吸血鬼の髪色は何色か
突然の事だった。
一寸先すら見えない霧の中で私は彼とはぐれてしまった。彼は何かを掴んで走ってしまったのだ。
「それは私じゃない!」なんて言おうと思った頃には捕まってしまって、気が付けば宿屋の屋根の上にいた。
傍にはやけに肩幅が広くてあべこべな体形の老人が私の首を掴んでいる。
動こうにも、毒性の霧を吸ってしまったのか動かない。
「ほっほっほ…怒り?貴様の魔法は十分に見た。この距離では貴様は何もできんわ!」
老人は嬉しそうに笑う。その様子が何とも腹正しく、身体が動くならば蹴りの1つでも入れてやりたかった。
だが、そんな老人の笑顔を一瞬で消す事態が起きたのだった。
「は?」
老人はその市場の玉ねぎくらいある目を更に見開いた。
次の瞬間、私の元にも強烈な殺意が襲ってきた。それは先ほど老人が出した殺意とは比べ物にならない、どす黒くて息の詰まる殺意…まるで何十何百という人間に一斉に抱かれたような、とにかく規模の大きすぎる殺意だった。
この世の生物ならば、例え誰に操られようと、生きている限りは従うものがある。
それは「自分が死ぬかもしれない」という危機感だ。
今、恐らくこの町全ての生物が同じことを思っただろう。
「今ここで逃げなければ。死ぬ。」と。
圧倒的な殺意を前に、操られていた町民たちはその場に倒れた。例え精神を支配されようとも、圧倒的な殺意の前ではその身体が逃げる道を探してしまう。
この場合は、あらゆる行動をやめることこそが殺意から逃れる術、そう感じたのだろう。細胞単位の逃避行動が町民たちの動きを止めたのだ。
私だって、これは自分に向けられたものじゃないとわかっていても今すぐ夢の世界に逃げたいと思ったくらいだ。直に当てられればどうなるかわからない。
「馬鹿な!支配力をも上回る殺意じゃと!?」
驚いた老人だったが、直ぐに腕に力を入れようとしているのが感じ取れた。このまま私は首を絞められ…死んでしまうのか。
けれども、それは杞憂に終わった。
どす黒い血液が夜の闇に飲まれるように飛び散る。
腕が切り落とされたのだ。あの公爵の手によって。
「っ!!?」
そのまま屋根から落下する私を、彼は綿布団でも持つかのように抱えると、軽やかに地面に着地した。
「すまなかったね…って、麻痺でもしてるのか。回復魔法は使えないんだ。これで我慢してくれ」
そういって懐から苦い毒消しを口に突っ込んでくる。凄く苦い!
「ふざけおって!!!!!」
そうこうしているうちに老人も地面に降りてきていた。老人は切れた腕を抱え込みながら叫ぶ。
「腕を斬られて怒ったかい?それなら返してやるよ!」
彼はそう言って、私の首を掴んでいた腕を老人の方に投げる。
「馬鹿め!欠損さえなければいくらでも元に戻れる!この力があれば!!」
老人はそう言って斬れた腕を傷口に押し当てると一旦霧となり、再び実体化した時には元通りになっていた。
「馬鹿は貴様だ大馬鹿者め」
彼はあざ笑うかのように返事をする。同時に、老人の身体に異変が起き始めていた。
「ん?…く…ぬ…うぬぉ!!??????」
老人の身体は、まるで内側から何かが吹き出そうなくらいに膨れ上がり、それからパンッと音を立てて血肉を辺りにぶち撒きながら破裂した。
「既にその腕には私の魔力を注ぎ込んでおいた。そいつらは魔力の質にはうるさい奴らでね」
破裂と共に、闇夜には無数の青い蝙蝠が舞う。月の光を浴びた蝙蝠はまるで万華鏡のように不思議な色に変化していく。
「貴様の下賤な魔力よりも、私の高貴な魔力がお好みのようだよ?」
蝙蝠は自然と公爵の周りに集まってくる。
「ま…まだ終わってない!!!!!」
ようやく毒消しが効いたのか、声をあげることができた。だが、彼もわかっていたのかこちらを向いて頷く。
老人の血肉は、一か所に集まろうとグチュグチュと蠢いていた。彼はそんな様子を見て、足を使ってなぜか血肉を一か所にまとめていく。
すると、集まった血肉がむくむくと起き上がり再び老人の身体を形成し始めたのだ。
「無駄じゃよ。儂は既にこの町の全ての人間の魂を内包している。あと2987回殺さない限り、儂は死なない」
「町の全ての人間の魂…!?そんな…!」
驚く私に対して、公爵は冷静だった。それどころか、こんなことを言い出したのだ。
「嘘だね」
「「は?」」
不覚にも、悪魔と同じ反応をしてしまった。
「約3000人の魂を内包している?それは嘘だ。魂ってのは1つの身体に1つしか入らないものだ。それは悪魔だろうが吸血鬼だろうが一緒の事。この世の理だからね」
「な…何故貴様がそう言い切る!!人間の知識で悪魔を語るとは…」
「もう既に掴んでいるんだよ。お前の正体を」
老人が狼狽える。
「町の住民が操られているところからずっと探っていた。虫や鼠みたいなものならともかく、人間みたいな複雑な生き物は一度に複数の個体を同時に操ることが難しい。私でも難しい」
そう言って公爵は再生し続ける老人の肉体を再び蹴りで切り裂き動けなくさせる。
「一見すると複数の人間を同時に操ってるように見えたよ。細い魔術糸さえ見えなければね」
公爵は空に向かって生活魔法の一つ、明りを灯す魔法を放つ。光が空に向かって飛び、パッと空が明るく照らされる。その瞬間、空に浮かぶ奇妙な物体が姿を見せたのだ。
それは9つ程の眼球のある巨大な黒い球体に無数の触手を生やしたような見た目をしていた。明りが無ければ闇夜に隠れてしまい空にこんな巨大な物体が浮いていることなど想像もできなかっただろう。
「馬鹿な…!儂の隠密魔法は完璧なはず…!」
「いくら本体が隠れていても、その操る糸が見えてしまえば意味がないとも」
公爵は余裕ありげに嘲笑う。すると、老人の肉体は力が抜けたように倒れこむ。それに合わせて公爵は何もない空間に手を伸ばし、何かを掴む。
掴んだものを再び悪魔の肉体に押し当てると、悪魔は再び起き上がる。
「逃げようとは思うなよ。既に結界を張ってある。お前が本体に精神を戻すことは諦めるんだな」
「何故じゃ!!何故わかる!!!グッガァァァ!!!!!」
「痛いか?痛いだろう。お前の本体の魔術回路を直接刺激しているのだからな。神経を握り潰されるよりもキツイはずだぜ?」
恐らく、既に公爵は悪魔の本体に何かしらの魔術を行使しているのだろう。
「何を馬鹿な…グッギャィィアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!!!!!!!!」
「いいかい?しっかりと質問に答えてくれ。じゃないと痛みは永遠と君を襲う。ついでに言うと」
仮面を外す公爵。筋繊維が露わになっている顔が月の光を浴びる。その目は、赤い蛇の眼をしていた。
「貴様の言葉に嘘がある限り、毒が貴様を蝕む。毒はお前の本体を刺激する。それを踏まえて質問をしていく」
「…こんなことをしてタダで済むと思…グッ…グゥゥゥゥ!!!!!!!」
「誰が口を開いて良いと言った?貴様は私の問いにだけ答えろ。操り人形らしくな」
「ぐ…ぐっぅ…年寄りには優しくしてほしいものじゃがな…」
公爵はそんな悪魔の軽口を無視して質問をする。
「悪魔王はどこにいる?」
圧倒的な殺意を前に老人はすごすごと答える。
「儂は知らない。知っているのはダールニス…残る1柱の悪魔だけじゃ」
「何体も悪魔はいたのか」
「儂を含めて5柱が現世に召喚された。それぞれが世界各地に赴き、征服を試みた」
「残り1体、ってことは2体は誰かに殺されたわけか?」
「そうじゃ。誰に殺されたまでかは知らんがな。なぁ、もういいじゃろう?」
公爵は手を空に向ける。すると老人が苦痛の表情を浮かべる。私にはわからないけれど、何かしらの魔術的拷問が繰り広げられているのだろう。
「貴様は悪魔王よりも邪神の復活を優先していた、と解釈していいんだな?」
「そうじゃ。悪魔なんてものはそんなものじゃよ。どこまでも利己的な者ばかりじゃ。ダールニスも、口では悪魔王が、なんて言っておるが…内心は別の事を狙っているじゃろうよ」
「悪魔王ってのはずいぶん部下に恵まれていないんだな」
「お主は嫌でも関わることになるじゃろう」
老人はニヤリと笑う。
「お主の最後の力…破壊の化身はダールニスが従えておるからのぉ…」
「何…?」
「まぁ当の本人はあの獣が大いなる神の力の欠片とは思ってもいないがな!!!」
「…」
公爵はそれを聞くと、今まで赤かった目がスッといつもの色に戻った。それから立ち上がろうとする老人の肉体に火を放った。火は一瞬にして老人の身体を包み込み、バチバチと肉と脂が爆ぜる音が広がる。
「なんじゃ?もう質問はおしまいか?ならばせいぜい覚悟するのじゃな!運命からは逃れられない!必ずやお主の持つ力は大いなる神の手に戻り、お主は大いなる神の復活の糧となるだろう!!!!」
高笑いをする老人。公爵はただ、それを眺めるだけだった。
火が消え黒い炭だけが残ると公爵は忌々しそうに呟く。
「逃げられた」
「逃げられた?」
上を見上げると、確かにいつの間にかあの黒い球体は姿を消していた。
「あんなに大きいのが…いつの間に」
「大きすぎるっていうのも良くないね。魔術拘束もあそこまで大きいと難しい」
いつもの調子で気取ったように話し出す公爵。
「じゃぁまた襲ってくるかもしれないわけ…?」
「いや?当分は大丈夫だろう。こちらと会話ができるくらいのギリギリまで魔力回路をズタズタにしておいた。魔力が使えない悪魔なんて、そこらの獣とかわらない」
公爵はそういうと、空を舞っていた無数の蝙蝠たちに手を伸ばす。
「これで私はようやく人前に出れる姿になれる」
蝙蝠たちは公爵の周りを飛び、同時に霧が辺りを覆っていく。
「お帰り、我が分岐よ。ずいぶん窮屈なところに入れられたみたいじゃないか。心配しなくていい。君たちの城は健在だ」
私はこの目ではっきりと見た。
霧の奥を飛び交う無数のそれを。
あれは蝙蝠ではない。無数の魂だ。魂たちが公爵の中に入って行っているのだった。
▽△▽△▽△▽△
日が少しずつ昇り始める。
朝霧が街を覆う。
それと同時に、公爵の周りを取り巻いていた霧が晴れた。
「こんなところだったかな?」
公爵はローブの襟を整えながら私の前に立つ。その姿は、確かに20年前に会った姿とほとんど変わらなかった。色白で中性的な顔立ちの線の細い男だ。
「いやぁ~!長かった!ここまで長かったねぇ!メイアもそう思うだろう?」
ニコリと少年の様な笑顔を向ける公爵。だが、私には違和感しかなかった。
しばらく凝視して、その違和感に気が付いた時には「あっ!!」と声が出たものだった。
「どうした?」
「貴方の髪…」
「髪?ちゃんとあるぞ!?剥げていないとも!」
「いや…白髪だったっけ…?」
公爵はしばらくその場で固まり、それから相変わらずなんでも入っている麻袋から手鏡を取り出すと叫んだ。
「うっっっそだろ!!?」
万狂の霧鏡蝙蝠:もともとは霧の蝙蝠と呼ばれる森に多く生息する魔物。毒性の霧を散布する器官を備えており、集団で霧を散布して得物を狩る魔物。質の良い魔力を好み、時として魔術師の魔力を吸い取ろうと牙を立てたりもする。
「良い魔力を吸った蝙蝠は綺麗に輝くんだ。その輝きは宛ら月の光さ」