亀田 -05-
とうとうオトヒメが離岸する日を迎えた。
僕は先輩に断って、オトヒメの離岸の見学へと向かう。十和子さんに挨拶をしにいこうかとも思ったけれど、そんな時間取れないからいいよ、と本人に断られてしまった。そんなこともあり、見学場所は水面下にある海中庭園だ。
僕が巨大スクリーンへと向かうと、案の定、竹下がお茶を片手にぼんやりとスクリーンの向こうを見ていた。
「よぉ」
近づきながら声をかければ、竹下はゆっくりと振り向いた。僕を認めると、口の端に笑みを浮かべる。
「亀田君も来たんだ」
竹下はそう言って、ベンチの半分を明け渡してくれた。僕は軽く頷きながら、彼女の隣に腰掛け、巨大スクリーンの向こうにある大きな移動型人工浮島を眺める。あの箱船には既に十和子さんが乗っているはずだ。
彼女は、結局、竹下と会わなかった。さらには僕にも自分のことを口止めしてきたものだから、なんだか僕は竹下に対しても、微妙な後ろめたさを抱えることになってしまった。
僕がちらり、と竹下を見やれば、僕の視線に気がついた竹下がすぃっと僕へ視線を向けた。そして、少しだけ眉を顰めて、懺悔するように小さく呟いてくる。
「亀田君、こないだはごめんね」
何に対する謝罪なのか、竹下ははっきりとは口にしなかったけれども、先日の白衣の件のことだと理解した。結局、あの白衣は僕のものではないし、僕がしたことと言えばその白衣を十和子さんに渡したくらいだから、別に謝られることは何一つ無い。
「…… なんのこと?」
僕がとぼけてみせれば、竹下ははぐらかすように笑みを浮かべた。
「わかんないなら、別にいい」
でも、竹下は十和子さんと会わなくて正解だったのかもしれないと思う。おそらく彼女は、(十和子さんと会う前の僕と同じように)古田千代子の死を信じていないのだ。否、彼女の不在を信じていないと言うよりも、彼女の生を確信しているんじゃないかとさえ思う。
その信仰を壊す勇気も権利も、僕にはなく、また、十和子さんにもない。
「そお?」
僕が彼女の言葉を流せば、竹下は小さく顎を引いた。
「うん …… ん?」
なんとなく、釈然としないような表情を浮かべていた竹下が、ふっと僕を見上げる。僕はその視線に少しだけ胸を高鳴らせ、しかし、できるだけ平静を装って彼女を促した。
「どうした?」
彼女は少し低い鼻をひくひくさせながら、ことん、と小さく首を傾げた。無意識なのだろうが、かわいらしい仕草だ。
「亀田君、コロン変えた?」
「え?俺、そういうの何も使ってないけど …… 」
しかし、彼女の疑問は僕の範疇外のことで、僕が困惑しながら首を傾げ返せば、竹下はびっくりしたように目を見開いた。
「え? …… そうなの?」
「俺、なんか匂う?」
あまりに意外だというような表情に、僕の方こそ不安になる。確かに忙しいけれど、ちゃんと風呂に入ってるし、身につけるものも清潔にはしているつもりだ。不安になって、二の腕を引き寄せて匂いをかいでみるけれど、自分の匂いなんて判らない。
竹下は慌てたようにぶんぶんと両手を振った。
「ううん、そんなこと無いよ! ただ、ちょっとお花みたいな香りがしたことがあったから ……」
お花みたいな香り?
取りあえず、不快な形容詞でないことに胸をなで下ろしたものの、僕は首を傾げる。正直身に覚えがないのだが。
「あぁ~、たまに柑橘系の制汗剤使うからそれかな ……」
何とかひねり出した僕の答えに、オトヒメの離岸を告げるアナウンスが重なった。
接岸した時に見た光景が、巻き戻されるように、全く逆の手順が踏まれていく。竹下曰く、虫の足みたいな接続アームが切り離される時、がくん、と人工島全体が揺れた。
僕がからかい半分に「ちゃんと家具は固定してきた?」と尋ねれば、彼女は苦笑いを浮かべた。
「…… 棚からコンポが落ちてないことを祈ってる最中」
彼女の言葉に、僕は思わず笑ってしまった。
そして、昨夜、ここで竹下と会えたら、口にしようと決めていた言葉を言うべく、腹を決める。
「あのさ、竹下」
「ん~?」
ゆっくりと離岸していくオトヒメを眺めながらの竹下の緊張感のない返事とは反比例するかのように、僕は緊張のため速くなる動悸を何とか押さえ込みながら、勇気を振り絞る。
「今度呑みにいかね?」
馬鹿馬鹿しいほどになんてこと無い台詞。それでも、これは僕からしてみれば大きな一歩だ。あの、放課後の古田千代子に対する宣戦布告に近い。
「いーよぉ」
しかし、帰ってきた返事はなんてこと無い台詞に相応しく、やはり気の抜けたものだった。だけど、疑いようのない承諾に、僕は一瞬にして緊張が解ける。竹下は小さくなっていくオトヒメから視線を僕に移し、「どっか良いお店知ってるの?」等と尋ねてくる。
僕はそのことに少しだけ浮かれ、脳内でお店のリストをぱらぱらとめくりながら頷く。
「おぉ。なんかリクエストあるなら言ってくれれば」
思わず意気込んで答えるものの、相変わらず竹下は僕の気持ちなんて全く気がついていないようで、暢気に「ん~亀田君のお薦めで」と笑った。
「解った。じゃぁ、後で詳細を連絡するから」
僕の言葉に「うん、よろしく」と彼女は小さく頷いた。
そして、すぃっとベンチから立ち上がる竹下につられて、僕も立ち上がった。
「さて、と。私はそろそろ仕事にもどんなきゃ」
「ああ、俺も」
実際、実験中のサンプルがそろそろ結果を出す時間だ。
僕は竹下の後を追うように海中庭園を後にしてから、一度だけ、青い光を差し込む巨大スクリーンを振り返る。
青、その向こうに見える海の青、そして、水面を見上げた先にある青空。
今度、竹下を屋上に誘ってみようかと思いつき、僕は先を行く彼女に並ぶために足を速めた。