正解はいつでも中間にしかない
私は正解というものはいつでも中間にしかないものだと思っている。
文学的な視点からしか物事を見られない人は、正解というものは高い塔の上に隠された秘宝のようなものであると思い込んでいるが、数学的でないそれは一面的なものに過ぎない。
大衆的な視点からしか物事を見られない人は、正解というものはみんながやっていることだと思い込んでいるので、みんなが身を投げるために崖に向かって駆け出したら大変なことになる。
正解というものがあるのかどうかはわからないが、創作の評価に正解があるのなら、それは両方の視点から見た中間にあるものだと思えてならない。
道路交通においては『制限速度遵守型』と『交通のスムーズな流れ実現型』がとにかく『頑なに一面的なタイプ』の顕著な例である。
前者は制限速度を神のように崇め、遵守し、守らない者を悪魔のように嫌う。
後者はサッサと仕事を進めるような流れを重視し、それを滞らせる者をダメ社員のように嫌う。
私に言わせれば『交通全体の安全と円滑』がすべてであり、前者も後者もその両方においてダメである。なぜなら『お互いにぶつかり合っている』からだ。
ぶつかり合わずに『譲り合う』のでなければ、交通全体の安全と円滑を満たしているとはとても言い難い。
議論における『正解』も、中間にしかないものであろう。
議論というのはお互いの抱える『正解』を相手に納得させるものではない。
お互いの間に、粘土細工を作るような行為である。
そろそろ仕事に行かなければならないので途中で投げ出すが、否定されるのが嫌いなひとは、もしかしたら議論を『勝ち負け』だとでも思っているのではないだろうか?
討論はたぶん勝ち負けだが、議論は勝ち負けではない。
以前、私が『他人の話を聞かない』と言って激怒されたらしい方がいらっしゃったが、勘違いしないでほしい。
私は粘土細工を作っているつもりであり、そこに感情的なものは一切なかったとわかってほしい。
ちなみに相互様と似たような議論を直メでやり取りしたことがあるが、こちらはさすがにわかってらっしゃった。
粘土細工コネコネだよ。
そこに『あん! そこはもっと丸くしたいんだけど〜!』ぐらいの感情しかないよ。




