赤の女王
白ウサギはアリスを家のベッドに寝かせて、家を出た。
実はまだ仕事が残っていた白ウサギ。子供を一人家に残すのは心配だったが、あれだけぐっすり眠っているのだ。多分平気。…だと思いたい。
アリスの届けてくれた手袋をはめ、身なりを整え、仕事場に向かう。
あの、ハートの女王の城へ。
ハートの城は大変美しい城だ。幻想的な美しいデザインの城に広く美しい庭。
白ウサギが城に入ると、
「死刑だ!首を跳ねよ!」
と、美しい城に似合わない怒り狂った金切り声が聞こえて来た。
白ウサギが急いでその声の元へと走ったが、
遅かった。白ウサギの目の前で首のない人形のような体が、赤い液を吹き上げ、倒れた。
「・・・っ!」
血の匂いが白ウサギの鼻孔を刺激し、思わず戻しそうになった。もう何人目だろう。いつになっても慣れない。
「白ウサギか。」
死体の向こうに、一人の女性が居る。
ハートの女王だ。
女王の極悪非道っぷりは各地に広がるくらいだった。だが、女王を見た人は揃って、
「嘘だ・・・。」
と呟く。
女王はとても美しい女性だ。結構な歳だが、年齢も気にならないほど若々しい。キリッとした目元。艶やかな黒髪。だが、その美しい顔は意地悪く歪んでいる。
「遅い!」
女王が白ウサギの耳をガッと掴み、引き寄せる。白ウサギは痛みに顔を歪ませながら女王を見上げた。女王は白ウサギより遥かに背が高いのだ。
「時間に遅れるとは生意気だねぇ。いつからそんなに偉くなったんだい?」
女王が顔をぐっと近づけ、睨む。白ウサギは怯えきって掠れた声で言った。
「じ・・・時間どうりに来たはずですが・・・。」
女王が歯を剥き出した。
「0.1秒遅れたんだよ!ったく、前は10分前に着きやがるし、時間ピッタリと何度言ったらわかるんだい?!今度遅れたらお前の首を跳ねるからね!」
女王が乱暴に白ウサギを突き飛ばし、歩きはじめた。そして後ろにいたハートの王に、
「早く歩きな!」
と喝を入れた。王は、
「す、すまない・・・。」
と慌てて歩く。
白ウサギはまだ体が震えていた。恐怖もあった。だが、隅っこに、怒りもあった。
白ウサギは女王に(王にも)仕える執事だ。いつも傍にいて、彼らの予定やら何やらをきちんと把握し、支える。
別に苦にならない。何十年も続けてきた仕事なのだから。女王のわがままも多少平気。…死刑などはさすがに慣れるわけにはいかないが。
そう。メアリ・アンが殺されても、自分はずっと続けてきた。
何故あの時に辞めなかったか。生来白ウサギは真面目なウサギだ。何十年も続けてきた仕事を今更変える勇気がない。女王は憎いが、自分のこの仕事は好きだし、誇りに思っている。
だが、メアリ・アンのことは忘れない。いつか、いつか女王には償って貰う。
今日は色々な事がゴタゴタ起きすぎた。ぼんやりしてしまった。女王の華やかなドレスに思い切り紅茶を引っ掛けたのだ。
幸い怪我はなかったが、女王が怒っているのは一目でわかった。空気が凍り、張り詰める。白ウサギは真っ青になった。
「この馬鹿ウサギ!」
女王が歯を食いしばる。白ウサギは床にひれ伏し
「申し訳ございません!」
と必死に謝る。不意に顎を足で蹴られ、無理矢理上を向かされた。パンという高い音と共に白ウサギの右頬に衝撃が走り、カッと熱くなった。女王が平手打ちをしたのだ。そして耳を掴み、もう一発ひっぱたく。
「お前は本当鈍臭いね。危ないって何度も言っただろ?!お前のその耳は飾りか?!」
「…。」
白兎は返す言葉がなく、思わず黙りこんで女王をじっと見た。
「へえ、珍しく反抗的じゃないか。」
白ウサギは全くそんな気持ちはなかったが、女王が口の端をひくつかせて言った。そしてどんな恐ろしい罰を与えられるのかと身構えていると、ふと、女王が怪訝な顔をした。
「お前・・・その匂いはなんだ?」
「へ?匂い?」
白ウサギがキョトンとした。
「どんな匂いでしょうか?」
女王が顔をしかめた。
「この国の匂いじゃない。他の世界から来た人間の匂いだ。」
白ウサギはギクリとした。アリスのことを言っているらしい。慌ててごまかす。
「あの、今日私は人間界を通って来たので、その時に匂いがついたのだと・・・。」
「今日この国に侵入者がいたそうだな。」
女王が白ウサギをジロッと見た。
「まさか、匿ったりしているのか?」
白ウサギが絶句した。
「お前の手袋から匂いがする!」
女王がわざとらしく驚いた。
「お前は侵入者に触れたんだな?」
「その、洞穴の前に人がいて、押し退けたんです!」
白ウサギが言い訳する。女王がせせら笑う。
「ふん、何時間も一緒に居れならわかるが、押し退けただけでそんなに匂いが染み込むのか?」
白ウサギはぐっと黙ってしまった。
女王が高らかに笑う。
「ほんと、お前は嘘をつくのが下手くそなくせに、とことんしらを切るな!答えろ、侵入者はどこにいる?メアリ・アンのことがあったって言うのに、まだ懲りないのかい?」
今度こそ白ウサギは怒りをあらわにした。女王を睨み付け、拳を握る。女王は気づいているのかいないのか、まだ続ける。
「なんだい、お前?まだメアリ・アンのこと引きずっているのかい?この国の女より、人間界の女のがいいのかい?」
女王が悪魔のような笑顔を浮かべた。
「あたしが憎いかい?」
白ウサギは震えながら耐えた。今すぐ殺したい。目の前にいる、恋人のように愛した女性の命を奪った、この女の首を絞めて・・・。
「いえ、そんなこと・・・。」
反抗できる訳が無い。白ウサギはうなだれて呟いた。
女王がつまらなさそうに白ウサギを離し、居なくなった。
白ウサギの赤い目から、温かい塩辛い心がこぼれ落ちた。
ようやく仕事も終わり、白ウサギは家に向かう。
おかしい。今日の自分はとことん変だ。あの子を見た時からなんだか地に足がついていないように思えた。ぼんやりと浮かぶ私の心。この気持ちは…。
私はあの子のことをメアリ・アンと思っているのか?
そんなわけ無い。白ウサギは首を振った。あの子はあの子だ。メアリ・アンでは無い。似ているだけなのに、アリスに失礼じゃないか。
アリスは私のことが好きらしい。それは誰の目にも明らかだった。
私にどうしろと?あんなに小さな女の子を、どう扱えと?
なぜ私を好きになったんだ?私には君の想いを叶えてやる力がない。君はまだ子供じゃないか。
こんな物騒な国に来てまでなにをしたいんだ?
「よう。」
いきなり耳元で囁かれ、白ウサギは思わず声を上げそうになった。慌てて振り返ると、チェシャ猫がニヤニヤ笑いながら手を振っていた。
白ウサギは胸を撫で下ろした。
「チェシャ猫・・・急に出て来るのは止めて下さい!心臓止まるかと・・・。」
そしてチェシャ猫を見て顔をしかめた。
「そのはしたない格好はよしなさいと言ったはずですが?」
チェシャ猫は
「別にいいだろ。」
と欠伸をした。
「もうお仕事終わったの?」
チェシャ猫が木の枝にヒラリと乗り、寝そべる。白ウサギが答えた。
「ええ、今家に帰るところです。」
「ふーん。」
チェシャ猫がちらっと白ウサギを見た。
「あのアリスって子が待ってんだろ。」
「ええ。」
白ウサギはチェシャ猫がなんでも知っていることはわかっているので、普通に答えた。
チェシャ猫がニヤッとした。
「あの子メアリ・アンに似ているな。ねえ、白ウサちゃん?」
「だからなんです?」
白兎が素っ気なく言う。チェシャ猫が尻尾を振る。
「別に。けど、なんかひっかかる。」
チェシャ猫が白ウサギを見た。
「…俺さ、白ウサちゃん。あの子が鍵になるんじゃないかなあと思ってるんだけど、どうかなあ?」
「…なんですって?」
白ウサギはチェシャ猫が何を考えているのかわからなかった。
「もしかしたら、少ない確率でメアリ・アンと関係があって、俺たちの世界を変えに来たのかもしれないかもってな。」
白ウサギは顔をしかめた。
「何を馬鹿なことを。あの子はただ好奇心から私を追いかけてきただけですよ!」
「素質はあると思うんだけどなあ。」
ニヤニヤしているチェシャ猫を、白ウサギは睨み付けた。
「女王は、理由は不明ですが国の外の人間に異常に敵意をお持ちだ。アリスさんは、見つかり次第殺されてしまう。私たちの都合に付き合わせて、命を落としてしまうなんて言語道断です。あの子を無事に早く返さなくてはなりません。」
「大人の事情に付き合わすなってことか。でも、子供はそれに巻き込まれるもんだぜ?…いや、時には自ら飛び込んでくるけど。」
「黙りなさい!」
白ウサギはピシャリと言い、チェシャ猫を後にした。
「…まあ、子供って言いつけても聞かないことの方が多いからな。」
チェシャ猫は自分の口ソックリな三日月を見上げた。
「俺たちを救ってくれないか、アリス。」
アリスがもし目を覚ましても、不安にならないように灯した明かりが一つだけ付いた家に帰り、えんび服を掛け、アリスが眠る寝室に向かった。
アリスはまだ寝ていた。柔らかいベッドの中で、穏やかな優しい寝顔で深く眠っている。これは朝まで寝るだろう。
白兎はアリスの傍に行き、肩までしっかり毛布を掛けてやった。そして、少し迷ってから、アリスの頭を優しく撫でた。
どうか、この子の見る夢が、温かく、楽しい夢でありますように。