太宰治『御伽草子』再読
学生時代、太宰治の『御伽草子』を読み、とても感銘を受けました。
それまでに読んでいた『人間失格』や『トカトントン』もよかったのですが(『斜陽』はよく覚えていません……)、「私にとって、太宰の代表的は、これだ!」と思うぐらいに気に入りました。
でも、どんなだったか思い出せと言われたら、よく覚えてなかったんです。
当時一番気に入ってたのは『浦島太郎』だったというのを覚えてるぐらいでした。
しかもそれの何がよかったかと聞かれたら、「なんか幻想的で、自分の知ってる話とは解釈がものすごく違ってて、新鮮な感じがよかった」と答えられる程度です。
歯がゆいので再読しました。
と、いってもユーチューブで朗読を『聴いた』のですが。
やっぱりものすごくよかったです。
四時間超えがあっという間でした。
物語は戦時中、防空壕の中で、爆撃の音などを聞きながら、父が幼い娘に御伽噺を聞かせるというものです。
ただし壕の中には読み聞かせる絵本などありませんから、父は記憶しているお噺を、自分の解釈で再構築したものを語って聞かせます。アレンジするのです。
そんな情景を『作者太宰』が描くという入れ子構造になっています。
悪い者のひとりも登場しない『こぶとり爺さん』──
批評のない国、何もない竜宮城を幻想的に描いた『浦島太郎』──
男と女というものをリアルに描いた『カチカチ山』──
とにかく静かな日本的風景を物語るだけの『舌切り雀』──
朗読もよく、没頭して聴き入りました。
でも再読すると、『浦島太郎』は亀がうるさい。
終始太郎さんを小馬鹿にした言い方をしていて、ちょっとムカつきました。
乙姫さまや竜宮城の、賛辞も批評も求めずにただ舞い踊り琴を弾く、その何もなさに心を打たれ、最後に玉手箱を開けて300歳のおじいさんになってしまうのを『美しい思い出は遠いほどに、より美しくなる』『ゆえにこれはハッピーエンドなのである』とする強引さにはびっくりしましたけど──
でもなんか、記憶とは違ってた。
『カチカチ山』のうさぎが卑怯で武士道にもとるから、『つまりこのうさぎは16歳の処女なのである』というところに爆笑! なるほど(笑)
再読してみて一番よかったのは『舌切り雀』でした。
無欲どころか生気がなくて、周りの者は嘘つきばかりだから会話をしたくないというおじいさんを、かわいく批判する雀の娘──
その娘をかわいがりながらも、おばあさんが舌を抜くのを黙って見ているだけのおじいさん──
それでいて恋するように、竹藪の中へ娘を探しに行くおじいさん、雪の中で倒れたのを見て口々に「どうしよう」と騒ぐ雀たち──
雀のお宿でおじいさんを接待する人形みたいにかわいい雀の娘たちの場面は太宰らしくなく幸せに満ち、思わずほっこり──
そして長居しないどころか何ももらわず、ただ娘がかんざしとして使っている稲の穂をもらって嬉しそうに帰るおじいさん──
財宝の詰まったおおきなつづらを背負って雪の中でその重さに倒れ、帰らぬひととなってしまうおばあさん──
そしてラストはまさかの意外すぎる展開──
物語全編に渡って流れる日本的な、それでいてとても虚無感漂う空気が素敵でした。
私は『作者を消せ!』というエッセイを書いたことがあります。
作者の主張なんて、物語を読むには邪魔なだけのものだから、そんなものは要らないというような内容のものでした。
『御伽草子』にはたびたび作者がしゃしゃり出てきます。『作者太宰は──』という主語で、作者の思うところを述べ、再構築した物語の意図を語ります。
それが、まったく、邪魔じゃないんです。
なぜならそれらはすべて『作者にはわからない』というような主張なんですね。強い主張ではなく、『この人物がどういう気持ちだったのか、作者にはわからぬ』などと、とても謙虚に主張します。
それでいてその主張はちっとも頼りないものではなく、かえって堂々としていて、読者はとても広い砂漠のような場所に投げ出されながらも「そこにいていいんだよ」と言われたように、ウンウンとうなずかされなから、気持ちよく座っていることができます。
砂漠の真ん中に投げ出されていても、そこに座って眺める景色はとても見晴らしがよく、とても心に染み入ってくる雨が降っています。
そしてそんな茫漠とした景色の中に、確かな人間洞察で、剥き出しの人間というものを、容赦なく、しかし謙虚に描き出します。
とにかくこの見晴らしのよさが心地いい。
これぞ文学だ、と思いました。
興味のある方は、どうぞ。
https://youtu.be/-P8pds0ozPg?si=GsrrohuSxhNbBGYO




