に額を両手で押さえる。そしてその両手は段々下へと向かい口元で止まった。
ブルッ……
男の身体が震える。冷えるのか男の吐く息は室内にも関わらず白くなる。
そして男は再び額に手をあて、呟く。
「あれは……、夢だったのか……?」
二
「おいっす」
昼休み明けの大学の講義室、壮介がカバンとコートを抱えてやってきた。
講義室には既に数人の学生がおり、教授が来るのを待っている。そしてその中の一人が壮介の方を向く。
「おう、相変わらずの重役出勤だな」
「もう来てるんか。洋はマジメだねぇ」
壮介はそう言うと洋の隣に座る。
彼の名前は新谷壮介。ここ羽音学院大学に通う大学二年生。黒い短髪に割と整った顔。一見どこにでもいる普通の大学生だ。
「俺は今日朝イチの講義からだからな。お前は昼からでいいよな。やっぱ冬朝早く起きるのはツライわ」
そう壮介に声をかけるのは藤田洋。壮介とは同学年で同じゼミに所属している。スラッと伸びた長身にフチのないメガネ、そして普段はクールに振舞っているため、どことなく知的な雰囲気を醸し出している。
この二人、入学当初は互いの名前を知っている位だったが、二回生になりゼミで一緒になってから互いの人となりを知ることとなり、結果ウマの合うことが判り、一緒に行動するようになった。
壮介はカバンを開きながら笑う。
「お前は手当たり次第に講義を受け過ぎなんだって。俺みたいに要領よくやっていかなきゃ」
すると洋は鼻で笑う。
「よく言うぜ、前期レポート提出の時、期限ギリギリまで半泣きになってレポート作ってたクセに」
「俺は過去を振り返らない主義なんだよ」
壮介の答えに洋はややオーバーリアクション気味に頭を抱えてみせる。
「レポート制作に付き合わされるカノジョさんも大変だな……」
「あぁん、ウルセーよ」
壮介は頭をポリポリと掻く。その姿を見た洋は苦笑いを浮かべながらため息をつく。
「全くお前はいい身分だな……。ああそうだ、話は変わるけど朝電車で来る時興橋駅前にやたらパトカーが停まってたよ。何かあったんかな?」
「あ~、そういえば」
壮介はカバンの中からノートと筆箱を出しながら答える。
「今朝興橋の横を流れるドブ川で女性の死体が発見されたんだって、ワイドショーで言ってたわ」
「興橋の横……ってことは、潮見川のことか」
洋の言葉に壮介は無言で頷く。
「ああ、遺体の具体的な身元はまだ出てこねえけど、アジア系の外国人女性らしい」
そして壮介は今朝ワイドショーで見た情報を洋に伝える。丁度伝え終わったところで教授が部屋へと入ってきた。
「みなさんこんにちは。それでは出欠をとります……」
白髪交じりの教授がゆっくりとした口調で名前を読む。大体は教授が名前を読み上げた直後に返事がある。講義を受けるものの中には登録だけして全く受けにこない所謂「幽霊受講者」もいるが、この時期になるとそれも把握できているので、教授はあえてその者の名前は読まない。
だから欠席者がいると意外と目立つ。
「ふむ、今日は萩田が欠席とな」
教授の呟きに壮介は周囲を見回す。
「萩田君、今日休みなんだ。珍しいな」
「ああ、そうだな……」
壮介の呟きに洋も相槌を打つ。
萩田亮平。壮介・洋と同じゼミに所属する二回生。といっても萩田は一浪しているので年は壮介たちより一つ上。
萩田は非常にマジメな性格として周囲に認知されており、サボリなどを考えるような男ではない。
「萩田君、風邪でもひいたのかな……」
壮介はそう思いながら、虚空を見上げた。
講義終了後、壮介と洋は次の講義へと向かう。次の講義はゼミなので二人共向かう所は一緒。
壮介と洋は戸山という教授のゼミに所属している。戸山教授というのがこれまた個性的な人物であり、ボサボサの小汚い白髪頭と文系なのに何故か羽織っている薄汚れた白衣がトレードマーク。こんな風体なので女子学生受けはせず、数少ないゼミ希望者は専ら男子学生。一応数名の女子は在籍しているが、それらは他の人気ゼミの選考から漏れて流れてきたクチである。
「なあ洋、今日のゼミ発表誰だったっけ?」
壮介の問いかけに、洋は歩きながらスケジュール帳を開く。
「今日は……池山と、あ……萩田君だな」
洋はスケジュール帳を壮介にも見せる。
「萩田君は今日欠席かもな。ということは池山一人か……。確かアイツのテーマって『海賊の生きザマ』だったっけ?」
壮介の言葉を聞き、洋は鼻で笑う。
「笑ってやるなって。本人は本気なんだから、一応……」
「いやいや全く。こんなフザけたテーマが許されるのは、日本中どこの大学を探しても我らが戸山ゼミくらいだ」
そうこうしてるうちに二人は講義室の前に到着する。
「おい、壮介。あれ」
扉を開けると洋が何かに気付き、壮介に耳打ち。壮介が洋の視線の先を追うとそこには……。
「あれ、萩田君?」
そこには短髪でガッチリとした体型の男子学生、萩田亮平がいた。
「おっす」
講義室に入った壮介は、亮平の肩をポンと叩く。すると亮平はゆっくりと首だけを動かす。
「おう……」
亮平と目を合わせた壮介はその表情を見て少し目を見開く。
それはまるで何日も眠っていないかのように憔悴しきったものだった。
「どうした、顔色悪いぜ。身体の調子悪いのか? 前の講義出てなかったし」
その表情を見た壮介は、何となくバツが悪くなり頭を掻く。
「風邪か?」
壮介に続いて亮平の顔を見た洋も訊ねる。
「…………」
二人の問いかけに亮平は目を伏せる。そんな亮平の姿を見た二人は訝しげに顔を見合わせる。
「なあ、だ、大丈夫か?」
壮介は腰を落とし亮平に近付く。
亮平はあまり饒舌に喋るタイプではないが、基本的に明るい男。特に友達ともいえる壮介や洋の前でこのような表情になることは今までないことだった。さすがに壮介と洋は心配そうな表情を浮かべる。
すると亮平は視線だけを上に上げ、
「ああ、大丈夫だ」
と小さな声で壮介に答えた。
「そ、そうか……」
ようやく出てきた言葉に壮介は頭を掻く。
「あまり大丈夫そうには見えんが?」
洋は腕組みをして再び訊ねる。
「いや、大丈夫だ、すまん……」
今度はさっきより声のトーンが上がる。
それを聞いた洋は軽く息を吐き、カバンを開いて数枚の紙を机の上に置く。
「これ、前の講義のレジュメだ。お前の分取っておいたよ」
「ああ、悪い……」
亮平はその紙を手に持ち、目に通すことなく自分のカバンにしまう。
「まあ何か判らんけど、無理すんなよ」
壮介はそう言うと、亮平は壮介たちに向けて手を挙げた。それを見た壮介たちは自分たちの席へと向かった。
そしてその後ゼミの講義が行われる。
この日ゼミの発表は亮平だった。亮平の発表は淡々と進み、質疑応答では誰も手を挙げずそのまま終了となる。席に戻った亮平はずっと顔を伏せた状態だった。
壮介はそんな亮平の姿をずっと観察。すると後ろの席に座っている洋から一枚のメモが渡される。そのメモには綺麗な字で「大丈夫な感じじゃないな」と書かれてあった。
そして壮介もそのメモに走り書きをして洋に返す。
そのメモには汚い字で「俺もそう思う」と書かれてあった。
三
「では今日の講義はここまで」
戸山教授が講義の終了を告げる。
壮介はグッと背伸びをしてから使用したレジュメや本をカバンに仕舞う。
その後、亮平の方をチラリと見る。
亮平は無表情で壮介と同じような支度をしている。
「ホント、どうしたんだろうな……」
いつもと違う亮平の様子に引っかかりを覚えるものの、壮介は席を立つ。
その時だった。
コンコン……
講義室の扉をノックする音。
「はい?」
講義室を出ようとした戸山教授の動きが止まる。
こちら側の返事を待たずに外側から扉は開けられると、そこには二人の中年男性が立っており、ずかずかと中へ入ってきた。
「突然すみません、我々こういうものです」
男性の一人が胸ポケットからあるものを取り出し戸山教授に見せつける。それを見たゼミ生はどよめく。
男性が取り出したもの、それは警察手帳であった。
「ここに萩田亮平という学生さんはいらっしゃいますか?」
この発言に講義室中の視線が亮平に集まる。
この時、亮平はずっと顔を伏せたまま。その表情は窺い知れない。
「ああ、お前が萩田亮平だな」
すると刑事二人は動揺する戸山教授に目もくれず、亮平の傍に立つ。
「ちょっとお伺いしたいことがあるので、我々と一緒に来てもらおうか?」
亮平は顔を上げる。その顔は青ざめており、視線は定まっていない。その姿は明らかに動揺していた。
「ほら、立て」
亮平の様子に苛立ったのか、刑事の一人が亮平の腕を鷲掴みにする
「あの、すみませんが……」
後ろから戸山教授が声をかける。
「ん、何か?」
腕を掴んでいる刑事が煩わしそうに顔を向ける。
「萩田が一体どうかしたのですか? 彼は私の教え子の一人、知る権利くらいはあるでしょう」
戸山教授がやや強い口調で訴える。それに対し、刑事も強い口調で返す。
「この萩田亮平はね、今朝潮見川で上がった女性殺害の重要参考人なんですよ」
この一言により講義室が一気にざわめく。
「では彼が容疑者ということですか?」
「まだ捜査段階です。詳しいことはお答えできません。しかしいずれ答えは出るでしょう」
すると刑事は亮平を一瞥し、
「ほら、早く立て!」
机がガタンと大きな音を立てる。亮平は半ば引きずられるような格好で立たされた。
「ほら、ちょっとどいて」
そしてもう一人の刑事が反対側に立ち、亮平は両脇を抱えられた状態で講義室から出された。
「おい、待てって!」
一部始終を黙って見ていた壮介だったが、いてもたってもいられなくなったのか、講義室から出ていくのを見て立ち上がり、後を追おうとする。
「待て!」
しかし洋がそれを扉の前に立ち塞がり制止する。
「ちょ、洋!」
「今行ったって無駄だ。ヘタすると公務執行妨害でパクられるぞ!」
洋は落ち着いた解釈で壮介を宥めるが、その表情は壮介と同じくらい紅潮していた。
「警察もバカじゃない。何か重要なことを掴んでいるから、亮平の元へ来て連れて行ったんだ。今は、見守るしかない」
洋の言葉に、壮介は顔を伏せ冷静になろうとする。
目の前で友人が警察に連行されるという場面を目撃した壮介、釈然としない思いから両手で頭をバリバリと掻き毟った。




