human.
人が死ぬ。世界のどこか、ぼくらのあずかり知らぬところで、いとも容易く。
数センチの金属片を、身体に打ち込めば、それで終わりだ。一秒もかからない。
今、この瞬間も、何十人、いや何百人もの人間が、彼らの愛した人間が、死んでゆく。
ぼくらは、それに見て見ぬふりをする。
ニュースの一面を飾るのは、一人の邦人の命。決して百万人のツチ族ではない。
数値として、彼らは実に平等に扱われる。百万人の中に、何が居たって誰も気にしない。
パラリと次の頁をめくるだけ。そんな軽い動作の内側に、何万人もの死が含まれる。
ぼくらは、それは悪いことだ、と言う。
見かけは援助、救済を叫びながら、しかしその心には何も感じていない。
当然だ。ぼくらはそこには関係ないから。
どうでもいい話で盛り上がった友人を、寝食をともにした愛する人々を喪っていないから。
知ったことじゃない。
みんな気づいている。自分の本心に。
でも、自分の過ちを認められる人は、ここにはいない。
ぼくらは、その嘘を固く信じ込める程には図々しいのだ。
聞きたくないことに耳栓をして、見たくないものにカヴァーをかける。
そして、歴史を繰り返す。
だから、僕はこれを悪いことだ、とは決して言わない。
駄々をこねる子供のように、開き直ればいい。
「わたしは彼らなんか知りません」と、正直に言えばいい。
あるいは、
一時の悲しみ。同じ惑星に住む、同じ種が殺し合うという悲しみ。
それを感じていればいい、という人もいる。それが「反省」だと。
その人は、悲しそうな顔で、こう言うのだ。
「誠に遺憾なことでございます」
民衆を銃殺するときのポル=ポトも、親友を殺したときのスターリンも、ユダヤ人をシャワー室に送り込んだヒトラーだって、そんな顔をしたかもしれない。
残念なことだ、と。
だから、その悲しみには何の意味もない。
ほら。
また、誰かが死んだ。
でも、ぼくらはそれを知らない。
そんなこと、一体ぼくらに何ができようか?