恋
ようやく白ウサギがお茶会にやって来た。
その時アリスは3月ウサギの膝の上に座らせられて、お腹や肩、脚、いろいろなところをまさぐられていた。アリスは目をぎゅっと閉じ、フルフル震えている。帽子屋が
「手癖が悪いぞ。」
と3月ウサギの手を叩くが、全く懲りてない。
「ああ~、子供って可愛いなぁ~この小さな口とかさぁ。」
いきなりアリスの口の中に3月ウサギの指が入って来た。
「んぐ?!・・・っん!」
アリスの大きく見開かれた目から、涙がこぼれそうだ。
それを見ていた白ウサギが思わず声を荒げた。
「3月ウサギ!何をしているんです!」
「白ウサギさん!」
アリスが白ウサギを見つけると同時に、スルッと3月ウサギから逃げ出し、白ウサギの後ろに隠れた。ひどく怯えた様子だ。
白ウサギが3月ウサギを睨み付ける。
「あなたは子供にまで手を挙げるんですか!同じウサギとして恥じ入ります!」
「えと、…ごめんなさい。我慢できなくて…。」
3月ウサギがしゅんとなって自分の手を見つめた。
白ウサギがそんな3月ウサギをふと悲しげに見た。
「…あなたの事情はわかりますが、」
そしてアリスに向き直った。赤い目が穏やかに光る。
「大丈夫ですか?」
「は…い。」
アリスは赤くなってボソリと言った。手袋を取り出し、白ウサギに渡す。
「手袋ありました。」
白ウサギが優しく微笑んだ。
「ありがとうございます。」
アリスの心臓がまた苦しく跳ねた。同時に、なぜだか泣きたくなってきた。なんだか、白ウサギが近くに居るのに遠く感じた。今すぐ大声を上げて駆け寄りたい。ぎゅって抱きしめたい。抱きしめられたい。大好きだと言いたい。
でもわからない。こんな気持ちは初めてだ。今まで父様たちや姉さん、友達や先生のこと、大好きって思うことはたくさんあった。だけど、今は「大好き」って言葉では足りない、もっとたくさんの気持ちが渦巻いている。そのたくさんの気持ちが胸の中に残って、重くてもやもやして気持ち悪い。その気持ちを外に出したくて胸がぎゅっと持ち上がるけど、全然出て行かない。もっと苦しくなるだけだ。
なぜか気持ちに焦りが出てきた。
「で、なんでここに来たんだ?」
帽子屋が紅茶を飲みながら白ウサギに聞いた。
白ウサギはア然とした。
「なんでって…あなたがお茶会に誘ったから来たんですよ?!」
帽子屋と3月ウサギが「呼んだっけ?」「さあ…。」なんてぼそぼそ話し始めた。白ウサギはため息を漏らした。
「ああもう。こんなことなら別に急がなくてもよかったな。何のために時間を空けたのか…。」
「まあまあ。せっかく来たんだからお茶でも飲めよ。」
帽子屋がなだめるように言うと、
「だからもともとそうするために来たんですよ!」
と白ウサギが怒ったように言い返す。
「約束を忘れるなんて!」
アリスが信じられないといった様子で首を振ると、3月ウサギが言った。
「ただからかっているだけさ。」
「あ、そういえば!」
白ウサギがアリスを見た。
「この子を元の世界に帰さなければなりませんね。」
「あ、3月ウサギさんヨダレ垂れているよ!」
アリスがごまかすように言うが、白ウサギがアリスの手を掴んだ。アリスの心臓がまた跳ねた。
「ごまかさないで下さい。さあ、私が案内しますから、帰りましょう!あなたはここにいてはなりません!」
「嫌…!」
アリスは白ウサギから離れた。まだ帰りたくない。まだ何もわかっていないのだ。もっと知りたいのに。
白ウサギが困り果てたような顔をする。不意に帽子屋が口を挟んだ。
「おいおい。アリスちゃんは君に会うためにここまで来たんだ。手袋渡してさようならはひどいだろう。何のために3月ウサギのセクハラに堪え抜いたんだか。」
そうだそうだ!と同意する3月ウサギの後ろ頭を帽子屋がパコーンと叩いた。
白ウサギが顔をしかめた。
「でもこの子にとってここは…。」
「そういえばさぁ、」
3月ウサギが遮る。
「君ぃ、ここまでどうやって来たの?この国の入口はかなり遠くにあるのに。」
「そうそう。聞かせてくれないか?」
帽子屋がそう言ってアリスに席を奨める。
「最初から最後までじっくりゆっくりね!」
3月ウサギがニヤニヤしながら紅茶をアリスに渡す。
白ウサギが慌てて言う。
「だめですよ!今すぐ行かなければ!」
「お茶会が終わるまではここに居てもいいだろ?ね?」
帽子屋がなだめながら、白ウサギにも席を奨めた。白ウサギはため息をついて、
「まあ、お茶会が終わるまでなら…。」
と言って渋々座った。
アリスは話した。白ウサギを追いかけ穴に落ちてこの国にやって来たこと。ドアを「説得」して先に進めたこと。途中で木苺を食べて小さくなってしまったこと。青虫に助けてもらったこと。白ウサギの手袋を届けることになったいきさつ。チェシャ猫の話。そしてお茶会。
アリスは話していて、実はまだ一日もたっていなかったことに気が付いた。一日でこれだけ濃い出来事が立て続けに起こるなんて、生まれて初めてだ。
この国に来てからアリスはいろいろなものを見てきた。すべてが目まぐるしく変化して、いろいろなことを知った。
もっと知りたい。
それを全部知った時、次は何が起こるんだろう?
「そりゃあ大変だったなぁ、よくここに来れたね。」
3月ウサギが目を丸くした。帽子屋が大きく頷く。
「恋する乙女の力ってやつだな。なあ、白ウサギ君!」
「馬鹿なこと言わないで下さい。」
白兎がぴしゃりと言い、少し考え込むように黙り込んだ。
「恋?」
アリスはハッとした。今の言葉が非常にしっくりきたような気がした。
あたしのこの気持ちは恋なんだろうか?でも恋と呼ぶにはあまりに簡単過ぎる気持ちだし、好きでは足りない。
確かに、白ウサギさんにときめいているかも。だけど、
あたしが好きって言っちゃっていいのかな?
その恋という言葉は、もっと重くて大切で、こんなに早急に決めちゃだめな感情なんだと思う。
せっかく答えが見つかったと思ったが、またわからないことが出て来てしまった。
アリスが白ウサギの方を見た。
「白ウサギさん。」
「何です?」
白ウサギもアリスを見た。アリスが真剣な顔をしていたので、白ウサギも真剣に聞こうとしている。
真面目な人なんだな。
アリスはなんだか照れ臭くなって、笑い出してしまった。
「えっ、あの…?」
白ウサギが混乱した。アリスは照れているのをごまかすように、
「えへへー。」
と笑いながら白ウサギの腕にしがみついた。白ウサギは混乱しながらちょっと笑った。「なぜ自分まで照れているんだろう?」と思いながら。
「おっ!やっぱりラブだね。」
「何言ってるんですか。」
帽子屋の言葉に白ウサギがツッコミを入れるが、
「そうだよぉ〜」
とアリスが悪のりする。3月ウサギが口を尖らせる。
「いいなぁ、僕のことは好きじゃないくせにー。白ウサギ君も3月になると、僕より凄いんだよ。気をつけてね、アリスちゃん。」
「余計なこと言わなくていいです!」
白ウサギが慌てて3月ウサギの口を塞ぐ。
アリスは皆がワイワイやっているのを眺めていた。いろんな人がいる。一人一人違う。同じ人はいないんだ。
人の数だけたくさんの恋があるのかもしれない。一途な恋。傍に居ない恋。今のアリスにはそれしか思いつかないが、たくさんたくさんあるのかも。
あたしはどんな風に恋をするんだろう?
「アリスさん?」
白ウサギが見ると、アリスは机に突っ伏してぐっすり眠っていた。
「疲れたんだな。」
「あ~口の端からヨダレとか可愛い…エロい!」
3月ウサギの空気の読めない発言に、帽子屋の蹴りが入る。どうやってもアリスは起きそうにない。
「どうしましょう?これでは帰すに帰せない。」
白ウサギに帽子屋が言った。
「君の家で一晩だけ泊まらせたら?」
「なんで私の家に?!」
白ウサギが驚いて聞いた。帽子屋が、
「答えは簡単。3月ウサギの傍にこの子を置いておくのは危険だ。」
とひそひそ言う。白ウサギは納得し、納得しないでよぉ〜と3月ウサギが抗議した。
「わかりました。では私はもう行かなければ。」
そう言って白ウサギはアリスをおんぶした。
「今日はありがとうございました。また今度会いましょう。」
帽子屋と3月ウサギにお礼を言い、白ウサギはアリスとともに家に向かった。
「ねぇ、白ウサギ君。」
帽子屋が呼び止めた。
「この子が君のこと、どう思ってるか、わかる?」
振り返ると、帽子屋が小さな笑みを浮かべていた。本当に微かな笑み。わかっているよね?と言う顔だ。
白ウサギはしばらく無表情で黙っていた。
「わかる。嫌というほどにわかりますよ。」
白ウサギがひっそりと言って、歩き出した。
帽子屋はしばらく黙って白ウサギの背中を見ていたが、3月ウサギが押し倒して来たので嫌でも目を背けることになった。
アリスの体温を背中に感じながら白ウサギは家路を急ぐ。もうとっくに夜になっていた。白い月が道を照らす。
「白ウサギさん…。」
アリスが呟く。
「大好き…。」
そして静かな寝息。どうやら寝言らしい。
白ウサギは悲しげな笑みを浮かべ、先へ進んだ。