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ディベートはバトル、議論は弁証法がいい

 昔むかし──


 しいなは天上天下唯我独尊なひとでした。


 自分の言うことが世界で最も正しい!


 他のやつらなんてみんなクソムシだ! 滅びてしまえ!


 自分の考え方が世界の常識になれば、世界は平和で楽しいところになるのにと思っていました。




 議論では相手を負かすことばかり考えていました。


 自分が負けそうになり、自分のほうがもしかして間違ってるのかも? という状況になったら──


 なんとか死に物狂いで負けない方法を考え、テーブルをひっくり返してでも、急な用事を思い出してでも、勝敗をうやむやにして逃げました。




 そんなある日、私はヘーゲルの弁証法に出会ったのです。


 ヘーゲルの弁証法に出会ってから、私は変わりました。


 ヘーゲルの弁証法とは、簡単にいえば、自分の論と、相手の論の、その中間に新しい論を作り出すような議論のしかた。


 自分の論が絶対正義じゃない、相手の論も絶対正義じゃない──それならその中間に、お互いが逃げ出さなくてもいいような、新しい論を作ればいい。


 弁証法じたいはソクラテスさんの時代からあったようですが、テーゼ、アンチテーゼ、ジンテーゼ、アウフヘーベンといった用語を用いてひとつの──なんていうか考え方として確立したのはヘーゲルさんです。たぶん。


 正義なんて、ない。


 正義なんかに固執してたら相手を説得することは永遠にできない。


 相手の正義も聞いてみる。


 それが正義じゃないなと思っても、聞いてみる。


 互いの中間に、新しい正義っぽいものを作り出す。


 お互いに笑って、新しいものをお土産に持って帰れる。




『妥協』みたいに思われるかもしれません。


 でも妥協してるとしても、してるのは自分だけじゃなくて、相手もしています。


 というか私は妥協してるつもりはありません。


 ただ新たな視点を学んだと思うだけです。


 それは自分の正義にほんとうは自信がなかったからかもしれません。





 議論はこんな弁証法的に行うのがいいと思います。


 そうでないと議論する意味がない。


 どうせ相手は負けたとしても、相手の意見は変わらず、自分の意見を押しつけることはできないのだから。


 どちらの正義とも微妙に違う、いわば客観的な正義っぽいものを見つけ出すことができれば──


 議論をしてよかったなぁと思えるはずです。





 ディベートは議論とは違うと思います。


 お互いの正義を戦わせ合って、勝敗を決するためのバトルです。


 白黒つけます。


 灰色とかにはしません。


 それでいいんだと思います。


 だってディベートはバトルゲームみたいなものだから。





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― 新着の感想 ―
討論は、ひろゆき至上主義で、新たなものは何も生み出さない。 妥協といえば、言葉はわるいが、お互いが納得できる落としどころを探るのが、議論の本来の在り方ですね。
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