竹下 -04-
オトヒメが寄島してから、目が回るような忙しさだ。処理する記録は膨大で、毎日データ処理に追われる日々だ。今夜も帰れそうにないな、と壁に掛けられた時計を見やり、私は再び目の前のディスプレイに視線を戻した。
いくつものセルが並んだ表と数値がずらずらと並んでいる。
私の仕事はマニュアルに乗っ取り、それらの条件を確認しながらできる限り手早く処理していくことだ。私は処理しなければならない記録媒体が、丁度半分になったところで手を休めた。
ぐっと背伸びをすればごきっと肩の辺りで骨が鳴った。辺りを見回せば、定時を過ぎているというのに、まだ帰宅している人は少ない。
「……疲れた?」
私の正面のデスクに座っている先輩がふと私に視線を投げてきた。私は苦笑いで応える。
「今が一番忙しい時期だからね。休憩してきたら?」
と僅かに“帰って良いよ”という言葉を期待した私を裏切る優しいねぎらいの言葉をくれた。私は言葉に甘えて席を立つ。喫茶室で抹茶オレをテイクアウトし、いつもの海中庭園へと降りた。
すでに夕方が過ぎて日が落ちているためか、大きな水中スクリーンの向こうに光はなく、暗い闇が広がっている。ただ、所々で接続されたオトヒメの信号灯が揺らいでいるだけだ。それは、まるで光が届かない深い海底に棲まう深海魚の発光みたいに、広い海では奇妙で頼りない。
「…… オトヒメ、かぁ」
感慨深く眺めるものの、あまりぴんとこない。そもそも、この大きなコンクリートの固まりが海に浮かんでいるのもおかしな話だ。
巨大スクリーンの向こうでは、小さな気泡がぷくぷくと水面を目指して沸き起こっていた。
いつものベンチに腰掛ける。
両手で持った紙コップの暖かさに、我知らずほぉっと一息ついた。口を付ければ、口腔に僅かな苦みと甘い抹茶の味が広がる。気が抜けたのか、一気に疲労感と睡魔が襲ってきた。
化粧が落ちないように気をつけながら、軽くこめかみをこすってみるものの、日頃の疲れが出てきたのか、どうもあらがいがたい。
ぐったりとベンチに深く沈み込み、意識さえもどろどろに溶けてしまいそうだ。私は、五分だけ、いや眠るんじゃなくて目を閉じるだけ、と自らに言い訳し、ゆっくりと瞼を降ろした。
耳が痛くなるほどの静寂。ふと、懐かしい声がよみがえる。
『次生まれ変わる時は深海魚が良いな。できるだけグロテスクなの』
見目の良い彼女が、どうしてそう呟いたのかは解らない。何も持たないあのころの私たちにとって、アイデンティティーを形成するに当たって、己の容姿というのは大変な地位にあったはずだ。
だけど、その容姿からちやほやされることも多かったであろう彼女は、少しもおごるところはなかった。むしろ、彼女は自分の容姿を厭っていることをうすうす気が付いてもいたけれど、私はそのことに触れることはなかった。
それは嫉妬からもあったし、なによりも、高校生にもなって彼氏も作ろうとせず、私とばかりつるんでいた彼女が、私をおいて恋人を作ってしまうことをおそれていたのかもしれない。
―― まぁ、確かに彼女のいかにも護ってあげたいと思わせるような容姿に惹かれるタイプは、たいてい彼女の逞しさを知って叩きのめされる羽目になるのだけれど。
だけど、私はその疑問を最期まで口にしなかった。
『深海魚にならなくてもマリンスノーはみれるよ』
私の言葉に、彼女は顔を上げた。透き通る黒い瞳が、真っ直ぐに私を映す。いつもはにこにこと愛想が良い彼女が、ふとした瞬間に見せる真顔は、私を少しだけ動揺させた。
『リュウグウとかオトヒメとかに乗れば、きっと見る機会もあるんじゃない?』
浅はかな私の提案に彼女はふっと笑みを掃いた。
『ねぇ、美雪、約束しよ? 徴労の義務はトコヨにいこうよ。私は大学に行くつもりなんだけど …… 二十歳にあの大きなクラゲみたいなところで、再会しよう?』
…… そして、私は、彼女をまだ、待ってる。