彼 -04-
「今日は散歩しろって言わないんだね?」
素朴な問いかけに、前田さんは僕の手からパンダを取り上げながら小さく頷く。
「今、雨が降ってるんですよ。しばらく続きそうです」
「ふうん……パンダ好きなの?」
どうやら今晩の散歩は免れそうだ。
目を休めるために、ディスプレイから目をそらし、パンダを模したハンドレストを優しく形を整える前田さんをみやる。
「そういうわけではないのですが……」
深い意味のない質問に、前田さんは意外にもちょっと変な表情を浮かべた。
はっきり言ってくれてもいいのに、まぁ、僕らの会話を向こうで聞いている人に何か言われるようなことなのかもしれない。
僕は気を取り直して尋ねてみる。
「前田さんの年齢なら、本物のパンダを見たことある?」
「そうですね。学生の時に一度だけ。中国に返還することになったからって、友人たちと皆で観に行きましたよ」
前田さんはそう言うと、僕へ視線を投げる。
「僕も一度だけあるよ。鎖国政策が提案される前だったけど」
「面白かった」
ゴッホ展から出ると、ミュージアムショップで購入したゴッホの絵がプリントされたクリアファイルをバッグに仕舞いこみながら彼女は言った。丁寧とは言えない手つきに、僕はファイルが折れてしまうんじゃないかとひやひやしながら見守る。
僕もディスプレイ用にポストカードを数枚買ってしまったので、折れないように電子書籍用端末のケースに挟んでバッグへと仕舞った。
「うん」
僕は彼女の感想に対して頷いた。
飾られた絵画の間に挟まれる、ゴッホの人生にまつわる出来事をまとめた説明を二人で読んで、かけられた絵を見ては、ひそひそ声で感想を言い合って――楽しかった。
「美術の教科書に載ってた『ひまわり』以外知らなかったんだけど、ヒマワリいっぱい描いてるし、ヒマワリ以外のお花もいっぱい描いてるんだね」
彼女の口をついて出た言葉に驚いて、思わず彼女を振り返る。
彼女が趣味に付き合わせるからと言ったから、てっきり美術鑑賞が趣味なのだと思ったのだけど。僕の顔を見て、彼女はバツが悪そうに視線をそらした。
「実はちょっと色覚多様性のこと、調べたんだ。そのとき、色覚多様性の人の視界を説明するのにゴッホの絵を使ってて、それで……気を悪くしたらごめんね」
「……いや、楽しかったし」
何故謝られているのかわからないまま答えれば、彼女は心の底から安堵したように胸をなでおろして見せた。
「ちょうど特別展やってるし、これは誘わなきゃって思っちゃった」
「そっか……ゴッホの絵、見れてよかったよ」
僕の言葉に、彼女は照れくさそうな、はにかむような笑みを浮かべた。
「うん、わたしも。ゴッホの絵、好きになった」
「ふ、」
「なんで笑うの?」
現金な態度に思わず笑えば、彼女は不服そうに眉をしかめてみせる。しかし、頬は緩んでいた。
「ゴッホの絵は色使いが大胆なわりに不安定というか、なんだか暗い絵だなと思ってたけど」
「少なくとも僕は暗いと思わなかったよ」
「え?」
僕は彼女の言葉を遮った。
「緑から赤が同系色のグラデーションになって、赤や緑が重なる強い青が明るい青になるんだ」
僕は彼女の手を取り、5色に塗られた指先の、人差し指から小指までをひとつづつ辿る。「だから、僕が見たゴッホの絵は落ち着いていて明るい絵だったよ」と繰り返して言えば、彼女は、「すてき」と呟いて、ヒマワリみたいな笑みを浮かべた。
しかし、それは一瞬で、次の瞬間、彼女は恥ずかしそうに目を伏せ軽く手を引く。僕は素直に彼女の手を解放した。
「どの絵が一番好きだった?」
気恥ずかしさを誤魔化すように彼女が問う。僕は少しだけ思案して答えた。
「……『星月夜』とか」
色覚眼鏡をかけてみた時は、風に揺らぐような筆致も相まって、少しだけ不穏な雰囲気を持つその絵は、色覚眼鏡をはずしたとき、とても明るいのに静かな夜になった。
彼の絵に唐突に表れる色彩の不調和は、眼鏡をかけていない僕の目にはとても繊細な線の輝きに見えたのだ。夜を描いた絵は特に。
「ポストカード買ってたね」
「――『ひまわり』のクリアファイル買ってたね」
僕が選んだポストカードを目ざとく見ていたらしい。彼女の指摘に、彼女が選んだクリアファイルが『ひまわり』だったのを見ていた僕は苦笑いで混ぜっ返す。
彼女は僕につられるように笑みを浮かべようとしたみたいだけれど、ふっと表情を陰らせた。
「……わたしもポストカード、買えばよかったな」
「え?」
「つい実用性があるもの買っちゃうの」
「堅実でいいんじゃない?」
僕のフォローに彼女は力なく頷く。
「でも……クリアファイル光沢があるから」
「うん、」
「家で色覚フィルターをかけてみたときにだいぶ感じ変わっちゃうよね」
「え?」
「そういうアプリがあるんだ。その、君が見てるように見えるアプリ」
「……」
「折角バイトしたんだし、図録を買えばよかった」
再入場できないもんね、とぼやく彼女に、僕は何とも言えない気持ちになって黙り込む。
だから、バッグの中から『星月夜』のポストカードを抜き出すと、彼女に差し出した。
「あげる」
「え? いいよ、悪い」
「色覚眼鏡のお礼……にもならないけど」
「……この後、焼き肉おごってもらうもん」
「それは僕が肉を焼く練習に付き合ってもらうだけだから。初めてだからうまく焼けるかわからないし」
それでも受け取ることをためらう彼女に「僕だけ2倍楽しむの悪いから、少しだけおすそ分け」と言えば、彼女は「何それ」と言って笑うと、「それじゃあ、ありがとう」と言って受け取ってくれた。
彼女は先ほど買ったクリアファイルの袋にポストカードをしまい込むと、大切そうにバッグの中へと戻す。その時間がなんだか居たたまれなくて、僕は先ほどから疑問に思っていたことを口にした。
「……そういえば、もし僕が眼鏡を拒否したらどうするつもりだったの?」
「その時は動物園でパンダ観ようって言うつもりだった」
「パンダ?」
「パンダなら白と黒だけでしょ? パンダの見え方は一緒だから」
彼女があまりにも無邪気に言うものだから、僕はつい意地悪をしたくなった。子供じみた照れ隠しだ。
「……それはどうだろう?」
「え?」
「普通の人の眼球が認識できるのって人で1千万画素に満たないんだけど」
「意外と低いんだ、」
「でも目から入力された情報を脳が補正処理をすると5億画素以上になるらしいよ?」
「え、ええ? どういうこと?」
いいリアクションだ。僕は思わず笑いそうになるのを必死に押しとどめながら、マジメな声で答える。
「補正処理によっては君と僕が見てるパンダはまったく違うかもしれないってこと」
「ええ……なんか意地悪」
「意地悪じゃなくて思考実験なんかで昔から議論されてる話だよ」
「む……じゃあ、今度はパンダを観に行こ!」
「え?」
「実験なら確かめなきゃ!」
彼女はびっと公園内にある動物園の看板を指さした。
唐突な彼女の提案に、今度は僕が焦る番である。彼女は戸惑う僕を横目に、どや顔で言い切った。
そもそもどうやって確かめるんだろ?
彼女の言い分に、さらなる疑問を投げかけようと口を開きかけたけど、僕は、結局、反論せずに頷いた。
「あざといくらいにかわいいよね」
前田さんの手の中からパンダを取り上げて言えば、前田さんは少しだけ驚いたように目を見開いた。
「かわいいと思ってるんですか?」
「え?」
思わず聞き返せば、前田さんはちら、と僕が机上に放り投げたパンダに視線を投げて、責めるようにつぶやく。
「扱いが少し……」
「これならハンドレストだよ?」
「そうですけど……まぁ、とにかく休憩は入れた方がいいですよ」
そう告げた後、前田さんは僕に向き直ると、「雨、見に行きます?」と尋ねてきた。前田さんの最悪な提案に、僕は顔を顰めて見せるしかない。
「嫌だよ……晴れてても嫌なのに、濡れたくない」
「じゃあ、ここでラジオ体操でもします?」
この人、ロクな提案しないな……?
付き合いますよ、などと宣う前田さんを無視して、僕は立ち上がった。
なんで、お、やりますか、みたいな顔をするんだ。するわけないだろ。
「お茶淹れるだけ。前田さんもいる?」
ラジオ体操なんかやる気はないと意思表示も兼ねて、仕方なしに尋ねる。すると、前田さんはふと思い出したように、提案してきた。
「そうだ。お茶と言えば、私、いいもの手に入れたんです――よかったらどうですか?」
「な、なに……?」
プロテインの類だったら断ろうと、僕は思わず警戒心も露わに尋ね返したのだった。
※ゴッホについての感想は芸術論を特に学んだことはない個人の意見です。




