影響は受けるけど流されない
エッセイを連載にして思ったこと:あらすじを書かなくていいのが楽
他の人のなろう投稿作品や
既存の発刊書籍を読んで、あるいは映画等を観て
影響を受けてしまうことがよくあります。
自分のものを書いていて、
あー、これ、あの作品のあの場面からのパクリだなとか
この発想が出てきたのは、あれを読んだ時にああ考えたからだなとか
そんなふうに思うことがよくあります。
いいことですよね?
他の作品のいいと思ったところや
他の作者さんの真似したいところは
とりあえず自分の作品にも取り入れてみる。
自分一人の力で実現できることなんて、たかが知れてるんだから。
でも
私、流されることが出来ないんです……。
他の作者さんの面白い作品を読んで
うわあぁぁあ! こういうのはこう書いたほうが面白いな!
かつて自分が書いたものに同様の材料を使ったものがあったけど、こう書くべきだったな!
そう思っても
次にもし同じ材料を使ったものを書くとしても、
その作者さんと同じ方法は取れないんです。
取らないんじゃないんです。
取れないんです。
自分が川の中でユラユラ揺れてる水草だとして
色んなものを読んで、そのたびにフラフラと揺れはするけど
根っこがやたら固く川底に食いついてて
自由に川を流されて行くことができない。
私は物真似作家を自称してますけど
物真似は出来ても、私は私のものしか書けない。
これはいいことなのか、悪いことなのか──
私は自由でいたいと思うけど、固く根を張ってるくせに、そんなの自由だといえるのか。
『流される』というと悪いイメージがあるけど、
すべての言葉にはいい意味と悪い意味があるのだとしたら
『いい意味で流される』ということも世の中にはあり、それはもしかしたら必要なことではないのか。
そんなことを
考えました。




