小説を短く書く技術の研究
2005年頃、小説を書くのにいろいろと試行錯誤をしていた頃に自ブログに書いた駄文。
こんな考え方もある、という紹介です。
当時、やたらと原稿が長くなってしまう傾向があって、何が原因なんだろうかといろいろと考えてました。
フォグカウントを低めに抑えながら文章を書く癖がつくと、文の数が増える傾向がある。伝達事項ごとに文を分けるのだから当然だ。が、仕事、業務という世界で本当に伝えねばならないことは通常の仕事ならそれほど多くはない。だいたい文字よりも数字が重視される世界である。文は必要最小限で構わないのだ。だからロウフォグカウントの文を書く習慣があると自然と無駄を省く技術が身に付く。つまり情報のスリム化だ。
が、本来伝えるべき情報というよりも、鑑賞の対象となる小説となると話は全く変わってくる。私はこのサイトのあちらこちらで、小説を短くするのは技術が必要だと書いた。それを構成立ての問題と見られた、あるいは構文技術と見た方もいたかもしれないが、そうではない。もともとがロウフォグカウントの私の文から説明するのは難しいので、小説好きでもない私ですら知っているあの有名な書き出しの一文を例にあげて説明する。(もっともいまだにちゃんと読んだことはない……)
「国境の長いトンネルを抜けるとそこは雪国だった」
短い文だが、フォグカウントは比較的高い文章である。正規構文の形ではなく、主語もなく、条件節をくっつけた複文だ。しかもところどころにロジックの跳躍があり、明らかに書き手の主観が混じった表現である。出張に行ったK君が出張レポートにこういう文を書いた場合、上司が指摘しそうな修正点としてはおおむねこんな感じだろう。
国境 それは具体的には何でそれがあると判断したのか。どこのことを言っているのか説明要
長い 上記同様、根拠が曖昧。数字として示せないか検討要
抜ける 何が抜けたのかを示せ
~と これが条件と考えられた根拠および必要性が曖昧
そこは そこがどこであるのか、初出の言葉なので地名で示すこと
雪国 なぜ雪国と断定できたのか理由と根拠を示せ
真っ赤に要修正点を加えられた紙を持ち帰ったK君は腕組みをしながら、一生懸命その書き直しをする。
私の乗車した○月○日何時何分どこどこ発特急○○は、○○県と××県の県境にある△△トンネルを××県○○のあたりで通過した。気象はこのトンネルの前後で大きく変わるようで、辺りは一面雪景色であった。この事実により、私は雪国と呼ばれるこの地方がこのトンネルから始まっていると確信した。
最後の一文ではフォグカウントとは別に、違う問題がもう一つここにあることを示している。ビジネス文書では通常「事実」と「意見」は必ず分けるのが原則なのだ。つまり「雪国だった」ということはそこの地名が「雪国」でないとしたら、K君が判断した「意見」なのだ。事実としては、K君が体験したのは「雪景色を見た」ことであって、両者は違う性質のものだ。だからここは些細なことだが、文を別にしたのである。事実のための文と意見のための文として。
が、この文はビジネス文として書かれた文ではないのだから、上のようなことは全く問題ではないし、しかもフォグカウントが高めの構造であるにもかかわらず、分かりやすい。しかもビジネス文として要素分解して見せたとおり、実に多段階で多様な情報が込められていることがわかる。どうでもいいと判断されたいくつかの情報は、はっきりした確かな形ではないものの、読者が何かを推定できる書き方なのだ。これが小説家の腕というものなのだろう。そういう腕に恵まれていない私は、少なくとも、かの先生の数倍の文章量を書き記さないと同等の情報を読者に提供できないことになる。もし文章量が同じなら、伝えられる情報はずっと少なくなってしまうことになるのだ。これが小説を短くする技術の神髄ではないだろうか。
私のようなへたくそが、いきなりフォグの高い文を書くとおそらく本人ですら、文法的に正しい文になっているのか悩む事態を招きかねない。だから迷ったらロウフォグにすることにしている。分からんと言われるよりもましだからだ。