第十三章 対峙
一
「まだ、駄目なんですか……」
病院の一室の前で、ある女性が項垂れていた。
「そうなの、まだ意識が戻らなくて、先生は今晩が峠とのことです。ご家族には先生から連絡してもらっています」
看護士が項垂れる女性に説明し、しばらくしてその場を立ち去った。その女性は顔を上げ、病室の扉を見つめる。その瞳は涙を溜めているためか潤んでいた。
「…………」
女性は目頭を袖で拭い、その扉へと近付く。そしてゆっくりとドアノブに手をかける。
カチャ……、
しかし女性はノブを完全に回しきらず、あと少しのところで手を止めた。そしてゆっくりとその手を離した。
「はあ……」
女性は扉の前で再び項垂れる。その手を扉に充てる。中の様子が気になって仕方がないのか。しかし扉の向こうから音は何もしない。
「亮平君……」
女性がその部屋の中にいる人の名を呼ぶ。その口調から彼女はとても彼に会いたがっているようだった。しかしそれは叶わない。
亮平は依然として意識が戻らず、面会謝絶の状態が続いている。彼がここに運ばれてきてからもう三日が経過しようとしていた。
女性はしばらくそのままの状態でその場に留まっていた。その姿はまるで扉の向こうにいる人へテレパシーを送っているかのようだった。
萩田亮平の回復、それはこの一連の事件に関係する人間の誰もが願うところであった。
この扉に向かう女性、川奈晶子もその人間の一人である。彼女は亮平の回復を家族や警察以上に願っていた。
「亮平君……、お願い……」
晶子は扉に向こう側にいる亮平にむけて呟く。それは心の底からの想いであった。
その時、静寂に包まれていた病院の廊下に、カツカツと足音が響く。その足音は複数で晶子の方へと近付いてきていた。
晶子もその足音に気付き、顔を上げて扉から離れる。
「…………」
晶子は足音のする方をじっと見つめる。その足音は明らかにこちらの方へと向かっている。
「家族の方かな?」
晶子はそう呟く。するとその次の瞬間、足音の正体が姿を現す。それは若い男性二人組であった。
そしてその二人の男性に、晶子は見覚えがあった。
「新谷さん……、藤田さん……?」
足音の主は壮介と洋であった。二人は晶子の姿を見つけるとお互いに顔を合わせる。
「ああ、晶子さん。ここにいらしていましたか。丁度良かった……」
壮介が笑顔で近付いてくる。晶子はそれをやや警戒し、顔を強張らせる。
「どうしました?」
その表情の変化に気付いた洋が晶子に訊ねる。すると晶子は首を軽く振った。
「いえ……、突然だったもので。お見舞いですか? 生憎ですが……」
「面会謝絶なのは知っています。ただ、俺たちの目的はそれだけじゃないんですよ」
晶子が言い終わる前に壮介が口を挟む。
「俺たちは、貴女に会いたかったんです」
壮介の後ろで洋が丁寧な口調で話す。
「わ、私に? な、何か御用ですか?」
突然のことに晶子は動揺する。寒々しい病院の廊下、晶子の頬が紅潮する。
「ええ、色々お話ししたいことがあったんです。あと聞きたいこともね」
壮介が一歩、晶子の方へ近付く。
「よろしいですか?」
その問いに、晶子は答えに戸惑った。壮介の目、それは彼女が今まで見たことのないものであったからだ。しかしこの場面において、彼女がそれを拒むことはできなかった。
「はい、わ、わかりました」
その言葉を聞いた壮介は笑顔で頭を掻いた。
「そうですか。いやぁありがとうございます」
ここで壮介は洋と再び顔を合わせる。洋もそれを喜んでいるのか口元が緩んでいたが、その目は笑っていなかった。
「ではここでは何ですので、場所を変えましょうか」
そして壮介は踵を返し、廊下を歩き始める。
晶子はそれを追うように、ゆっくりと歩き始めた。
二
三人は病院の外へと出て、近くにある終夜営業の喫茶店へと入った。時刻は午後八時とまだまだ宵の口で店内は客で賑わう時間帯ではあったが、この日に限っては店内に客はまばらだった。
喫茶店へ向かう途中、晶子は夜空を見上げていた。この日は冬晴れとなり、夜にはたくさんの星座と月が輝いていた。
「…………」
晶子はそんな夜空を見上げながら、壮介らと共に喫茶店へと入った。
店内に入ると壮介と晶子は先に席へと着き、後で洋が冷水の入ったコップ三つと灰皿をお盆に載せてやってきた。
「川奈さんもコーヒーで良かったですよね?」
洋が訊ねると晶子は静かに頷く。すると洋はお盆に載せてきたものをテーブルに置き、その場を後にした。
「あの、話って何ですか?」
晶子はお冷に口をつけてから壮介に訊ねる。すると壮介は笑いながら頭を掻く。
「あ、それは洋が戻ってきてからにしましょうか。ま、遠慮せずに」
壮介はそう言うと灰皿を晶子の方へ押しやる。しかし晶子は今そのような気分ではないのかそれを横へとやった。それを見た壮介は再び頭を掻いた。
程なくして洋が今度はコーヒーを三つお盆に載せて戻ってきた。
「お盆、置いとけよ」
壮介が洋にそう指示を出す。洋はコーヒーをそれぞれの前へと置いて壮介の横に座った。
「じゃあ壮介、はじめようか」
洋がそう言うと壮介は大きめの咳払いをした。
「川奈さん、突然すみません。ちょっとお伺いしたいことがあって来て頂きました」
壮介が晶子に向かって頭を下げると合わせるように洋も頭を下げる。それを見た晶子はやや緊張した面持ちながらも、壮介たちが顔を上げると同時に頭を下げた。
「まず今回の件について、今までで判ったことをお話しします」
壮介は冴子や嵯峨野との話の内容、そして壮介たちが亮平と再会したこと、亮平から受け取った手紙のことまで晶子に話した。
壮介は自分たちが知っていることの殆どを晶子に話した。「ある一件」を除いては。
壮介が話をし終わったとき、晶子の瞳は涙で溢れていた。
「そ、そんな……亮平君……」
晶子の頬を涙がつたう。晶子はそれを袖で拭った。
そして壮介はポケットからあるものを取り出す。それは亮平から受け取った手紙であった。壮介はそれを晶子に見せた。
「これが萩田君の言わば、遺書です。俺たち以外、まだ誰も読んでいません」
晶子はそれを受け取る。そして読み進めていくうちにその瞳から大粒の涙が零れ落ちてきた。
「亮平君……、亮平君……」
その涙が手紙の上にポタッポタッと滴り落ちる。壮介と洋はその光景を無言で見つめている。
「私、全然知らなかった……。亮平君の気持ち、全然知らなかった……」
とうとう晶子は両手で顔を覆ってしまった。テーブルの上に置かれた所々湿った手紙。壮介はそっとそれを自分の元へと引き戻した。
「川奈さん、これを踏まえてお聞きしたいことがあります」
壮介は手紙を仕舞うと晶子に問う。晶子はハンカチで顔を拭いてから、静かに頷いた。
「萩田君とリン・エイミの関係を、貴女は知っていましたか?」
すると晶子は目を閉じ、首を何度も振った。
「いいえ、別れてからのことは、全然知りませんでした。でもこんなことになるなんて……」
すると壮介は腕を組んで黙り込む。隣に座る洋もそれは同じだった。
先程まで涙を流していた晶子は、少し落ち着いたのかコーヒーに口をつける。
それを見た洋のメガネが光る。
「どうぞ、遠慮なさらずに」
洋はテーブルの端にあった灰皿を晶子の元へと置く。
すると晶子はすこし意外そうな表情を見せるもしばらくの間があってから少し口元を緩める。
「す、すみません……では一本だけ……」
そう言うと晶子はカバンからタバコとライターを取り出し、タバコに火をつけた。
「すみません、迷惑ではないですか?」
晶子の問いに壮介と洋はブンブンと首を振る。
「いえいえ大丈夫です。どうぞごゆっくり」
晶子は笑顔を作り、タバコを吸い続ける。その間、壮介と洋は大学の講義の話など他愛もない話をしていた。
そしてしばらくして晶子はタバコを吸い終わり、吸殻を灰皿へと押し付けた。
それを確認した洋は灰皿を手前へと引く。その光景に晶子はまた意外そうな表情を見せる。
「壮介」
「ああ……」
すると壮介はポケットから茶封筒を取り出した。
「あの、それが何か……」
壮介たちの不審な行動に晶子は何事か訊ねるが、二人はそれを無視する。
壮介は茶封筒からあるものを取り出す。
「!」
その「あるもの」を見た時、晶子の表情が一変する。その表情の変化を壮介たちは見逃さなかった。
壮介が茶封筒から取り出したもの、それは亮平が手紙と共に壮介へと送った吸殻であった。
晶子はその吸殻を見て表情が一変した。
何故なら……、
「これと、灰皿に残っているそれ、殆ど一緒ですね」
壮介がその事実を晶子へ突きつける。
「川奈さん、実はもう一つ、貴女にお聞きしたいことがあるんですけれど、よろしいですか?」
壮介の言葉に晶子はやや表情が青ざめ声を発しない。しかし壮介は続けた。
「或る寒い日の夜、リン・エイミを殺したのは、貴女ですね」
三
「な、な……」
表情が青ざめ、唇がガタガタと震え始めた晶子に対し、壮介は淡々と話し始める。
「まず川奈さん、貴女は俺たちに嘘をつきましたね。貴女は、リン・エイミのことを知っている」
その言葉に晶子は何も反応することはない。否、できない。
しかし壮介は話を続ける。
「実は昨日、俺はリン・エイミが働いていたフラワーの店長さんと話をしました。その中で俺は店長さんに、自分以外でリン・エイミについて訊ねてきた人間がいたかと聞きました。するとリン・エイミが殺される数日前に、彼女についてのことをしつこく訊ねてきた女性がいたということを覚えていてくれていました」
そして壮介はポケットから一枚の写真を取り出した。そこには亮平と一緒に笑顔で写る晶子の姿。それはまだ二人が交際している時に撮影された写真のようであった。
「これは先日萩田君のご家族から借りてきた、萩田君の部屋にあった写真です。店長さんに確認したところ、ここに写っている女性で間違いないと、そう言っていました」
そう言うと壮介はその写真を引っ込める。そして壮介は晶子の瞳をじっと見据える。晶子の視線はどこを見ているのか判らない状態だった。壮介は大きく息を吸い、話を続ける。
「そして、このタバコです」
壮介は茶封筒から取り出したタバコの吸殻と、灰皿に押し付けられた吸殻を手に取り見比べる。
「或る人が言っていました。タバコの吸い方は人それぞれだと……。言い換えれば人によっては特徴的な吸い方をする人も中にはいるということ。まさに、このタバコの吸殻のことではないですか?」
壮介はその殆ど同じ形をした吸殻を晶子の前に出す。それに対し晶子は思わず目を逸らす。壮介はその反応を見てから話を続ける。
「実はこの吸殻も萩田君から送られてきました。萩田君が何故この吸殻を送ってきたのか、その真意は定かではありません。ただ……」
壮介は晶子が吸った方の吸殻を灰皿へと戻し、亮平から送られてきた吸殻を自分の手元へと置く。
「俺はあの時、萩田君に犯人を知っているかどうか訊ねました。そしてその答えとして、萩田君はこの吸殻を俺に送ってきました。俺はこのタバコを吸った人間が犯人だと、そう解釈しました」
すると今まで視線を逸らしていた晶子がじっと壮介の方を見る。
「それが……どうして私だと?」
それは喉の奥から搾り出してくるような声であった。顔を下に向け、相変わらず唇はプルプルと震えている。
「以前お会いした時に、貴女は今日と同じようにタバコを吸っていましたね。その時、随分短くなるまで吸うんだなと思っていました。それがこの吸殻を見て、ピンときたんですよ」
そう言いながら壮介は頭をガリガリと掻いた。
「そしてもう一つ、ここをよく見てください」
壮介は小さなタバコの吸殻の先端部分を指差した。横にいる洋はそれを凝視するが、晶子はそれを見ているのか見ていないのか視線が定まっていない。
「ここ、僅かではありますが、赤いものが見えますね。川奈さん、よく見てください」
壮介の呼びかけに、晶子はようやく視点を壮介の持つ吸殻に合わせる。
「おそらくこれは血です」
それを聞いた洋のメガネが光る。
「壮介、もしこれが……」
洋がそれを言いかけるが、壮介はそれを制止する。
「これはあくまで俺たちの推測です。もしこれが殺されたリン・エイミのものだったら……」
その時、
バン!
突然晶子が両手でテーブルを叩いた。驚いた周りの客が壮介たちの方を振り返る。
「…………」
その後三人はしばらく沈黙する。しかし壮介と洋は決して絶句しているのではない。晶子が何を話すのかじっと待っているのだ。
そしてしばらくして、晶子の唇がまた震え始める。
「もう、もう……やめて……」
晶子は下を向き、震える声で話す。
「お願いだから、もう……やめて…………」
それを聞いた壮介と洋は視線を合わせる。そして壮介はその吸殻を茶封筒の中へと戻した。
「もう一度お聞きします。リン・エイミを殺害したのは、貴女ですね、川奈晶子さん……」
壮介は静かにそう訊ねる。
「…………」
それに対し、晶子は何も話さない。何も答えない。
ただ、とても哀しそうな嗚咽が、晶子の今の心境を物語っていた。
そして、しばらくして……、
晶子は、静かに、その首を、縦に振った……。




