こんな批評はダメだ!
私は昔、文学批評をかじったことがあります。
かじっただけだし、学んだこともうろ覚えですが。
それでもそれ以来、文学作品(詩、小説)をネットで素人ながら批評することを何年かしていました。学んだことをその中で実践していたので、身についたことはあります。
『こんな批評はダメだ!』と自分に言い聞かせていたものがありました。
いくつかあるのですが、その中から『やりがちなこと』を2つだけ、紹介しようと思います。
・印象批評
批評の規準を自分の印象に置くやり方です。『自分にはこう読めたから、これはダメだ』あるいは『自分にはこう読めたから、これは良い』みたいな批評の仕方です。
とはいえ、どんなに優れた批評家さんでも、印象批評から脱することはできません。たとえ自分の印象ではなく批評理論に則っているつもりでも、どうしても人間、自分の好き・嫌いといった『印象』の色眼鏡をかけてしまいます。AIなら印象から離れて純粋に理論による批評が出来るのかな? それでも批評理論も人間が作ったものである以上、どうなのかわかりません。
小林秀雄さんぐらい知識と教養の引き出しが多ければ、印象批評をしても許されるようです。
引き出しが多ければ、色んな視点からの印象を並べてみることが出ます。その中から最もその作品に対する批評に相応しいものを選び出すやり方ならば、印象批評も客観的なものとなるようです。
ただ、ふつうのひとは視野が狭く、ひとつの考え方に縛られているのがふつうです。
ふつうのひとが印象批評をすると、どうしても『これは自分の印象では悪いものだから、悪いものに違いない』と頑なになってしまい、見方を変えるということが出来ず、自分の印象を絶対のものと思ってしまいがちです。
結局、印象批評が害悪になるのは、『これは自分の印象に過ぎない』ということの自覚がなく、他の見方も認めるという余裕がない場合ということになります。
無邪気に『これはあくまで自分の印象だけどー』というスタンスで行うなら、印象批評は当たり前のものであり、何も問題もないものといえます。それが単なる感想にとどまらず、作品の良し悪しを評価するものであっても、『あくまで自分の印象である』という自覚があれば良しということですね。次!
・規範批評
いわば『理論的な印象批評』です。
自分の中に『これはこうでなければいけない』という規範を作り出し、それに照らし合わせて作品を評価するやり方です。
たとえばハイファンタジーについて『ハイファンタジーというものは、まず主人公がトラックに轢かれて異世界に転生し、現代日本の知識で活躍し、チヤホヤされ、ハッピーエンドになるものでやければいけない。そして書き方は一人称で、読者が主人公に自分を重ね合わせることができるものであるべきだ』みたいな規範をもち、これに合致しない作品をすべてダメだとするような批評方法です。
これをやるととても世界が狭くなります。
自分の中に作った規範にハマらないものはすべてダメ、みたいなことになってしまいます。
ただ、もちろん批評ではなく、単に読者として読むだけなら、これはふつうのことでしょう。
自分の読みたい通りのものを期待して、それとは違ってたら『つまらん』といってブラバするのはもちろんふつうのことです。
ただ、その場合にも、自分の規範に合致してないものだからといって、『これは駄作だ』などと評価をするのは問題があるというだけのことです。単に『自分にはつまらんかった』でいいことでしょう。
また、たとえば自分の作った規範からはみ出しているものに対しても寛容な見方が出来るなら問題はないと思っています。
私は作中で『俺は死んだ』みたいに語り手が死ぬ終わり方を認めません。
『じゃあ誰が語ってるんだよ!?』と白けてしまうのです。死んだひとに文章は書けないはずです。『じゃあ誰がこの文章、書いたんだ!?』と、いきなり露出する作り物臭さに鼻がひん曲がってしまうのです。
でも、自分でも書くんです。
『俺は、死んだ』みたいなラスト、自分も書きます。
理論としては自分の規範は正しいものと思っていますが、それでも「もし納得できる『俺は、死んだ』が書けたら面白いな」と思うからです。
自分の規範がなければあやふやな、なんとなくな印象批評にしかならないので、理論に基づいた規範は作りながらも、それを絶対視しないことが大事なのです。
以上、うろ覚えでした!
もっと詳しい方からのツッコミ、お待ちしてます(*^^*)




