前田 -02-
彼はこの<ウラシマ>という限られた空間において、とても自由だ。
また、懲役刑に服しているわけではないので、本来ならば彼に労働の義務はない。
しかし、彼はボランティアで人工知能? (疑問形にしてしまうのは、初めて彼の前でこの言葉を口にしたとき、不服そうに単語の定義がどうのこうのとごちゃごちゃ言ったからだ。が、理解できなかったのでついこの言葉を使ってしまう。最初の2回は訂正されたが3回目からは不満そうではあるが訂正されなくなった)の開発をしている。
業務用に与えられた仮の身分を用いて、本土にあるいくつかの研究所や開発チームと提携し、専用の回線(もちろん制限がかかっている)で、同時通信を利用して研究開発を行っているらしい。
私は専門ではないから、詳しいことはわからない。
だけど、「人間の脳に興味があるんだ」と、楽しそうにディスプレイを見つめて言う彼は少年のように無邪気だった。
彼の日課はトレーニングルームでの朝1時間、夕方1時間の運動の他に、陽が落ちた頃に海上を散歩することだ。
「本日、散歩されなかったそうですね」
「前田さん? あれ? いつの間に?」
ディスプレイを見つめながらタイピングし続けていた彼が、ふっと息を抜いたのを見計らい話しかける。彼は一度手を止めて、そして、ディスプレイの横に置いてある寝そべったパンダのぬいぐるみ(たまに手首の下に置いてタイピングしているからハンドレストかもしれない)を取り上げると、ぶにぶにと揉みしだく。
かわいらしい趣味をしているんだな、と思うのと同時に、潰されているパンダが可哀そうで、私は彼の手からパンダを取り上げた。
彼は私が働いた無体を責めることなく、ちら、と視線を投げてくる。
少し三白眼気味ではあるが、取り立て特徴のないこげ茶色の瞳。
「前田さん、今週は夜勤なの?」
「はい」
彼には明言されていないはずだが、私の業務のひとつは彼の監視である。
もちろん、艦内、特に彼の行動範囲内には随所に防犯カメラがあるけれども、基本的に彼には誰かしら付き添っている。彼が眠っている間も、彼の部屋の前で担当者が待機する程度に、彼にはプライベートがない。
監視者たちは基本的には交代制でシフトが組まれており、今週の私の勤務時間は1時間の休憩を含む21時から早朝6時までの夜勤である。
「一日一度は外に出るように指導が入っていますよね? 一応声掛けもしたそうですが」
「あ~……あの人、普段、僕と話してくれないから、話しかけられてると思わなくて、無視しちゃったかも」
引継ぎをした前任者の顔を思い浮かべて納得する。前任者はそういうスタンスなのだ。
彼はバツが悪そうに顔を顰めて見せた。
「集中してて、悪気はなかった。ごめんって伝えといて」
「承知しました。ただ、トレーニングもサボり気味ですし、せめて散歩くらいはされた方がいいと思います。こうも頻繁だとまた健康講習が入ってしまいますよ」
忠告に、彼は不服そうに頬を膨らませて見せた。
見た目は清潔感もあるし、それなりに若くも見えるが、ある程度歳を重ねた成人男性と言うか、はっきり言ってしまえばおっさんがしていい態度ではない。
しかし、ここでそのことを指摘できるほどの度量はないので視線だけで問い返すにとどめる。
「しょうがない、行くよ。ちょうど触ってた領域のデフラグしようと思ってたし」
「デフラグ?」
聞きなれない単語に思わず問い返せば、彼は呆れたように私を一瞥する。
「デフラグメンテーション、――フラグメンテーションしたメモリの中を最適化する処理だよ」
「……」
「散らかった記録を整理するんだ。人間の脳だって眠ってるときに似たようなことをやってる。前田さんだって、ずっと眠らないでいると迅速に判断ができなくなるでしょ」
彼の説明を聞いても、鈍い反応しか返せないでいると、彼は言葉を変えて再度説明してくれたが、やはり分かったような、わからないような表情を浮かべてしまったのだろう。
もう説明する気が失せた彼は、私の手からパンダを取り戻すと、デスクの上に放る。
かわいらしいものを好むのに扱いが雑なのはどうしてなのか。
私の非難するような視線に頓着することなく、彼は立ち上がるとぐっと伸びをして肩を鳴らす。
「ほら、行こう」
彼はそう言って先だって部屋の扉を開けた。
今夜は風が強い。空の高いところで淡い雲が流れていく。
先日よりも痩せた月の明かりを背に浮かぶタカマガハラの起電用静止衛星群。
既に日没から時間がたっているためか居住空間を有するオヤシロなどは地球の陰に入っており、外壁に設置された照明が瞬いているのを確認できるだけで、全容を観察することは叶わない。
しかし、はるか上空にはアマノイワトとオヤシロと呼ばれる宇宙基地を取り囲む47個の起電用静止衛星群が浮かんでいるはずだ。
彼は無作為に甲板の上を歩きながら、夜空を見上げる。
「前田さんは結婚してて、お子さんも居るでしょ?」
「はい」
唐突に個人的な話題を振られて驚きながらも、彼の意図が分からないまま、素直に返事をする。しかし、仮にも罪人である彼が、私の個人情報を事前に知っていたことを訝しく思う。そして、そのことが声音に出てしまったのか、彼は、ふふ、と喉の奥で笑った。
「君の情報は僕に知らされていないよ」
「……ではどうして?」
「ウラシマに配属される人はみんなそうだからさ、」
彼の言葉に思案する。
ここ、移動型人工浮島<ウラシマ>は、表向きは海洋環境のためのデータ取得のための運用、いや、実際に海洋データの取得は行われている。しかし、その一方で、宇宙太陽光発電機構の中央演算装置が毎秒算出する計算結果のバックアップを担う巨大な記録媒体でもあるのだ。
バックアップシステムは<ウラシマ>の他に本土にもあり、国防機構である防衛隊により警備されていると聞いている。しかし、防人に属する職業隊員である私にも正確な場所どころか、何ケ所あるのかさえも知らされていない。ただ、取り扱うデータの性質上、一か所にすべての情報を集めるのではなく、分散して保護しているらしい。
しかしながら、この海を漂う<ウラシマ>は、唯一完全なデータを有するバックアップシステムだ。翻せば、国防に関わるようないざというときは、この箱舟ごと海に沈めて隠ぺい、または敵からの奪略を防止するつもりなのだろう。
「ここに配属されるのは優秀で、何より、この国を裏切れない、守るものがある人だけだ」
確かに、この国を裏切るつもりはない。
でも、それは別にこの国のためではなく、自分のためだ。私が生まれて今まで築いてきたのは、この国を礎としている。私の生活に――私の家族にこの国は必要だったし、これからも必要だからだ。
「……優秀ですか。そう評価いただけるのは光栄です」
はぐらかすように揶揄ってみせれば、彼は心外だというように目を見開いた。
「事実だよ。優秀じゃなければ国家機密に携われない。そして、君のここでの就業期間は僕と必要以上に仲良くならないように、通常1年。本土に戻ったら出世が約束されているはずだ」
「……」
確かに彼の言う通りなので、口を噤む。
そもそも国防に関わるアマノイワトに配属された時点で、何らかの選別されているのだ。
返事がないことは想定内だったのだろう。彼は気を取り直したように私の方へと振り向いた。しかし、月明かりの乏しい夜の暗さでは、彼の表情は望めない。
「出会いはタカマガハラ?」
「そうです」
「今は本土?」
「はい」
「いいなぁ、もう桜の季節は終わったかな?」
「南の方はそうですね。北はまだ咲いていると思いますよ」
彼は再び私に背を向けると、ふらふらと散歩を再開した。
月明かりでできた淡い影が儚く、まるで亡霊のようだ。まるで、彼自身の存在を現しているかのような。
私もまた、一定の距離を置いて彼の後をついて歩きだした。