亀田 -03-
「古田っ!?」
僕の叫びはあっさりと強風に吹きやられた。おそらく彼女には届かなかっただろう。だけど、駆け寄る足音に気が付いたのか、女性はゆっくりと振り返る。
瞬間、僕は後悔した。
彼女は古田ではなかった。
確かに古田に似ている。けど、違う。顔の一つ一つのパーツは似ている。けど、違う。華奢な体つきも似ている。だけど、会わなかった年月による変化からではなく、何かが決定的に違うのだ。
僕は恐縮し、謝罪の言葉を口にしようとした刹那、目の前の女性が口を開いた。
「…… すみません、どちら様ですか?」
甘ったるい高い声。さすがにこれは間違いようがなく、僕は目を見開く。やはり古田だったのかと、安堵と共に混乱した。
「俺だよ、亀田だよ! 高校一緒だっただろ?」
なんでお前こんなとこにいんだよ死んだんじゃなかったのかよ、とはさすがに言えなかった。そのまま言葉を失った僕に、彼女はゆっくりと瞬きをひとつし、僕の言葉を反芻した。
「亀田 …… さん? 高校?」
訝しげな表情に苛立ち、僕が頷けば、彼女は困ったように微笑んだ。
「人違いでは? 私、看護学校卒ですから」
「え?」
彼女の言い分に、僕は再度混乱した。これは、あれなのだろうか、いわゆる世間には似ている人が三人いるとか言う、その一人なのだろうか。
混乱するまま、彼女を眺め、そして僕は鬼の首を取ったように思わず叫んだ。
「やっぱ古田じゃねーかよ! なんでとぼけんだよっ!」
胸に付けられたネームプレートには行書体で古田と刻まれている。僕が指摘すれば、思案するように眉根を寄せ、ふと、何か思い当たったように彼女は表情を曇らせた。
「…… もしかして、千代子のお友達?」
控えめな問いかけに僕は毒気を抜かれる。
「え?」
思わず間の抜けた声を出せば、古田は納得したように小さく頷き、小さくお辞儀をしながら自己紹介をしてくれた。
「初めまして。亀田君。古田千代子の姉の十和子です」
「え? 姉? …… えぇ? 古田の姉ちゃん!?」
漸く事態を飲み込んだ僕の頭は、羞恥でいっぱいになり思わず謝罪すれば、十和子さんはゆっくりと頭を振って許しの言葉を口にした。
「いいえ、こちらこそ、千代子を覚えていてくれてありがとう」
その言葉を聞いて、初めて僕は古田千代子がこの世にいないことを実感した。
今までふわふわと現実感のないものとして、宙ぶらりんに浮かんでいた古田千代子の死は、漸く現実感を伴って僕の中に落ちてきた。
十和子さんは妹と違って、随分と穏やかな人らしい。古田千代子は息を呑む程に鮮烈な美少女だった印象が強いけれど、十和子さんは特に目を惹くような雰囲気を纏ってはいない。確かに姉妹だからよく似ていて、整った顔立ちをしているけれども、妹のような華があるわけではなく、どちらかと言えば彼女の魅力は雰囲気のよさだろう。はんなりとした笑みで、周囲を和ませる人だ。
聞けば、現在オトヒメで新種ウィルスの基礎研究に従事しているらしく、昨日トコヨに上島したばかりらしい。もっとも交代要員ではなく、三週間後には再びトコヨを離れることになるらしいのだが。
屋上に二人で膝を抱えて座り込み(何しろベンチのようなものは一切無い)、海を眺める。透き通った碧羅の空に一番星が瞬いていた。
「そうかぁ。千代子とは委員会が一緒だったんだ」
僕が「ええ」と軽く頷けば、十和子さんは懐かしむように目を細めた。何となく、古田千代子に関わる高校時代の思い出を、さすがにあの放課後の話はできなかったけれども、訥々と話せば十和子さんは懐かしむように耳を傾ける。
そして、僕は思った以上に、古田のことを見ていたらしく、それなりに話をすることができたことに我ながら驚いた。それに、今まで悶々と彼女との相性の悪さに歯がみすることが多かったけれども、こうして冷静に彼女について話してみれば、実はそんなに嫌ってはいなかったのだと再発見することになった。
おそらく、古田も僕を嫌っていたわけではなく、お互いに竹下を軸に張り合っていただけなのだ。
また、彼女は辛辣と言うよりも、単に物事をオブラートに包むことが下手だったのだろう。そのことに気が付けば、あの歯に布着せぬ物言いも、確かに不快と言うよりは、あまりにも的確に図星を突くものだから、居たたまれなくなることが多かったが故に、苦手意識を持っていただけだと思い当たる。もし、何かの切掛けがあれば、仲良くなれていたかもしれない。
「亀田君はなんだか千代子と似てるね。あの子のことだから、実際、そんなに仲良くなかったでしょ?」
「えぇ?」
唐突な十和子さんの感想に、僕は思わず頓狂な声を出した。
「そ、そんなことは ……」
あるけれども、とは言えずにただ、「似てるってどこがですか?」と言葉を濁す。
「…… なんか、不器用そうなところが。あの子言うこときついけど、人を嫌うことはしない子でね。姉の私が言うのも変だけど、結構なお人好しだったんだよ」
ふふ、と古田千代子と同じ声で笑う。
つまりそれは、僕も取り繕うことが下手だと言うことなのだろうけど、思い当たる節もあるので反論することができない。
十和子さんの言葉はあまりにも的を射すぎていて、僕は思わず言葉を失った。
こう、人の本質を指摘できるところはやはり姉妹だからなのだろうか。ただ、やはり妹よりも、十和子さんの物言いは柔らかかったけれども。
僕は困惑してちらりと十和子さんを盗み見る。
十和子さんは海を眺めていた。空は既にシアンに溶け、透明な青い光が彼女の滑らかな頬の輪郭を淡く描き出している。
こうしてみると、やはり良く似ている。特に横顔の鼻梁から顎にかけてのラインは人形のように美しく、儚い印象は、やはりさすが姉妹だと思うほどだ。
古田千代子の、少し寂しそうなそれでも穏やかな微笑みなど見たこと無かったはずなのに、十和子さんの青い笑みの向こうに、少し幼さを残した彼女の横顔が透けて見えた。
彼女がいなくなって、もうすぐ4年。まだ、生々しさはぬぐえないだろうけれども、十和子さんの中でも確実に時は過ぎているのだろう。
十和子さんは僕の話を反芻するように、ぼんやりと瞳に残照を映していたが、ふと、ポケットを探ると、銀紙に包まれたチョコレートを取り出す。薔薇の形をした大手製菓会社の看板製品だ。
森林限界のため、日本ではカカオやコーヒー豆はあまり取れないけれど、まぁ、マスプロが可能なほどには台湾経由で輸入されている。勿論、和菓子や他の国内で材料がまかなえる菓子と比較すれば割高ではあるけれど、高級品とまでは行かない甘味だ。
「甘いもの平気?」
十和子さんの問いに僕は頷いた。銀色の薔薇が差し出され、僕は礼を言って受け取った。甘い香りが潮風に混じる。
「ああ、そうだ。…… 千代子のクラスメイトってことは、竹下美雪ちゃんって覚えてる?」
十和子さんの問いかけに、僕は思わず口の中のチョコレートを丸飲みしそうになった。
「え、ぇえ。はい」
動揺を隠しきれず、思わずうろたえれば、十和子さんは僅かに目を見開いて振り返った。
「彼女もここで働いてますよ。なんでも海洋生物だか、海洋環境だかを調査するような研究機関で事務をしているとか」
僕の話を聞いているのかいないのか、十和子さんは言いつくろうような僕の顔をまじまじと見て。
「もしかして、好きなの?」
ストレートに尋ねられ、僕は否定することもできずに黙り込む。十和子さんはくすくすと微笑んだ。
「やっぱり。…… なんだ、安心した」
「…… 何がですか」
十和子さんはにやにやと人の悪い笑みを浮かべていたが、僕が憮然として問いかければ、ふっと穏やかに囁いた。
「ん。美雪ちゃん、千代子と仲良くしてくれてたのに、最期まで義理を果たせなかったから。美雪ちゃんは優しいでしょ? 千代子も気にかけてたし、変に思い詰めてなきゃ良いけどって、少し心配してたんだ」
僕は十和子さんの言葉に眉を顰めた。その心配は決して的はずれではない。おそらく竹下は古田のことを引きずっているであろうことは、確実だ。
少なくとも高校卒業まではそうであったし、トコヨに渡る船に乗り込む彼女を発見し、あのどこかぼんやりとしたあどけない表情を見た時、今もそうなのだと確信した。
「別に竹下とはそんな仲じゃありませんから」
正直に告げれば、十和子さんは、ことん、と少し首を傾げた。古田千代子には見られなかったかわいらしい仕草だ。
「そうなの?」
「…… 相手にされていません」
自分で言って、落ち込んでいれば世話はない。十和子さんは何を思ったのか、軽く僕の背を叩いてくる。
「がんばれ、青年!」
無責任な激励に、僕は力なく笑った。あなたの妹が最大のライバルだなんて、さすがに言えなかった。