第十章 リン・エイミ
一
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「はい、いらっしゃい」
或る日の深夜、フラワーの扉が開いた。そして扉の向こうから現れたのは、一人の青年だった。
「コースの方はどう致しましょう?」
フラワーの店長である嵯峨野はその青年にメニュー表を見せる。
「あの……初めて来たので、よくわからないんですが」
「では説明しますので、どうぞそちらのソファに」
青年は酔っているのか顔が赤く染まっている。そして嵯峨野に促され待合のソファに座る。
「まず三十分五千円のコースは抜きだけのコースとなります。四十分九千八百円のコースはシャワーを浴びて最後まで。六十分一万五千円のコースは後でマッサージがついています」
嵯峨野はほろ酔いの青年にコースを丁寧に説明する。青年は聞いているのか聞いていないのか、無言で相槌をうっている。
「どのコースで、六十分のコースがオススメですけどねぇ」
「…………」
しばらくの間があり、そして、
「このコースで」
青年は三十分のコースを指差した。
すると嵯峨野は一瞬表情が曇るもののすぐに笑顔に戻る。
「判りました。では前金で五千円頂戴致します」
そして青年はズボンのポケットから財布を取り出し、五千円札を嵯峨野に渡した。
「では用意をしますので、しばらくお待ちください」
すると嵯峨野は待合室にカーテンを敷き、奥へと消えていった。
三分程経った頃、嵯峨野の呼ぶ声が聞こえた。
「ではお待たせしました。どうぞ」
嵯峨野の呼ぶ声に青年はソファから立ち上がり、嵯峨野の待つ方へ。頭が痛いのかこめかみをコンコンと叩いている。
青年が案内されたのは、受付に向かって左側にある通路の前、掛けられているカーテンを開けて、その奥へと促される。
「ではごゆっくり」
青年はカーテンの向こう側へと入る。通路は狭く、人一人がやっと通れるくらい。そして照明も暗く、そしてピンク色となる。
「イらっしゃイ」
通路の奥で女性の声がした。青年がそちらの方へ振り向くと、そこにキャミソール姿の若い女性が笑顔で立っていた。
「あ……」
その女性の存在に気付き、青年はこの女性が自分の相手なのだと認識する。青年は女性の元へと歩いていく。
「ドうぞ、こちらヘ」
青年が前まで来ると、女性はその手を優しく握り個室へと案内する。個室は大体二畳程度のスペース。ベッドと小さな棚しかない簡単な造り。
「…………」
青年は女性の顔をみる。すると女性はニコッと笑う。
「ドうも、はじめましテ。ワたし、ボタンといいまス」
そう言うと、ボタンは深く会釈をする。青年もつられるかのように会釈を何度もしていた。
「オにいさん、おさけのんでル?」
ボタンはそう言いながら青年の頬を触る。青年はそれにビクッと反応する。そんな姿を見て、ボタンはクスクス笑う。
「ヨってるネ」
ボタンは笑いながら再び青年の手を握る。青年は恥ずかしそうな表情で苦笑いを浮かべる。
「ちょ、ちょっとね」
青年がそう言うと、ボタンはまた笑う。
「ジャ、おにいさん、ふくぬいでくださイ」
ボタンはベッドの下からプラスチック製のカゴを取り出す。
「ああ、はい」
そして言われるまま、青年は服を脱ぎだす。
「オにいさん、なまえハ?」
下着のみになったところで、青年はボタンに名前を訊ねられた。
青年は恥ずかしそうに答える。
「りょ、亮平……」
「オー、りょーへーネ」
ボタンは青年の名を呼ぶと、青年の身体をギュッと抱きしめた。
そして、最後に残った下着をゆっくりと脱がしていった。
二
「ネぇ、りょーへー」
或る日の深夜……、
サービスが終わった後、ベッドの上に寝そべる亮平を、ボタンが見つめる。その視線はとても優しいもの。
「リょーへー、わたしにずっとあいにきてくれル。ワたし、うれしいネ」
そしてボタンは寝そべる亮平の唇に自分の唇を重ねる。
「……」
亮平はボタンの身体を抱え、ベッドから起き上がる。その間も唇は重ねたまま。
そしてしばらくして、その唇同士は離れる。
「ボタン、いつもありがとう」
亮平はボタンに向かい、口元を緩め恥ずかしそうな表情を作る。それを見たボタンはクスっと笑い、亮平の隣に腰を掛ける。
「リょーへー」
ボタンは自らの腕を亮平の首へと絡める。
「おい、ボ、ボタン……」
亮平はくすぐったそうに、でも嬉しそうにボタンを再び抱き締める。
「ワたし、りょうへいのわらったかお、すきネ」
そう言い、ボタンは亮平の頬を優しく撫でる。
「サいしょにあったときからいままで、りょうへいはくらいかおしてること、おおかっタ。デも、いまはわらうこともあるネ」
そしてボタンは両手で亮平の頬に触れる。まるで大事なものを優しく包み込むかのような手つきで。
「ワたし、りょうへいのわらったかお、もっともっとみたイ。クらいかおなんかみても、つまんないネ」
ボタンは亮平の瞳を見据え、ニコリと微笑む。
「ボタン……、ありがとう」
亮平は自分の頬にあてがわれたボタンの手に、自分の手のひらを合わせる。
「リょーへー、なにかつらいことあっタ。ソれ、わかるネ」
二人はお互いの瞳のみを見つめる。お互いがお互いの温もりを感じているかのよう。そしてボタンは優しく話す。
「デも、つらいことあっても、わらえなきゃだめネ。ヒとは、わらえなきゃ、いきていけないネ」
ボタンは亮平に優しく微笑みかける。それにつられるかのように、亮平も微笑む。
「そうだな……。俺が笑顔になれるようになったのは、ボタンのおかげだよ。ありがとう」
するとボタンはさらに笑顔になる。
「ソうネ。モっともっと笑ウ。ソうしたら、りょーへーはもっとしあわせになれるネ」
そう言うとボタンは亮平の身体をギュッと抱き締める。そして亮平もボタンの身体を抱き締め返す。
しばらく抱き合い、亮平の方から身体を離す。再び見つめ合った二人は笑顔で唇を合わせる。
唇を離した後、ボタンはウフフと笑いながらベッドから立ち、窓側へ移動しカーテンを開ける。すると部屋を支配するピンク色の照明に外の光が混じりこんでくる。
「コこから、かわがみえル。アんまり、きれいじゃなイ」
フラワーの入っているビルの傍には潮見川が流れている。ボタンをその水面をガラス越しに指差す。
「デも、キラキラひかってるネ」
そしてボタンは視線を上に向ける。
窓の向こうの夜空、そこには煌々と光る満月があった。
ボタンはそんな満月をじっと見つめる。
「キょうも、おつきさまは、きれいネ」
その言葉に、亮平もベッドから降りて窓側へ。そしてボタンの横に並ぶ。
「ホント、キレイな満月だ」
亮平が窓際に来ると、ボタンはその亮平の肩に自分の身体を預ける。そして亮平もそんなボタンの身体を優しく支える。
「ボタン、月は好きか?」
するとボタンはニコリと笑い、頷く。
「オつきさまは、きれイ。わたし、すきネ」
そしてボタンは亮平の手をそっと握る。
「リょーへー……」
亮平もボタンの手を握る。お互いがお互いの手を握り合う……。
「ワたし、ほんとうのなまえ、リンっていう。コれからは、リンってよんデ……」
そう言うと、ボタン……リンはさらに亮平へ身体を預ける。
「……リン…………」
亮平はリンの身体をそっと抱く。
「リン、リン・エイミ……、ワたしの、なまエ……」
そして二人は時間がくるまで、ずっと寄り添って、夜空に光る満月を見つめていた……。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※
三
……………………
星も月も見えない漆黒の闇……、
そんな中に、一人の青年が彷徨っていた。
青年の名前は、萩田亮平。
彼は今、真っ暗な闇の中を重い足取りで歩いていた。
遠くで彼の名を呼ぶ声が聞こえるが、それには全く反応していない。
ただ、ただ真っ暗な闇の中、ぽつ、ぽつと歩いていた。
「リン……、リン・エイミ……」
亮平はうわ言のように、かつて愛した女性の名を呼んでいた。その女性は、もうこの世にはいない。
「…………」
亮平の足取りは段々と遅く、重くなっていく。
そして遂に、立ち止まってしまった。
「…………リン」
亮平はその場にしゃがみ込む。
「みえない、何も、みえないよ……リン」
亮平は地面に向かって呟く。そこには誰も、何もいない。外灯も何もなくて、亮平の周りはまさに漆黒の闇である。
「どうして、どうしてお前はいなくなってしまったんだ……」
そこにはいない誰かに話しているわけでもない亮平、その声には果てしない絶望感が滲んでいた。
「もう俺は、あの時みたいに笑えないよ、リン。リン……」
その時、地面にポタッ、ポタッと雫が滴り落ちる。
「俺はこれから、これからどうしたいいんだ。こんなんじゃ何も見えない。どこにも行けない。俺は何もできやしないんだ……」
亮平は地面の土を掴む。その手は汚れ、爪の間に黄土色の砂が入り込む。
「リン……お前がいたから、俺は歩いていけた。どんな暗くて怖い所でも、俺は歩いていけた。お前がいなかったら、俺はもう……動けないんだ……」
そして亮平は上空を見上げる。空には何の光もなく、暗闇として周囲と同化していた。
「そうだ、リン。俺にとってお前は、月の光だった。どんな暗闇の中でも、優しく足元を照らしてくれる、月の光のような存在だった。それさえあればどんなに暗くて怖い道でも、前に進んでいけた」
亮平は上空という虚空を見上げ、涙を地面に滴らせる。
「でも今は……そんな月の光さえ、ない。なにも、ないんだ……」
そして亮平は、そのまま蹲ってしまう。
「俺は、俺は……これからどうすればいいんだ……」
愛する者を失った男の悲壮な問い。それに答える者は、誰もいない。
自分の足元を照らす月の光を失った男は、もう動くことすらできなかった。
亮平は失ってしまったのだ。ほんの少し足元を照らしてくれる、リン・エイミという月光を……。




