最近、一人称小説を書いていて抵抗を感じる
結構最近まで文学ヲタクでした。
読むのは主に現代のものよりも昭和初期までの日本文学と近代ヨーロッパ文学でした。アメリカ文学はどうにも苦手でほとんど読んでいません。
なろうで読んだり書いたりする時に、初めのうちは抵抗がありました。
視点の問題です。
私が読んできた文学にはちょっとなかった視点が主に使われているのです。
いわば『実況的一人称視点』。
ヨーロッパ文学には三人称が多かったように思います。
日本文学には『私小説』なんてジャンルがあることもあり、一人称が多かった印象がありますが──
決まって過去にあったことを回想する『手記』形式か、あるいは『日記』形式だったように思います。
なろう小説みたいな『実況』形式というのはちょっと記憶にない──。
だってそれは語り手が『体験しながら書いてる』形になるわけだから、不自然ですよね。「おまえ、アクションしながらよく文章書けるな!?」って思ってしまう……。
これってたぶん、TVゲームのアドベンチャーゲームとかの影響なんじゃないかと思います。
現在進行系で語り手が語る形式。
あるいは動画なんかではふつうの形式ですよね。
でも小説ではどうにも不自然。
中には語り手が最後に死んで、「俺は死んだ」とかもある。
死んだひとがどうやってその文章を書いてんだ!?
でも、途中から慣れて、自分でもやってみるようになりました。
いつの間にかそれが当たり前になって、私の一人称小説も基本実況形になりました。
実況形式のいいところは、とにかくわかりやすく、語り手の目に読者が自分を合わせやすいんですよね。
でもやっぱり不自然。
最近また抵抗を感じはじめました。
だからといって文学のように過去の回想や日記形式にすると、エンタメ要素が減るように思うんですよね。
そこで三人称!
三人称ならその場の中心となる人物をぽんぽん入れ替えられるし、元々『神の視点』なんて不自然な視点なんだから、不自然さを気にすることもない!
なろうの一人称小説で語り手がコロコロ変わるのがよくありますが、私、あれにも抵抗あったんですよね。
でも『もしも地球の支配者がねこだったら』であえてやってみました。コロコロ語り手を変えました。
結論としては、もうやりません。落ち着きがなくて……それに謎多きキャラの内面は謎なままがいい。
ゆえに『アニーの拳』では三人称の形式を採りました。むしろ主人公の内面だけは絶対に描かないようにしています。
三人称がやっぱり書きやすいです。
先日書いた短編『文学少女と文学ヲタクの違い』で、途中からまた実況形式になる時、モヤモヤして仕方がありませんでした。
でも回想形式にしようとしたらわかりやすさと面白さが減ってしまったので、やはり実況形式にするしかなかった……。
まぁ……
そのうちまた、こだわらなくなるんだろうな。




