『わかりにくいもの』の正体は『自分の中にまだないもの』
何がいいたいのかわからない、意味がわからない、みたいな文章に出会うことがあります。
きっと書いたやつの頭がおかしいんだ、書き方が下手すぎて何も伝わってこないんだ──
そう思うのは簡単です。理解する必要がなくなりますから。
実際、ほんとうに書いたひとの頭がおかしかったり、書き方が下手すぎたりすることもよくあります。
でも、『わかりやすいもの』とは何か? と考えてみると、それは『自分の中に既にあるもの』だとはいえないでしょうか。
たとえば昨日観たテレビ番組があったとして、それについての話題を
『芸人のあのひとがああ言ってたのが面白かった。それをその後でアイドルのあのひとがひっくり返したとこ、たまらず笑った』
とか話されたとき、そのテレビ番組を観たひとにはとてもそれはわかりやすい話であることでしょう。
でも観てなかったら、わかりません。芸人が何を言ってたのか、アイドルがそれにどういう返しをしたのか、詳しく語ってもらわないと、わかりません。
これがまたインドネシアのテレビ番組の話だったら、ほとんどの日本人にはすごく難しい話になります。インドネシアのお笑い芸人やアイドルの勉強からまず始めなくてはならなくなります。
とにかく『わかりやすいこと』を重視する風潮というか、『なんでもわかりやすくすることはできる』『わかりやすくないのは書き手が悪いんだ』みたいな風潮があるように、私は思っています。
誰でもわかることをわざわざ難しくいうなら確かにその通りだと思います。
でも、大抵の一般人の知識や経験にないものをわかりやすくいおうと思ったら、まずはインドネシアのお笑い芸人やアイドルのことから書きはじめるしかありません。その、まだ自分の知識にないものを、読者さんに勉強してもらうところから始めなければなりません。
それを『わからん』『日本のお笑い芸人やアイドルの話をしろや』と理解をつっぱねて、『コイツの話がわからないのはきっとコイツの頭がおかしいんだ』『書き方が下手すぎるからだ』と決めつけるのは簡単です。理解する必要がなくなります。
うん。
何がいいたいのか、よくわからなくなった。




