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竹下 -02-

 てかてかと滑る白いリノリウムの床は清潔さだけが取り柄で、何の暖かみもない。壁も天井も真っ白な長い廊下と、消毒薬の匂い。


 院内の雰囲気を明るくしようと、床に暖かな色の絨毯を敷き詰めたり、壁紙をクリーム色にしたりすることが流行った時代もあったらしいけれど、今時そんなことをしているのは外来受付と小児科ぐらいで、大体の入院病棟はこんなものだ。


 夏だというのに、空調のせいだけでなく、ひやりとした空気が頬を掠める。個室が並ぶこの階が、酷く静かなせいかもしれない。


 私は<古田千代子>とネームプレートが出された角部屋の前に立つと、手にした小さな向日葵(ヒマワリ)の花束とチョコレートの箱を持ち直した。


 この部屋に入院している古田千代子は私の幼なじみだ。

 小学校に入る前の地域会からずっと一緒だった。1ヶ月前に、彼女が入院するまでは。


 煙るような霧雨が降る日の朝、私はいつもの通り、家から50メートルも離れていない彼女の家へと迎えに行った。

 私たちは同じ高校に通っていて、それは毎朝の儀式のように小中高と合わせて10年間続けられてきた日常だ。しかし、その日常は、彼女が入院したことであっさりと崩壊した。


 彼女が入院した経緯を、私はよく知らない。

 前日の夜に倒れ、そのまま入院したと聞いたのだが、その前日の彼女は元気に過ごしており、少しも具合が悪いそぶりはなかった。


 取りあえず一人で登校したものの、その日一日は落ち着くことがなかった。

 昼休みに、千代子は通信機器(携帯)を持って行っていないかもしれない、気が付いたとしても、返信する余裕がないかもしれないと思いながらも、彼女の携帯にメッセージを送ってみたが、やはり返信はなかった。


 その日の夜、私は意を決して彼女の実家に連絡した。

 電話にでたのは千代子の2つ年上の姉で、彼女は千代子が病院に携帯を持って行っていないこと、そして私が週末にお見舞いに行きたいと言えば「そんな大事(おおごと)じゃないから」とやんわりと断られた。


 それを聞いて、千代子はすぐに戻ってくるものだと思っていたのに、それから1ヶ月後の昨日、千代子が、正しくは千代子の母親が学校に退学届を提出しに来たらしいのだ。


 出席簿からいきなり消えた彼女の名前に、私は酷く動揺し、そして今、平日だというのにこんな場所にいるのだ。


 外界を遮断する曇りガラスがはめ込まれた白い扉を遠慮がちにノックすれば、中から「どうぞ」と高く甘い声が入室を促してきた。


 千代子の声だ。

 彼女が存在していることに、私は少なからず安堵した。


「や、調子はどう?」


 扉を開け、顔を覗かせれば、あつらえられたベッドに横たわる少女。私の幼なじみ。


 1ヶ月ぶりに見た千代子は、以前とそう変わりないように見えた。

 確かに、白い病室や白いリネンのベッドは、彼女の儚い雰囲気に拍車をかけていたが、そのちょっとした風でも吹っ飛びそうな華奢な骨格と、黒髪が映える象牙色の肌は生来のもので、決して病気だからではないと思う。


 彼女は私の顔を見て、ぱっと表情をほころばせた。もともと顔の造作は大変かわいらしい彼女である。砂糖菓子のように甘い表情を浮かべられれば、見慣れたはずの、しかも同性であるはずの私でも少しだけ動悸が乱れそうになる。


「美雪、来てくれたんだ」


 あまりにもあからさまな笑みを浮かべる千代子に、なんだか私の方が恥ずかしくなる。


「ん、今までこれなくてごめんね。これ、お見舞い。花瓶ある?」

「わぁ! ありがとう」


 近くの洋菓子店で購入してきたチョコレートの箱を差し出しながら問いかければ、千代子はこくんと頷いて、サイドテーブルの下の棚から小さなフラスコ型の花瓶を取り出した。


「ちょっと活けてくるね」


 私は花瓶を受け取り、一旦、病室を後にする。病室からでて小さく息を吐く。

 思ったよりも元気な彼女に、なぜか私は部屋に入る前までの安堵感が一切消え失せ、泣きたくなるほど不安になっていたからだ。


 なぜなのかは解らない。でも、確実に彼女が学校に戻ってくることはないだろうと直感した。


 私が花を活け、花瓶を手に病室に戻ると、千代子は枕を背にして上半身を起こしていた。私はサイドテーブルに花を置き、勝手にベッド脇に置いてあったパイプ椅子に腰掛ける。


「思ったよりも元気そうで安心した」

 私の言葉に、千代子はにこっと笑う。

「心配かけてごめんねぇ」

 あまり悪びれてなさそうな笑顔。千代子はいつもそうだ。

「ううん、それより早く良くなってよ」


 私の言葉に、千代子は曖昧な表情を浮かべる。しかし、私がその表情について問いかけるよりも早く、彼女は口を開いた。


「さっき、謝ってくれたこと、美雪のせいじゃないでしょ」

「え?」


 私が彼女の言葉の意味をはかれずに、疑問のまま視線を向けると、千代子はふっと花瓶に活けられた花を眺めた。つられるように私も花を眺める。


 華やかな黄色の向日葵。私の家の庭に咲いていた時は、青空の下、燦々と太陽の光を浴び、見るものを元気にしてくれそうだとさえ思えたのに、今は病院の白い部屋の中にくっきりと浮きあがり、どこか恋々と太陽を探しているかのようだ。


「来れなくてごめん、じゃなくて、来たくてもお母さんが病院教えなかったんでしょ?」


 私が思わず弾かれたように彼女を振り返ると、彼女は花に視線を向けたまま薄く笑っている。


「今日は来てくれて嬉しい。でも、この場所は誰に訊いたの?」

「………… 十和子(とわこ)ちゃんだよ」


 静かに尋ねられた問いに逆らうことができず、私は素直に答えた。

 十和子ちゃんは千代子の姉だ。小さい頃はよく遊んでもらっていたけれど、十和子ちゃんが看護士専門学校に入学してから、なんとなく疎遠になっていた。


 しかし、昨夜私がしつこく千代子の携帯に電話にかけていたら、どうやら携帯を保管していたらしい十和子ちゃんがでてくれたのだ。問い詰め、懇願すれば、彼女はだいぶ渋ったものの、最終的にはこの病院と、そして、彼女の両親が居ないであろう時間を教えてくれた。


「お姉ちゃんが?」

「うん。病院に入る時も、十和子ちゃんの名前借りた」


 意外そうに千代子が振り返る。私は再度頷いて肯定した。

 訪問者名簿に十和子ちゃんの名前を書くように指示したのも、十和子ちゃんだ。

 千代子は少しだけ考え込むように目を伏せ、そして、そっか、お姉ちゃんが、と小さく繰り返す。青みがかった白目を縁取る黒い睫が、彼女の頬に濃い影を落とした。


「…… 学校辞めるの?」

「…… うん」


 私が切り出せば、千代子は小さく頷いた。解っていたけれども、彼女が自ら肯定したことに、衝撃を受ける。


「…… そんなに悪いの?」

「それが、私にも解らないんだ」


 泣きたくなる気持ちを抑え込んで、震える声で尋ねれば、千代子は僅かに笑みさえ浮かべて見せた。その曖昧な答えに、私は「え?」と聞き返してしまう。十和子ちゃんは何も言ってなかったけれども、千代子はすごく悪くて、もしかしたら本人にも本当のことが伝えられていないのかもしれない。


 千代子は困惑した表情を浮かべたまま、実はそんなに身体の調子が悪いという自覚はないの、と前置きした後、

「でも転院するらしいよ……もっと遠くの病院に行くんだって」

 まるで人ごとのように彼女が告げた言葉は残酷だった。


「え?どこ?」


 反射的に聞き返すものの、頭の中で今起こっていることが上手に処理できずに、ただ、千代子を見つめる。千代子は困惑した表情を浮かべ、ゆっくりと頭を振った。


「私も教えてもらってないんだよね。でも、ここよりも田舎で静かなところだって言ってた」


 酷く嫌な予感がしている。

 千代子の両親は私から、否、私だけでなく、今まで千代子が築き上げてきた世界から、千代子を切り離そうとしているようにしか思えない。何か大声で叫びたくなる衝動に襲われるが、何をどういって良いのか解らなかった。だから、なんだか間の抜けた言葉しか引き出せなかった。


「………… ここも十分静かだよ」

 私の言葉に、彼女は小さく頷いた。

「うん、私もそう思う。夜になるとね、本当に静かだよ」

 千代子は微かに笑みを浮かべて、私を見上げてくる。


「小学校に忍び込んだこと、覚えてる?」


 唐突に千代子が切り出した話に、私は小さく頷いた。去年の夏祭りの時の話だ。

 お祭の帰り道、その場の勢いで、夜中の小学校の校舎に忍び込んだのだ。


 本来ならば夕方からは警備会社の警備システムが稼働するのだが、その日は警備システム自体が切られていた。その代わり、いつもならばひっそりと静まりかえっているはずの職員室には煌々と灯りがついていた。

 おそらく祭りで羽目を外すであろう児童達の補導に出回っていた教師達が、まだ詰めているのだろう。


 私たちは裏庭を横切り、二棟ある校舎の職員室の無い棟から忍び込んだ。施錠されている窓は、ある程度勢いを付けて上下にずらせば簡単にはずれる。女の子いえども、それなりにやんちゃをしてきた私たちにとって、それくらいは朝飯前だ。


 ブルーライトに照らされた給食室の横をすり抜け、二階へと上がる。3年生の教室だ。夜の廊下はひっそりと静まりかえっていて、祭りの賑やかさを残した街の喧噪が、耳を澄ませば聞こえてくるほどだ。


 採光のために大きく作られた廊下の窓にカーテンはなく、夜の青い光が余すことなく差し込み、目が痛くなるほどのコントラストを浮かび上がらせていた。リノリウムの床に反射し、天井に浮かぶ水面のような揺らめき。


 まるで、世界が海の底に沈み込んでしまったようだった。耳が痛くなるくらいの静寂。空気があまりにも動かないから、少しだけ息苦しくなって、窓の外を眺めれば、遠い街の灯りは、深海魚の発光にも似ていて、今にも巨大な魚が姿を現すような。


「……あんな感じ」


 夜の青い光をリノリウムの床が反射して、天井に水面を作る。彼女は、今夜もまた、その揺らぎを眺めて過ごすのだろうか。


「千代子 …… 行かないで」

「…… 行きたくないな」


 私の懇願と彼女の祈りはしかし、叶えられなかった。

 次の日には彼女は転院してしまった、と看護師から聞いた。そして同時に彼女の家族も引っ越していった。


 行き先は誰に訊いても解らなかった。なによりも、私は無力で、それ以上、彼女の行方を探るにはどうして良いのか解らなかった。


 そして、半年後のある日。

 まだ春の暖かさは感じないけれども、蝋梅の香りが漂い始めた頃、一通の手紙が届いた。真っ白の何の変哲もない封筒で、消印は潰れていて読めなかった。ひっくり返して差出人を確かめれば、十和子ちゃんからだ。


 はやる気持ちを抑えきれず、震える指先で封を切る。やはり素っ気ない白い便せんが二枚。

 そこには定例句のような挨拶文と、そして、千代子が闘病生活の末、亡くなったと書かれていた。葬儀はすでに密葬で済ませたとも。


 私は一瞬、それが何を伝える手紙なのか解らず、何度も読み返えすものの、視線は文字の上を滑るばかりで、ちっとも頭に入ってこない。


 まだ春が遠い、冬の日のこと。蝋梅の香りがやけに鼻に突く。

 そういえば、彼女はこの香りが好きだったな、と的はずれなことを思った。


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