竹下 -05-
ふと、蝋梅の甘い匂いが鼻先を掠めた。高校生のままの意識で、もう春が来たのかと、思いを巡らそうとして、今の自分が高校生ではなく、成人式を迎えた大人で、さらにはお仕事の途中で休憩中だったことを思い出した。
あわてて、ぱちりと目を見開けば、見慣れた海中庭園。
沈んでいた記憶と、見ていた夢と、現実とがごっちゃになり、自分がどこにいるのか解らず困惑したのは一瞬だ。
「やばっ! 少し寝ちゃった!」
ぼやきながら腕時計を確認しようとして、自分に掛けられた白衣に気が付いた。ごく普通の、どこにでもある白衣。何の薬品が零れたのか解らないけれど、所々に得体の知れないシミが付いている。まじまじと見つめてみたけれど、見覚えのないものだ。しかし、何よりも白衣から香るのは蝋梅のような少し甘い植物の香り。
通りすがりの知り合いが、眠りこけた私に掛けてくれたのだろう。ありがたいのだが、これはどうするべきか。
私は困惑したまま、白衣を腕に掛け、腕時計を見た。幸いなことに先ほどからあまり時間は経っておらず、意識を失っていたのはほんの10分程度。しかし、少しの睡眠でも随分と疲れが取れたのか、思った以上に思考がクリアになっていた。
おかしな体勢でいたためか、少し痛む関節を伸ばしながら立ち上がる。
かたん、と何かが床に落ちた。
足元を見てみれば、銀色の紙に包まれたチョコレートが転がっている。中に砕かれたビスケットが入っている、薔薇の形に型抜きされた大手製菓会社の看板商品。
あまり間食をしない私のものではない。おそらく白衣のポケットに入っていたのだろう。
リノリウムの床に転がったそれを拾いあげる時、ふと天井を見上げる。水の青い揺らめきが、高い天井一面に映し出されていた。スクリーンを見やれば、いつのまにか月が出ていて、煌々と青白い光が海中までも照らし出し、更に乱反射を起こし海中テラスを青く染め上げていた。まるで、この箱庭すらも海に呑み込もうとしているように。
掌の銀色の薔薇を見つめる。チョコレートの銀紙ですら青く染まり、その表面にプリズムを浮かべている。
ふと、この薔薇を模したお菓子が千代子の好物だったことを思い出す。
奇妙な符号に私は眉根を寄せた。
チョコレート、リノリウム、海の底。
何よりも、ここは約束したクラゲの中。
何の根拠もなくこの白衣が千代子のものだと確信する。
先ほどからあまり時間は経ってない。もしかしたらすぐそこにいるかもしれない。私は海中庭園を走り抜け回廊へと抜ける。回廊から内宮は放射状に各エリアに繋がっているのだ。
螺旋状の階段と中央に設置された二台のエレベーター。
内宮の一階から、最上階まで吹き抜けになっている。私は手すりから身を乗り出し、上下の階段を見上げた。丁度、時間帯の狭間なのか、帰宅する人もおらず辺りに人影はない。
ちらり、とエレベーターを見れば、一台は最上階、もう一台も上昇している。私は上を向いた三角のボタンを連打するものの、反応の鈍いそれにじれて、階段に足をかけた。
階段を一番飛ばしに駆け上がる。普段運動していないことが祟って、すぐに息が切れてくる。
それでも、一階、二階と駆け上がったところで「竹下?」と気の抜けた声がかけられた。振り向けば亀田君が上着のポケットに手を突っ込んで、階段の踊り場に立っている。
「亀 …… 田、君?」
肩で息をしながら、彼を見上げ、思わず詰め寄る。
「千代子を見なかった?」
私の言葉に、亀田君は少しだけ目を見開いた後、眉根を寄せた。
「ちよこ …… ? 古田千代子か?」
「そう、これ! 千代子のなの!」
私が白衣を掲げてみせれば、亀田君は何とも言えないような複雑な表情を浮かべた。私は彼のその表情が何を意味しているか正確に読み取り、苛立ちと焦りを募らせる。
「おい、落ち着け」
「落ち着いてるよっ!」
自分でも落ち着いているとは思えない声。わかってはいるものの埒があかず、亀田君を無視して更に階段を駆け上ろうとすれば、手を引かれた。思わずつんのめりそうになるのを、亀田君が支えてくる。しかし、私が何すんのよ、と叫ぼうとする前に酷く冷静な彼の声が私を叩きのめした。
「それは俺のだ」
「え?」
思わず足を止めて振り返る。亀田君は居心地が悪そうに、ふっと私から視線をそらした。
「悪かったな。お前がベンチで寝てんのみて、起こすのもなんだったからさ」
彼の言葉に私は手の中の白衣を見おろし、次に亀田君を見上げた。亀田君は私を見ていない。ただ、ふて腐れたように視線を床の上でさまよわせている。
何を勘違いしていたのだろう。徐々に冷えていく思考で、千代子はもう4年も前に消えてしまったのだということを思い出す。
私は、一体、何を、期待、したのだろう。
海底庭園はおそらくリュウグウが建設された当初、それこそ私が産まれる前からリノリウムの床だし、薔薇のチョコレートは量産品で、私が子供の頃からのロングセラーだし、どこにでも手にはいる。私が今ここにいるのは、志願したからで、何も、何一つ不思議じゃない。
ただ、呼び起こされた過去の記憶と私の願望がごちゃ混ぜになって、夢を見ただけだ。
「………… そう」
私は掠れた声を絞り出し、身体から力を抜いた。
「そっか。ごめんね、取り乱しちゃって。これ、ありがとう」
私は苦笑いのようなものを浮かべた。笑っていないと泣きそうだった。亀田君は私の笑顔を、何か痛ましいものを見るように見つめてきたけれど何も言わなかった。
「私、仕事に戻るね。今、一番忙しいからさ」
そう、一気にまくし立てると私は彼に白衣を押しつけ、きびすを返す。歩き出した私に背後から「おぉ、がんばれよ」と声が飛んでくる。
私は振り返ることができずに ―― 頬がすでに濡れていたから ―― 軽く手を振って階段を下りる。
事務室に戻りながら私は、あの蝋梅の香りがする香水のメーカーを訊いてみれば良かったとほんの少しだけ後悔した。